まひる 1
四方八方、山と海に面した小さな町。どこまでも広がる田畑、手を伸ばせば雲を掴めそうなほど近い空。眩しい緑、聞こえてくる小鳥のさえずり。そんな何もないド田舎が、俺の故郷だ。
昔は楽しかった。代掻きをしている田んぼで泥遊びをしたり、潮干狩りに行ったり、みかん狩りをしたり。毎日剛と遊んで、ゲラゲラ笑っていた。
だけど、物心がついてくると、ああ、世間って狭いんだなと感じるようになった。ちょっとした噂話はすぐに町中に広がるし、いけ好かない同級生が実は遠い親戚だったとかはよくある話だ。
「お前、昨日あそこ行ったやろ」
「あんた、こないだあの店おったやろ」
ひとりになりたくてどこかに出掛けても、必ず誰かに見られている。交通の便が悪いからと旅行にも中々行けず、欲しい服や雑貨は大抵、インターネット通販だ。自由なようで不自由。開放的なようで閉鎖的。それが田舎だ。
俺が剛と離れ離れになったのは、小学校五年生の頃。親父の仕事の都合で隣町に越して、学校も変わった。それまで通っていた学校よりも大きくて生徒の人数も多かったから、色んな人間がいた。標準よりひと回り体が小さくて、自分でも自覚があるほど中性的な顔立ちの俺を「お前、ほんまは女ちゃうんか」と冷やかす奴がたくさんいた。それはだんだんエスカレートして、所謂いじめというものに発展してしまい、帰り道に背後から牛糞を投げつけられたり、給食のご飯に牛乳をかけられたり、「ちんちんついとんか!?」と叫ばれながら廊下でズボンを下ろされることもしょっちゅうだった。
すごく屈辱的な日々。それでも我慢して学校に行けたのは、剛の「迎えに行く」という言葉をずっと信じてたからだ。
――いつかゴンちゃんが助けにきてくれる。隣町なんかすぐやん。
だけど、剛は一度も来てくれなかった。
中学に上がっても、小学校時代にまともな友人がいなかったためかクラスに馴染めず、いつもどこか浮いた存在だった。話し掛けて来るのは女子か、妙な性癖を持った男。これみよがしないじめはなくなったけれど、そのかわり変な輩に目を付けられることが増え、俺の心はどんどん荒んでいった。
――ゴンは来てくれんし、俺のことなんかもう忘れてしもたんや。
そして中一の終わりに父親の転勤で、東京に越したのだった。
――東京は良かったな。
電車に乗り遅れても一時間待つなんてないし、欲しいものは大抵なんでも手に入るし、下世話な噂も回らない。コンプレックスである俺の見た目を馬鹿にする人間もいなかった。
―― 一生田舎で暮らすことなんかない。このままずっと東京にいて、俺は俺のやりたいことをするんだ。
両親が離婚さえしなければ、こんなところ戻って来なくて済んだのに。
「――まひる―、朝ごはんよー」
身支度を終えてリビングダイニングへ向かうと、トーストの香りが強くなってきた。我が家の朝食はいつもパンだ。バターを塗った食パンか、ピザパンか、菓子パン。それにサラダとハムエッグが付け合わされている。飲み物はコーヒー。夏でもホット。低血圧で食の細い俺はそれでも全部食べられない時がある。
「……ごちそうさま」
「あら、サラダしか食べてないじゃない。せめて卵食べなさいよ」
「食欲がないんだ」
「倒れちゃうわよ」
「平気だよ」
「そういえば、剛くんと同じクラスになったんですって? 良かったわね」
「なんで知ってるの?」
「剛くんのお母さんとペンフレンドなの」
「なんだよ、ペンフレンドって」
「剛くんによろしくね」
母さんは知らない。剛がひと昔前のガキ大将みたいなダサい奴だということも、俺が剛に冷たくしていることも。
―――
休み時間の度に寄ってくる鬱陶しい女子はだいぶ減ったが、それでも時々無遠慮に付きまとってくる奴もいる。そもそも人と慣れ合うのが苦手なので、授業が終わるとすぐに教室を出て空中庭園や中庭で本を読みながら時間を潰すのが常になっている。この日の昼休みも、休憩に入ると弁当を持ってすぐに屋上へ向かった。
カッと照り付ける太陽。ひとりでいても目立たないような日陰を探して、非常階段の出入り口辺りで腰を下ろした。食べ盛りの高校生にしては小さな弁当箱を広げて箸を持ったが、どうも食欲が出ない。朝食をあまり摂らなかったのが祟ったのか、食事をする元気も出なかった。はあ、と溜息をついて箸を置く。
――東京に戻りたい。
そんなことをぼそりと口にした時、大きな影が俺を覆った。見上げると剛が立っていた。
「なんで東京戻りたいん?」
「つーか、なんでここにいるの」
「まひるが屋上行くん見えたけん、追い掛けてきた。こんな暑いとこでひとりで食うても、おもろないやろ」
「ひとりになりたくて、来たんだよ」
それなのに剛は図々しく俺の隣に座り、重箱並みの弁当を広げた。運動会ですか、と言いたくなるくらいの豪勢なおかず。豆ごはんのおにぎり、鮭のおにぎり、しそが巻かれた卵焼き、筍の煮付け、小松菜の胡麻和え……。見る限り冷凍食品なんてひとつもない。大地の恵みが弁当箱いっぱいに詰め込まれている。その弁当を見るなり、さっきまで湧かなかった食欲が急に出てきて、きゅるん、と腹が鳴った。
「まひるも食おや」
けれども自分の弁当はあまり食いたいと思わなかった。母親は決して料理が下手なわけでも手を抜いているわけでもない。ただ、手の込んだ料理がたぶん、ちょっと苦手なんだと思う。卵焼きよりゆで卵、おにぎりより日の丸弁当。だから朝食もさっと用意できるパンが多いのだ。俺は別に食にこだわりも何もないけれど、代わり映えしないメニューに飽きることは正直、ある。
「……やっぱりいい。あとで食べる」
「腹、減っとんちゃうん? ちゃんと食わんとバテるで。なんか顔色も冴えんしな」
「ほっといて」
「この豆、ウチの畑で採れたやつ。ちょっと食ってみ」
剛の拳ほどの大きさはあるだろう爆弾級の豆ごはんのおにぎりを突き出され、剛はそれをほれほれと目の前でちらつかせた。
「いらない」
「ええけん、食ってみって」
俺は眉を寄せて疎ましがりながらも、控えめに口を開けておにぎりにかじりついた。頬がきゅうんと痺れる塩味、豆の甘みのハーモニーが絶妙だ。何より米が硬くない。「美味しい」と無意識に口にしたら、剛は「そうやろ、そうやろ」と歯を見せて笑った。
「飯はちゃんと食わないかんで。おにぎりだけでも食え。糖質が不足したら頭働かんぞ」
「小利口なこと言いやがって」
我ながら可愛くないなと自覚を持ちながら、差し出されたおにぎりを受け取ってかじりついた。剛はそんな俺を微笑ましそうに眺めている。
「こないだ、『なんで来てくれんかったん』って言うたやろ? あれって小学生の頃の話?」
「……」
「あの頃、なんかあったん?」
「別に、なんにもない」
「ずっと待っとったのに、って言うたやん」
「あれはもう、忘れてくれ。俺も忘れたし」
「嘘やん。俺は六年間、まひるのこと忘れたことなんかなかったで」
「嘘つけぇ、一回も連絡してこんかったくせに! もう俺に構わんとってくれ……」
剛の肩に緑色の蠢くものが目に入った。その瞬間、血の気が引いて持っていたおにぎりを落とし、ほどなくして意識が遠のいていった。
「え!? まひる!? ちょ、なんでやねん!」
剛が俺の名前を呼ぶ声だけが、遠くから聞こえていた。
――瀬川って、ほんまは男ちゃうんちゃう。だって女みたいなやん。――
――こいつ蛙でビビリよるで! 青虫でもビビるんちゃうか!? ――
――ゴンちゃん、なんで来てくれんの? 僕、いじめられてんのや。
狸追っ払ってくれた時みたいに、いじめっ子やっつけてや。
ゴンちゃん、僕のこと忘れたんやろか。
ゴンちゃん……。
「起きたん?」
目を覚ますと俺は保健室のベッドに寝かされていて、心配そうな顔つきの剛が俺の顔を覗き込んでいた。
「あれ、昼休み……」
「とっくに終わったで、今放課後や。びっくりするわ。青虫で目ェ回すとか。怖がりなんは変わっとらんのやな。むしろひどなってない?」
剛はワハハと屈託なく笑う。
「まひる、貧血なんやって。ちゃんと飯食わないかんやん。ただでさえ細いんやけん、それ以上痩せたら骨と皮んなるで」
剛の背後にある時計は五時前を差している。窓から差し込む光は橙色をになっていて、陽が傾こうとしていた。授業終わってからずっと付いててくれたのだろうか。剛の優しさは弱った体に痛いほど沁みた。
「……青虫は、ちっちゃい頃は平気だった」
「うん、そうやったやんな」
「小六の時に、苦手になった。……俺、転校してすぐから、いじめられてたんだ」
剛は目を大きく見開いて、無言で驚いた。
「女みたいって、ずっとからかわれてた。小六ん時、花壇の掃除してて、出てきた蛙に驚いたことがあって。別に怖かったわけじゃない。驚いただけ。でもそれを見てた奴が『こいつ青虫でもビビるんじゃないか』って、給食のシチューに混ぜられたことがあった。食べずに済んだけど、スプーンの上で真っ白になってクネクネしてる青虫がめちゃくちゃ気持ち悪くて。それから青虫は嫌いなんだ。あとシチューも」
「……そうやったんか」
「中学に上がってもずっと友達できなくて寂しかった。昔のこと懐かしんでは、お前がいつかいじめっ子をやっつけに来てくれるんじゃないかって待ってたんだ」
「……ごめん。知らんかった」
「もういい。昔のことだし」
そう言いながら俺は布団を被り直して、剛に背を向けた。昔を思い出してちょっと悲しくなって溢れそうになった涙を見られたくなかった。だけど剛は気付いているだろう。
朝からほとんど食べていないからか、急激に腹が減ってきた。昼休みに剛がくれた豆ごはんのおにぎりを全部食べずに落としてしまったことを思い出した。
「……おにぎり、落とした……」
「かまんで。また明日、作ってきちゃる」
そう言って俺の頭を撫でた剛の手は、マメだらけで堅くて、でも大きくて温かった。
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昔は楽しかった。代掻きをしている田んぼで泥遊びをしたり、潮干狩りに行ったり、みかん狩りをしたり。毎日剛と遊んで、ゲラゲラ笑っていた。
だけど、物心がついてくると、ああ、世間って狭いんだなと感じるようになった。ちょっとした噂話はすぐに町中に広がるし、いけ好かない同級生が実は遠い親戚だったとかはよくある話だ。
「お前、昨日あそこ行ったやろ」
「あんた、こないだあの店おったやろ」
ひとりになりたくてどこかに出掛けても、必ず誰かに見られている。交通の便が悪いからと旅行にも中々行けず、欲しい服や雑貨は大抵、インターネット通販だ。自由なようで不自由。開放的なようで閉鎖的。それが田舎だ。
俺が剛と離れ離れになったのは、小学校五年生の頃。親父の仕事の都合で隣町に越して、学校も変わった。それまで通っていた学校よりも大きくて生徒の人数も多かったから、色んな人間がいた。標準よりひと回り体が小さくて、自分でも自覚があるほど中性的な顔立ちの俺を「お前、ほんまは女ちゃうんか」と冷やかす奴がたくさんいた。それはだんだんエスカレートして、所謂いじめというものに発展してしまい、帰り道に背後から牛糞を投げつけられたり、給食のご飯に牛乳をかけられたり、「ちんちんついとんか!?」と叫ばれながら廊下でズボンを下ろされることもしょっちゅうだった。
すごく屈辱的な日々。それでも我慢して学校に行けたのは、剛の「迎えに行く」という言葉をずっと信じてたからだ。
――いつかゴンちゃんが助けにきてくれる。隣町なんかすぐやん。
だけど、剛は一度も来てくれなかった。
中学に上がっても、小学校時代にまともな友人がいなかったためかクラスに馴染めず、いつもどこか浮いた存在だった。話し掛けて来るのは女子か、妙な性癖を持った男。これみよがしないじめはなくなったけれど、そのかわり変な輩に目を付けられることが増え、俺の心はどんどん荒んでいった。
――ゴンは来てくれんし、俺のことなんかもう忘れてしもたんや。
そして中一の終わりに父親の転勤で、東京に越したのだった。
――東京は良かったな。
電車に乗り遅れても一時間待つなんてないし、欲しいものは大抵なんでも手に入るし、下世話な噂も回らない。コンプレックスである俺の見た目を馬鹿にする人間もいなかった。
―― 一生田舎で暮らすことなんかない。このままずっと東京にいて、俺は俺のやりたいことをするんだ。
両親が離婚さえしなければ、こんなところ戻って来なくて済んだのに。
「――まひる―、朝ごはんよー」
身支度を終えてリビングダイニングへ向かうと、トーストの香りが強くなってきた。我が家の朝食はいつもパンだ。バターを塗った食パンか、ピザパンか、菓子パン。それにサラダとハムエッグが付け合わされている。飲み物はコーヒー。夏でもホット。低血圧で食の細い俺はそれでも全部食べられない時がある。
「……ごちそうさま」
「あら、サラダしか食べてないじゃない。せめて卵食べなさいよ」
「食欲がないんだ」
「倒れちゃうわよ」
「平気だよ」
「そういえば、剛くんと同じクラスになったんですって? 良かったわね」
「なんで知ってるの?」
「剛くんのお母さんとペンフレンドなの」
「なんだよ、ペンフレンドって」
「剛くんによろしくね」
母さんは知らない。剛がひと昔前のガキ大将みたいなダサい奴だということも、俺が剛に冷たくしていることも。
―――
休み時間の度に寄ってくる鬱陶しい女子はだいぶ減ったが、それでも時々無遠慮に付きまとってくる奴もいる。そもそも人と慣れ合うのが苦手なので、授業が終わるとすぐに教室を出て空中庭園や中庭で本を読みながら時間を潰すのが常になっている。この日の昼休みも、休憩に入ると弁当を持ってすぐに屋上へ向かった。
カッと照り付ける太陽。ひとりでいても目立たないような日陰を探して、非常階段の出入り口辺りで腰を下ろした。食べ盛りの高校生にしては小さな弁当箱を広げて箸を持ったが、どうも食欲が出ない。朝食をあまり摂らなかったのが祟ったのか、食事をする元気も出なかった。はあ、と溜息をついて箸を置く。
――東京に戻りたい。
そんなことをぼそりと口にした時、大きな影が俺を覆った。見上げると剛が立っていた。
「なんで東京戻りたいん?」
「つーか、なんでここにいるの」
「まひるが屋上行くん見えたけん、追い掛けてきた。こんな暑いとこでひとりで食うても、おもろないやろ」
「ひとりになりたくて、来たんだよ」
それなのに剛は図々しく俺の隣に座り、重箱並みの弁当を広げた。運動会ですか、と言いたくなるくらいの豪勢なおかず。豆ごはんのおにぎり、鮭のおにぎり、しそが巻かれた卵焼き、筍の煮付け、小松菜の胡麻和え……。見る限り冷凍食品なんてひとつもない。大地の恵みが弁当箱いっぱいに詰め込まれている。その弁当を見るなり、さっきまで湧かなかった食欲が急に出てきて、きゅるん、と腹が鳴った。
「まひるも食おや」
けれども自分の弁当はあまり食いたいと思わなかった。母親は決して料理が下手なわけでも手を抜いているわけでもない。ただ、手の込んだ料理がたぶん、ちょっと苦手なんだと思う。卵焼きよりゆで卵、おにぎりより日の丸弁当。だから朝食もさっと用意できるパンが多いのだ。俺は別に食にこだわりも何もないけれど、代わり映えしないメニューに飽きることは正直、ある。
「……やっぱりいい。あとで食べる」
「腹、減っとんちゃうん? ちゃんと食わんとバテるで。なんか顔色も冴えんしな」
「ほっといて」
「この豆、ウチの畑で採れたやつ。ちょっと食ってみ」
剛の拳ほどの大きさはあるだろう爆弾級の豆ごはんのおにぎりを突き出され、剛はそれをほれほれと目の前でちらつかせた。
「いらない」
「ええけん、食ってみって」
俺は眉を寄せて疎ましがりながらも、控えめに口を開けておにぎりにかじりついた。頬がきゅうんと痺れる塩味、豆の甘みのハーモニーが絶妙だ。何より米が硬くない。「美味しい」と無意識に口にしたら、剛は「そうやろ、そうやろ」と歯を見せて笑った。
「飯はちゃんと食わないかんで。おにぎりだけでも食え。糖質が不足したら頭働かんぞ」
「小利口なこと言いやがって」
我ながら可愛くないなと自覚を持ちながら、差し出されたおにぎりを受け取ってかじりついた。剛はそんな俺を微笑ましそうに眺めている。
「こないだ、『なんで来てくれんかったん』って言うたやろ? あれって小学生の頃の話?」
「……」
「あの頃、なんかあったん?」
「別に、なんにもない」
「ずっと待っとったのに、って言うたやん」
「あれはもう、忘れてくれ。俺も忘れたし」
「嘘やん。俺は六年間、まひるのこと忘れたことなんかなかったで」
「嘘つけぇ、一回も連絡してこんかったくせに! もう俺に構わんとってくれ……」
剛の肩に緑色の蠢くものが目に入った。その瞬間、血の気が引いて持っていたおにぎりを落とし、ほどなくして意識が遠のいていった。
「え!? まひる!? ちょ、なんでやねん!」
剛が俺の名前を呼ぶ声だけが、遠くから聞こえていた。
――瀬川って、ほんまは男ちゃうんちゃう。だって女みたいなやん。――
――こいつ蛙でビビリよるで! 青虫でもビビるんちゃうか!? ――
――ゴンちゃん、なんで来てくれんの? 僕、いじめられてんのや。
狸追っ払ってくれた時みたいに、いじめっ子やっつけてや。
ゴンちゃん、僕のこと忘れたんやろか。
ゴンちゃん……。
「起きたん?」
目を覚ますと俺は保健室のベッドに寝かされていて、心配そうな顔つきの剛が俺の顔を覗き込んでいた。
「あれ、昼休み……」
「とっくに終わったで、今放課後や。びっくりするわ。青虫で目ェ回すとか。怖がりなんは変わっとらんのやな。むしろひどなってない?」
剛はワハハと屈託なく笑う。
「まひる、貧血なんやって。ちゃんと飯食わないかんやん。ただでさえ細いんやけん、それ以上痩せたら骨と皮んなるで」
剛の背後にある時計は五時前を差している。窓から差し込む光は橙色をになっていて、陽が傾こうとしていた。授業終わってからずっと付いててくれたのだろうか。剛の優しさは弱った体に痛いほど沁みた。
「……青虫は、ちっちゃい頃は平気だった」
「うん、そうやったやんな」
「小六の時に、苦手になった。……俺、転校してすぐから、いじめられてたんだ」
剛は目を大きく見開いて、無言で驚いた。
「女みたいって、ずっとからかわれてた。小六ん時、花壇の掃除してて、出てきた蛙に驚いたことがあって。別に怖かったわけじゃない。驚いただけ。でもそれを見てた奴が『こいつ青虫でもビビるんじゃないか』って、給食のシチューに混ぜられたことがあった。食べずに済んだけど、スプーンの上で真っ白になってクネクネしてる青虫がめちゃくちゃ気持ち悪くて。それから青虫は嫌いなんだ。あとシチューも」
「……そうやったんか」
「中学に上がってもずっと友達できなくて寂しかった。昔のこと懐かしんでは、お前がいつかいじめっ子をやっつけに来てくれるんじゃないかって待ってたんだ」
「……ごめん。知らんかった」
「もういい。昔のことだし」
そう言いながら俺は布団を被り直して、剛に背を向けた。昔を思い出してちょっと悲しくなって溢れそうになった涙を見られたくなかった。だけど剛は気付いているだろう。
朝からほとんど食べていないからか、急激に腹が減ってきた。昼休みに剛がくれた豆ごはんのおにぎりを全部食べずに落としてしまったことを思い出した。
「……おにぎり、落とした……」
「かまんで。また明日、作ってきちゃる」
そう言って俺の頭を撫でた剛の手は、マメだらけで堅くて、でも大きくて温かった。
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