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カルマの旋律7-1

 新しいカーテンに変えた。新しいワイングラスを買った。散らばった本は出版社ごとに並べなおした。壊れたらまた変えればいい。秀一に滅茶苦茶にされた部屋は、数日後にはすっかり元通りになった。

「先生、それではいったん、失礼しますね」

「ああ、ありがとう。また頼むよ」

 秀一が出て行ってから、神崎は家政婦を雇った。正確には、もともと雇っていた家政婦だったのを呼び戻しただけだ。還暦は過ぎている所帯持ちの女性で、雇用主の身勝手に文句のひとつも言わずに引き受けてくれた。
 綺麗に洗われる洗濯物、丁寧にアイロンをかけられたシャツ、見栄えも味もいい手料理。部屋はいつも塵ひとつない。無駄がなく均整の取れた綺麗な部屋で静かに摂る食事は、とても穏やかだ。穏やかだが、何か足りない。
 部屋はこんなに殺風景だったか。時計の音はこんなに気になるものだったか。洗剤の匂いはこんな匂いだったか。食事の味はこんなに薄味だったか。
 無礼を承知でそんなことを呟いたら、

「いやですねぇ、先生。何年、先生の家政婦してると思ってるんですか? 今まで通りですよ」

 と、家政婦の多田は言った。

 神崎は、佐久間秀一のことを考えた。彼が出て行ってから一週間経つが、なんの音沙汰もない。心配などしていないが、時々ふと思い出す。最後に彼が見せた泣き顔を。

 秀一の顔をハルカの顔に整形してから二ヵ月、一緒にいればいるほど秀一の元の顔がどんなものだったか曖昧になっていた。もともとそんなに印象に残る顔じゃなかった。器量は悪くはなかったと思う。けれどもあの泣き顔だけ、何故か神崎の目にははっきりと佐久間秀一に見えた。奥二重の切れ長の目を真っ赤にして、何本も涙の筋をつけて泣いていた。この世で一番憎い男の絶望した姿は気味が良い。――はずだった。実際に抱いたのはどういうわけか困惑だった。そしてそれから、神崎は時々考えている。
高校時代の彼はどんな人間だったろうか。普段、あまり振り返ることのない過去を、神崎は遡ってみた。

 ―――

 神崎は県議会議員の父親とそれを精力的に支える母親とのあいだに末っ子長男として生まれた。父の職業柄、世間体ばかりを気にする家庭だったので幼い頃は厳しく躾けられた。何かと言えば政務ばかりの父とはほとんど話をしたことがない。母は学校や塾の成績のことには口うるさかったが、神崎自身の人間関係や精神面にはさほど興味はないようだった。子どものために厳しくするというより、息子として連れて歩くのに両親が恥ずかしくないようにするための躾だった。それが影響したかどうか定かでないが、神崎は自分の不満や願望を訴えることができない子どもだった。我慢することが当たり前になり、いつしか感情を表に出さなくなった。

 中学三年の頃、両親を飛行機事故で亡くした。だが、神崎はまったく泣かなかった。哀しいとも思わなかった。それよりもどうして二人で飛行機に乗っていたのか、飛行機でどこへ行こうとしていたのか、旅行だったのか仕事だったのか、そんなことばかり考えた。

「面倒なことばかり残して死んで、こっちが迷惑だよ」

 と、こぼしたら、当時大学生だった姉に「あんたってどうしてそんなに薄情なの」と嘆かれたことがある。あまり可愛がられた記憶はない。少しでも我儘を言ったり反抗すれば叩かれて罵られた。こちらの言い分など聞こうともしない。だからとりあえず表面上は装っていただけだ。薄情になるのも無理はなかった。 

 そんな環境で育ったからか、神崎は他人に対しても関心を示さなかった。物心がついて自分が人より優れていると自覚してからは周囲を見下すようになった。浮いているのは分かっていたが、下等な同級生と協調する理由もない。自分を愛して自分を理解して認めてやれるのは、自分だけだと思っていた。

 佐久間秀一とは高校三年の時に同じクラスになった。一、二年の頃は名前すら知らなかった。定期テストの度に張り出される成績表のトップはいつも神崎だったので他者のことはあまり覚えていないが、三年になってから時々上位者に秀一の名前を見たような気がする。気がする、だけではっきりとは分からない。クラスでは秀一がどこの席にいたのかも知らない。ただ、休み時間になるとやたらふざけるグループがあって、秀一がその中心にいたのは覚えている。大口を開けて笑ったり、クラスメイトと面白くないコントをしたり、とにかく煩わしくて神崎は本を読みながら眉をひそめていた。

――神崎、なに読んでるんだ? 面白い? ――

そんなことを聞かれた気がしないでもない。だが、そこから会話に繋がらなかったので、たぶん無視をした。目をやるのも面倒だった。
 秀一に何か嫌なことをされたわけではない。存在がうるさかったから良い印象がないだけだ。温かいとも言えない家庭で育ち、両親とは打ち解ける間もなく早くに亡くし、愛情らしい愛情を受けずに育った神崎は、秀一とは合わないと思っていた。彼のように無駄に明るく、他人と打ち解けることを苦にしない人間は、周りから無償の愛を受けてきたはずだと決め付けていたのだ。そのくせ恋愛沙汰には不誠実で、節操がないという点も快くない。
 佐久間秀一に関する記憶はその程度でしかない。改めて思い出してもやっぱりイメージが逆転することはないし、高校時代の秀一がどんな顔だったかも忘れた。

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