カルマの旋律6-5
***
思い出したくもない過去を回想するうちに、歩いてマンションまで戻ってきてしまった。街中に佇むマンションを見上げて、どうして戻って来たのか自分を責めたい。友人に励まされて何か希望を見出したかっただけなのに、思いがけず本質を見抜かれてしまった。
秀一は神崎を最初から嫌いだったのではなかった。一度もこちらを見ようとしなかったから、無視をされたから、馬鹿にされたから、悔しさのあまり嫌いになったのだ。神崎が人と慣れ合わないのは人付き合いが苦手とか独りが好きとか、そんなレベルじゃない。自分以外の他人を見下しているだけ。目をやる時間も返事をする時間も勿体ないほど眼中にない。その中で唯一認められたのが、栄田ハルカだったのだ。
重い足を引きずりながら、神崎の部屋へ戻った。鍵は開いている。もう帰宅しているらしい。リビングに入ると入浴を済ませて、シャツとスラックスをラフに着た神崎がソファで座っていた。
「遅い」
「……」
「珍しく外出か。お前がどこに行こうが勝手だが、食事の時間は忘れるな」
「……」
「早く用意をしろ」
秀一は何も返事をせずに佇んだ。一体いつまでこんな生活が続くのか。一生このままだとしたら、あと何年耐えねばならないのか。神崎は動かない秀一の前に立ち、キャップを取った。
「またそんな格好をしているのか。このあいだ買った服はどこだ」
「……あんなのいらない」
「勘違いするな。あれはプレゼントしてやったわけじゃないんだ。俺の前にいるのに、汚らしい格好は見たくないから買っただけだ」
マフラーを解いて床に叩きつけた秀一は神崎を睨み、声を震わせた。
「いつまで……このままなんだよ……!」
「またその話か」
「いい加減にしてくれよ! いつになったら手術すんだよ! もういいだろ!」
「俺のタイミングで決める」
「んなこと言って、一生このままでいさせるつもりじゃねぇだろうな!」
すると神崎は鼻で噴き出したあと、くっくっく、と声を出して笑った。
「よく分かってるじゃないか」
「――!」
「元の顔に戻したら、罪の意識が消えてしまうだろう? お前は一生、俺のもとで懺悔しながら生きるんだ」
いよいよ絶望した。最初から顔を戻すつもりなんて神崎にはなかったのだ。気が狂いそうだった。いや、狂ったかもしれない。秀一は叫びながらテーブルの上にあるワインボトルもグラスもなぎ倒し、本棚の本を全部床に放り落とし、カーテンを引きちぎった。暴れるだけ暴れた。壊せるものは壊した。とにかく視界に入るものすべてを破壊したかった。神崎はそんな秀一を、冷たい眼で、どこか憐れんでいるような眼で、静かに見ていた。
「戻せよ!! 元の顔に!! もう見たくないんだよ!!」
「何故だ。お前も愛した顔だろう?」
わざとそんな風に言う。挑発だと分かっていながら秀一は荒れた。
「愛してない! こんな顔、好きじゃない!! 栄田ハルカなんか最初から好きでもなんでもなかったんだよッ!!」
「ならば俺が愛してやろう」
秀一は肩で息をしながら、ようやく動きを止めた。神崎がゆっくり近付いてくる。さっきまでの冷たい眼から一転した、慈愛に溢れた優しい顔。神崎はそんな微笑で秀一の頬に触れた。逃げ出したいのに神崎のこの眼を見たら金縛りに遭う。指が体に触れるとそこから熱が上がる。嫌なのに心のどこかで期待している。秀一は怒りなのか恐怖なのか、歯をカチカチ震わせた。
「怖くないだろう? いつも優しくしているだろう?」
ハルカ。
そう呼ばれて、さっと血の気が引いた。思い切り神崎を突き飛ばす。
「ハルカじゃない……」
「いいや、ハルカだよ。今のお前は栄田ハルカだ」
「違う……ちがうっ! 俺は佐久間秀一だ! ハルカじゃない! この髪も、この体も、声も! 俺の体だ!!」
「もういいから静かにしなさい」
「触るなァ!!」
パンッと神崎の頬を叩いたら、眼鏡が落ちた。裸眼で睨まれて震え上がる。首を絞められて、動きが鈍くなったところを床に倒された。首を押さえ付けられたまま、下を脱がされる。
「……っめ、ろ……」
「俺だって乱暴にしたくはない」
いっそこのまま殺して欲しかった。けれども死なない程度に苦しめるのが神崎のやり方だ。生命の危機すら感じているのに体は本能に忠実だ。
「いつもみたいに愛し合おうじゃないか、なあハルカ」
「ち、がう……か、えせ……返せよ……!」
俺の、顔を、返せ!
―――
散々抵抗しながら、結局乱暴にされることを許してしまった。手足を縛られ、押さえつけられ、何度もハルカと呼ばれながら優しくて残酷な愛撫に翻弄された。何が一番情けないかと言うと、これだけ自分自身を認めてもらえず、恨まれて蔑まれて、身代わりにされても正直な欲求には勝てないということだ。
困憊しているはずなのに一睡もできず、秀一は空が白みだすと動き出した。薄いカットソーと古びたズボンにダウンジャケットを着てマフラーを手に取った時、
「どこに行く」
いつの間に起きたのか、神崎に呼び止められた。
「ほっとけ」
「行く当てもないのにか」
「ここにはいたくない。俺はお前のセックスドールじゃない」
神崎の手を振り払って、最後に「死んじまえ」と残した。去り際に強く瞼に焼き付いたのは神崎の困惑した表情だった。秀一は歯を食いしばって、唇を歪ませながら、初めて神崎に涙を見せた。
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思い出したくもない過去を回想するうちに、歩いてマンションまで戻ってきてしまった。街中に佇むマンションを見上げて、どうして戻って来たのか自分を責めたい。友人に励まされて何か希望を見出したかっただけなのに、思いがけず本質を見抜かれてしまった。
秀一は神崎を最初から嫌いだったのではなかった。一度もこちらを見ようとしなかったから、無視をされたから、馬鹿にされたから、悔しさのあまり嫌いになったのだ。神崎が人と慣れ合わないのは人付き合いが苦手とか独りが好きとか、そんなレベルじゃない。自分以外の他人を見下しているだけ。目をやる時間も返事をする時間も勿体ないほど眼中にない。その中で唯一認められたのが、栄田ハルカだったのだ。
重い足を引きずりながら、神崎の部屋へ戻った。鍵は開いている。もう帰宅しているらしい。リビングに入ると入浴を済ませて、シャツとスラックスをラフに着た神崎がソファで座っていた。
「遅い」
「……」
「珍しく外出か。お前がどこに行こうが勝手だが、食事の時間は忘れるな」
「……」
「早く用意をしろ」
秀一は何も返事をせずに佇んだ。一体いつまでこんな生活が続くのか。一生このままだとしたら、あと何年耐えねばならないのか。神崎は動かない秀一の前に立ち、キャップを取った。
「またそんな格好をしているのか。このあいだ買った服はどこだ」
「……あんなのいらない」
「勘違いするな。あれはプレゼントしてやったわけじゃないんだ。俺の前にいるのに、汚らしい格好は見たくないから買っただけだ」
マフラーを解いて床に叩きつけた秀一は神崎を睨み、声を震わせた。
「いつまで……このままなんだよ……!」
「またその話か」
「いい加減にしてくれよ! いつになったら手術すんだよ! もういいだろ!」
「俺のタイミングで決める」
「んなこと言って、一生このままでいさせるつもりじゃねぇだろうな!」
すると神崎は鼻で噴き出したあと、くっくっく、と声を出して笑った。
「よく分かってるじゃないか」
「――!」
「元の顔に戻したら、罪の意識が消えてしまうだろう? お前は一生、俺のもとで懺悔しながら生きるんだ」
いよいよ絶望した。最初から顔を戻すつもりなんて神崎にはなかったのだ。気が狂いそうだった。いや、狂ったかもしれない。秀一は叫びながらテーブルの上にあるワインボトルもグラスもなぎ倒し、本棚の本を全部床に放り落とし、カーテンを引きちぎった。暴れるだけ暴れた。壊せるものは壊した。とにかく視界に入るものすべてを破壊したかった。神崎はそんな秀一を、冷たい眼で、どこか憐れんでいるような眼で、静かに見ていた。
「戻せよ!! 元の顔に!! もう見たくないんだよ!!」
「何故だ。お前も愛した顔だろう?」
わざとそんな風に言う。挑発だと分かっていながら秀一は荒れた。
「愛してない! こんな顔、好きじゃない!! 栄田ハルカなんか最初から好きでもなんでもなかったんだよッ!!」
「ならば俺が愛してやろう」
秀一は肩で息をしながら、ようやく動きを止めた。神崎がゆっくり近付いてくる。さっきまでの冷たい眼から一転した、慈愛に溢れた優しい顔。神崎はそんな微笑で秀一の頬に触れた。逃げ出したいのに神崎のこの眼を見たら金縛りに遭う。指が体に触れるとそこから熱が上がる。嫌なのに心のどこかで期待している。秀一は怒りなのか恐怖なのか、歯をカチカチ震わせた。
「怖くないだろう? いつも優しくしているだろう?」
ハルカ。
そう呼ばれて、さっと血の気が引いた。思い切り神崎を突き飛ばす。
「ハルカじゃない……」
「いいや、ハルカだよ。今のお前は栄田ハルカだ」
「違う……ちがうっ! 俺は佐久間秀一だ! ハルカじゃない! この髪も、この体も、声も! 俺の体だ!!」
「もういいから静かにしなさい」
「触るなァ!!」
パンッと神崎の頬を叩いたら、眼鏡が落ちた。裸眼で睨まれて震え上がる。首を絞められて、動きが鈍くなったところを床に倒された。首を押さえ付けられたまま、下を脱がされる。
「……っめ、ろ……」
「俺だって乱暴にしたくはない」
いっそこのまま殺して欲しかった。けれども死なない程度に苦しめるのが神崎のやり方だ。生命の危機すら感じているのに体は本能に忠実だ。
「いつもみたいに愛し合おうじゃないか、なあハルカ」
「ち、がう……か、えせ……返せよ……!」
俺の、顔を、返せ!
―――
散々抵抗しながら、結局乱暴にされることを許してしまった。手足を縛られ、押さえつけられ、何度もハルカと呼ばれながら優しくて残酷な愛撫に翻弄された。何が一番情けないかと言うと、これだけ自分自身を認めてもらえず、恨まれて蔑まれて、身代わりにされても正直な欲求には勝てないということだ。
困憊しているはずなのに一睡もできず、秀一は空が白みだすと動き出した。薄いカットソーと古びたズボンにダウンジャケットを着てマフラーを手に取った時、
「どこに行く」
いつの間に起きたのか、神崎に呼び止められた。
「ほっとけ」
「行く当てもないのにか」
「ここにはいたくない。俺はお前のセックスドールじゃない」
神崎の手を振り払って、最後に「死んじまえ」と残した。去り際に強く瞼に焼き付いたのは神崎の困惑した表情だった。秀一は歯を食いしばって、唇を歪ませながら、初めて神崎に涙を見せた。
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