カルマの旋律5-2
日が暮れた頃に治療を終えて、神崎と秀一は無言で歯科医院を出た。昼前までぐずついた天気だったのが回復して、紅色と紫色のグラデーションで彩られた西の空だった。代わりに肌に当たる風が冷たい。冬がすぐそこに来ていた。秀一は再びマフラーを巻き、キャップを深く被る。神崎はそれを見てまた溜息を放った。車内ではひたすら沈黙が続き、重苦しい空気を回避するためか狸寝入りを決め込む秀一の傍らで、神崎は氷の無表情のままハンドルを切っていた。途中で道順に違和感を覚えた秀一が先に口を開いた。
「おい、どこに行くんだよ」
「家だよ」
「誰の」
「お前の」
けれども到着した先は秀一のアパートではなく、神崎のマンションだった。
「てめーのマンションじゃねぇか。引き返せ」
「今日からここがお前の家でもあるんだよ」
「は!?」
先に車を下りた神崎は助手席に回ると、秀一の後襟を引っ張って部屋まで連れて行った。猫か何かのような扱いに、秀一はいちいち歯向かう。
「離せ! なんで俺がお前の家に住まなきゃいけないんだよ!」
部屋に入るなり、秀一は玄関に突き倒された。暗がりの中で神崎の眼鏡だけが光った。レンズの奥にある冷たい眼を、秀一は負けじと睨み返した。
「俺は自分でやったことには自分でけじめをつけたいんでな。お前の面倒を見るのも俺の義務だと思ってる」
「面倒……!?」
「お前の生活の保証はしよう。その代わり俺の身の回りのことをすべてやれ。掃除、洗濯、炊事。手抜きは許さない」
「ふざけんな。なんでお前の奴隷にならなきゃなんねーんだ。お前の身の回りの世話をするくらいなら死んだ方がマシだ」
「死ぬより苦痛だから、この方法を取ったんだよ」
キッと目を開いた秀一は、起き上がったと同時に拳を突きつけた。だが、あっさり交わされて逆に足を取られて倒された。
「行動パターンが幼稚だな。唾を吐くか殴るかしか脳がない」
「お前が死ね!」
「残念ながらその予定はない」
電気を点け、神崎は床に倒されたままの秀一を跨いでリビングへ向かった。
「考えてみろ。仕事をなくして収入がないのに今のまま家賃を払い続けられるか? ただでさえちょっと外出するのにもマフラーがないと出られない。そんなんじゃ就職活動もまともにできないはずだ。生涯を共にしようと決めた恋人でもいるか? いないだろう。心配してくれる友人がいたとしても、そいつにはそいつの生活があって、お前の面倒まで率先して見たいと言う奴なんかいるか?」
「こんな……こんな顔にして俺が外に出られないようにしたのは神崎じゃねぇか……!」
「その根源はお前自身だと忘れるな」
神崎はワインを取り出してグラスに注ぐ。赤ワインが神崎の常用飲料らしかった。グラスをくるくると回しながらワインの揺らめきを眺めている。そして「因果応報。いい言葉だな」と笑うのである。
「お前の態度次第では、もとの顔に戻してやらないこともない」
それを聞いた秀一の表情が少し変わった。
「……本当か」
「お前次第だ」
ワイシャツを脱ぎながら神崎はさっそく「夕飯を作れ」と指示した。躊躇っていた秀一だが「元の顔に戻りたくないのか」と言うと、拳を握り締めながらキッチンへ入っていった。神崎は自炊することは滅多にないが、冷蔵庫の中だけはいつも種類が豊富な食材で埋まっている。冷蔵庫の扉を開けた秀一は聞こえよがしに舌打ちをした。
秀一が夕飯を拵えているあいだに入浴を済ませ、髪も衣服も整えてから脱衣所を出ると肉の匂いがした。何かおかしな真似をしないかと、神崎はソファからキッチンに立つ秀一を見張っていた。髪の色は黒々としていてそこだけ変えられないのが惜しいが、俯いたところも横顔も、栄田ハルカそっくりだ。痩せて細くなった体がなおハルカに寄っている。高校時代、毎日のように音楽室でピアノを弾く彼を見ていたので、記憶にしっかり焼き付いた彼は鮮明に思い出せる。神崎の頭の中にあるハルカと目の前の男の顔がオーバーラップされ、神崎は改めて自分の腕を自賛した。ふいにハルカが弾く「愛の夢」を聴きたくなった時、テーブルの上にドン、と料理を出された。
「食え」
野菜の切り方も盛り付けも、いかにもわざと見栄えを悪くさせた手料理だ。レタスは雑に千切られ、厚さがバラバラのきゅうりに、丸のままのミニトマト。ブロック肉は見る限り火は通っているようだが、浮いた灰汁を取らずに煮込んだのが分かる。とは言え、料理を作らせるのは初めてなので見てくれに関しては何も言わない。そして肉にフォークを突き刺して口に入れる直前、
「――ッつ!」
神崎は皿ごと秀一に投げた。薄いTシャツ一枚だけの腹に肉とソースがべっとりと付き、秀一はTシャツを慌てて脱いだ。
「手を抜くなと言っただろう」
「手は抜いてないぜ。悪いな、料理のセンスがないから調味料の加減が分かんねぇんだよ。なんせ唾を吐くか殴るかしか脳がない馬鹿だからな」
立ち上がった神崎は秀一の黒い髪の毛を掴んで無理やり向き合わせた。間近で見ても理想的な美しい顔。けれどもやっぱり神崎を見上げるその眼差しだけは佐久間秀一のもので、完全に栄田ハルカではないのが腹立たしい。
「力づくで分からせるしかないか?」
そして強引に寝室まで引っ張った。ひとり暮らしだというのにクイーンサイズのベッドが堂々と置かれており、綺麗にベッドメイキングされたシーツの上に秀一を押し倒した。両手首を取られた秀一は蹴りを入れようとするも、大体の動作は読めるので神崎も簡単にやられたりはしない。
⇒
「おい、どこに行くんだよ」
「家だよ」
「誰の」
「お前の」
けれども到着した先は秀一のアパートではなく、神崎のマンションだった。
「てめーのマンションじゃねぇか。引き返せ」
「今日からここがお前の家でもあるんだよ」
「は!?」
先に車を下りた神崎は助手席に回ると、秀一の後襟を引っ張って部屋まで連れて行った。猫か何かのような扱いに、秀一はいちいち歯向かう。
「離せ! なんで俺がお前の家に住まなきゃいけないんだよ!」
部屋に入るなり、秀一は玄関に突き倒された。暗がりの中で神崎の眼鏡だけが光った。レンズの奥にある冷たい眼を、秀一は負けじと睨み返した。
「俺は自分でやったことには自分でけじめをつけたいんでな。お前の面倒を見るのも俺の義務だと思ってる」
「面倒……!?」
「お前の生活の保証はしよう。その代わり俺の身の回りのことをすべてやれ。掃除、洗濯、炊事。手抜きは許さない」
「ふざけんな。なんでお前の奴隷にならなきゃなんねーんだ。お前の身の回りの世話をするくらいなら死んだ方がマシだ」
「死ぬより苦痛だから、この方法を取ったんだよ」
キッと目を開いた秀一は、起き上がったと同時に拳を突きつけた。だが、あっさり交わされて逆に足を取られて倒された。
「行動パターンが幼稚だな。唾を吐くか殴るかしか脳がない」
「お前が死ね!」
「残念ながらその予定はない」
電気を点け、神崎は床に倒されたままの秀一を跨いでリビングへ向かった。
「考えてみろ。仕事をなくして収入がないのに今のまま家賃を払い続けられるか? ただでさえちょっと外出するのにもマフラーがないと出られない。そんなんじゃ就職活動もまともにできないはずだ。生涯を共にしようと決めた恋人でもいるか? いないだろう。心配してくれる友人がいたとしても、そいつにはそいつの生活があって、お前の面倒まで率先して見たいと言う奴なんかいるか?」
「こんな……こんな顔にして俺が外に出られないようにしたのは神崎じゃねぇか……!」
「その根源はお前自身だと忘れるな」
神崎はワインを取り出してグラスに注ぐ。赤ワインが神崎の常用飲料らしかった。グラスをくるくると回しながらワインの揺らめきを眺めている。そして「因果応報。いい言葉だな」と笑うのである。
「お前の態度次第では、もとの顔に戻してやらないこともない」
それを聞いた秀一の表情が少し変わった。
「……本当か」
「お前次第だ」
ワイシャツを脱ぎながら神崎はさっそく「夕飯を作れ」と指示した。躊躇っていた秀一だが「元の顔に戻りたくないのか」と言うと、拳を握り締めながらキッチンへ入っていった。神崎は自炊することは滅多にないが、冷蔵庫の中だけはいつも種類が豊富な食材で埋まっている。冷蔵庫の扉を開けた秀一は聞こえよがしに舌打ちをした。
秀一が夕飯を拵えているあいだに入浴を済ませ、髪も衣服も整えてから脱衣所を出ると肉の匂いがした。何かおかしな真似をしないかと、神崎はソファからキッチンに立つ秀一を見張っていた。髪の色は黒々としていてそこだけ変えられないのが惜しいが、俯いたところも横顔も、栄田ハルカそっくりだ。痩せて細くなった体がなおハルカに寄っている。高校時代、毎日のように音楽室でピアノを弾く彼を見ていたので、記憶にしっかり焼き付いた彼は鮮明に思い出せる。神崎の頭の中にあるハルカと目の前の男の顔がオーバーラップされ、神崎は改めて自分の腕を自賛した。ふいにハルカが弾く「愛の夢」を聴きたくなった時、テーブルの上にドン、と料理を出された。
「食え」
野菜の切り方も盛り付けも、いかにもわざと見栄えを悪くさせた手料理だ。レタスは雑に千切られ、厚さがバラバラのきゅうりに、丸のままのミニトマト。ブロック肉は見る限り火は通っているようだが、浮いた灰汁を取らずに煮込んだのが分かる。とは言え、料理を作らせるのは初めてなので見てくれに関しては何も言わない。そして肉にフォークを突き刺して口に入れる直前、
「――ッつ!」
神崎は皿ごと秀一に投げた。薄いTシャツ一枚だけの腹に肉とソースがべっとりと付き、秀一はTシャツを慌てて脱いだ。
「手を抜くなと言っただろう」
「手は抜いてないぜ。悪いな、料理のセンスがないから調味料の加減が分かんねぇんだよ。なんせ唾を吐くか殴るかしか脳がない馬鹿だからな」
立ち上がった神崎は秀一の黒い髪の毛を掴んで無理やり向き合わせた。間近で見ても理想的な美しい顔。けれどもやっぱり神崎を見上げるその眼差しだけは佐久間秀一のもので、完全に栄田ハルカではないのが腹立たしい。
「力づくで分からせるしかないか?」
そして強引に寝室まで引っ張った。ひとり暮らしだというのにクイーンサイズのベッドが堂々と置かれており、綺麗にベッドメイキングされたシーツの上に秀一を押し倒した。両手首を取られた秀一は蹴りを入れようとするも、大体の動作は読めるので神崎も簡単にやられたりはしない。
⇒
スポンサーサイト