カルマの旋律3-1
ハルカの死を受け入れられずに引き摺っているのは神崎も同じだった。初めて恋に落ちた相手で、遠くから眺めるだけの存在だった彼。今度こそ手に入れたいと思った矢先に、力が及ばずに永遠に手放してしまった。たかが佐久間秀一という男に振られただけであそこまで思い詰めるものなのか。自分では彼の不安と心細さを埋めてやることはできなかったのか。振り向かせるどころか、目の前で生を放棄したハルカを止めることすらできなかった。落ちたハルカは、見るも無残な姿で即死した。こんな仕事をしていたら血も内臓も人の生死にもいちいち怯えることはないのだが、愛する人間のそういったものは一切無理だった。ハルカの遺体を確認したのはホテルの警備員で、神崎は屋上で悲鳴の中、腰を抜かしていただけだ。
それから一週間、どうにも仕事をする気になれず、医院も総合病院での勤務も休診した。もし手術でも入ろうものなら血を見た瞬間にフラッシュバックして手を止めるかもしれない。医師としてもうやっていけないかもしれない、と。だが、そんな状態も長く続かなかった。秀一が弔電のひとつも出していないと風の便りで知って逆上した。あれほどハルカを傷付けて死に追いやっておいて、罪悪感が微塵もないことに憤慨したのだ。怨み言をぶつけに行った時ですら、秀一は反省の色を見せずに言い放った。
――だったらお前が止めて慰めてやりゃよかっただろ! あのあと追い掛けていって、一体お前は何をしてたんだよ! 止めきれずに目の前で死ぬのをボサッと見てただけかよ! 傍観してたお前も同罪だよ! ――
悔しいことに何も反論できなかった。秀一の言葉に間違いがないのだから。
怒りを発散するかのように、今度は仕事に明け暮れた。新規患者は勿論、他の病院から回された病状の重い患者もすべて受け入れた。しかもそれを可能とされている治療法を上回る技術で完璧にこなす。唯一愛する人間を失った今、仕事に尽くして医師としての理想を追うことに全精力を注ぐしかなかった。
「神崎先生って、手術の腕は凄いんだけど、時々付いて行けなくなるの」
「全部ひとりでこなそうとするわよね」
「おかげで帰る時間も伸びるし、忙しくてクタクタよ。給料はいいんだけどね」
スタッフルームで繰り広げられる、そんな堂々とした会話がドア越しに聞こえてきた。スタッフは女性看護師が数名と受付けが一名、医師は院長である神崎だけだ。ここ数週間、毎日息をつく暇もなく働いている。
先日、入院した患者は、重症下肢虚血の男性だった。足の血管の動脈硬化が原因で血流が悪くなり、そのせいでちょっとした靴擦れから潰瘍、更に壊死にまで進行していた。糖尿病による神経障害を患っていたので痛みがなく、放置していたため悪化したという。
治療は、細くなった血管を広げるためのバイパス手術と足の傷の閉鎖。本来、心臓血管外科と共同でおこなう手術を神崎はすべてひとりでおこなった。珍しいことじゃない。神崎は自分ができる範囲のことは自分でやりたがる。他の医師に任せて不満の残る治療をするくらいなら、少々時間がかかっても完璧な治療をしたいからだ。それがすべて医師側も患者側も満足のいく結果に終わるのだから、神崎は間違いなく天才だった。しかし、スタッフにとって神崎の美徳はいい迷惑でもあるらしい。神崎がすべてを担うぶん、それを補佐するスタッフの仕事も増えるのだから疲労を訴えても仕方のないことだ。
神崎は自分の方針に付いて行けない人間に無理してもらおうと思わない。気遣いもなくスタッフルームのドアを開けた神崎は、
「退職金は多めに出すから、無理してここにいなくてもいい」
と、勧めておいた。その言葉通り、数日後に看護師が次々に退職していき、医院に残ったのは受付けの女性と看護師ひとりだけだった。ますます仕事は増えるばかりだが、仕事に熱中すればするほど神崎はやりがいを感じた。完全なるワーカホリックだった。
***
その日は日曜だったが、休日当番医を頼まれて総合病院で勤務していた。休日の形成外科は患者が少なく、普段の医院での仕事に比べて俄然、楽だ。診察を終えて医局に戻った時、吉田がコーヒーを淹れてくれた。
「神崎先生、なんだかお疲れじゃないです?」
「そうでもないですよ。むしろ仕事が楽しくて生き生きしてます」
「でも顔色が優れないですよ。ストレスに鈍感な人は気付かないうちに体調崩しますから、気を付けて下さいね」
「吉田先生、優しいですね」
「神崎先生が倒れちゃうと心許ないからですよ」と吉田は笑った。
昼過ぎに仕事を終えて、救急外来の前を通りかかった時だった。ちょうど救急車が到着したらしかった。休日に運び込まれても、当番医なんてたいした医師もいないのに不運だなと他人事のように考えていた。
「三十四歳男性、交通事故で複雑骨折と内臓を損傷しています!」
ますます気の毒な話だ。横切った処置室から看護師と医師の会話がかすかに聞こえた。
「――を、バイクで……リング中、――で、」
「……まえは?」
「佐久間……一さん、」
いったん足を止めた神崎は、方向転換して処置室に入った。頼りなさそうな若手の医師と看護師が慌てふためいている。寝かされている患者は顔面の損傷がひどく、全身が血まみれだ。
「この人は?」
「バイクでツーリング中に車と接触して……」
「違う、身元だ」
「佐久間秀一さん、三十四歳です」
看護師に持ち物から見つかった運転免許証を渡される。目の前にいる彼は打撲や裂傷、出血でひと目見ただけでは人物の特定が難しいが、写真を見る限り佐久間秀一、本人だ。
神崎はまず、その事実に驚いていた。もう二度と会うまいと決めていた人物が、まさか瀕死で運び込まれるとは思いもしなかった。次に抱いたのは半分憐み、半分愉快さだった。まだ三十四という若さで重傷を負ってしまったことは気の毒だが、ハルカを思えば当然の結果だと思った。そして考えた。このまま若手医師に任せれば秀一は間違いなく死ぬ。自分が看れば一命は取り留めるだろう。ハルカへの償いをあの世でさせるか、生かして恩を一生着せるか。医師らしからぬ選択をして神崎は言った。
「わたしが看る」
⇒
それから一週間、どうにも仕事をする気になれず、医院も総合病院での勤務も休診した。もし手術でも入ろうものなら血を見た瞬間にフラッシュバックして手を止めるかもしれない。医師としてもうやっていけないかもしれない、と。だが、そんな状態も長く続かなかった。秀一が弔電のひとつも出していないと風の便りで知って逆上した。あれほどハルカを傷付けて死に追いやっておいて、罪悪感が微塵もないことに憤慨したのだ。怨み言をぶつけに行った時ですら、秀一は反省の色を見せずに言い放った。
――だったらお前が止めて慰めてやりゃよかっただろ! あのあと追い掛けていって、一体お前は何をしてたんだよ! 止めきれずに目の前で死ぬのをボサッと見てただけかよ! 傍観してたお前も同罪だよ! ――
悔しいことに何も反論できなかった。秀一の言葉に間違いがないのだから。
怒りを発散するかのように、今度は仕事に明け暮れた。新規患者は勿論、他の病院から回された病状の重い患者もすべて受け入れた。しかもそれを可能とされている治療法を上回る技術で完璧にこなす。唯一愛する人間を失った今、仕事に尽くして医師としての理想を追うことに全精力を注ぐしかなかった。
「神崎先生って、手術の腕は凄いんだけど、時々付いて行けなくなるの」
「全部ひとりでこなそうとするわよね」
「おかげで帰る時間も伸びるし、忙しくてクタクタよ。給料はいいんだけどね」
スタッフルームで繰り広げられる、そんな堂々とした会話がドア越しに聞こえてきた。スタッフは女性看護師が数名と受付けが一名、医師は院長である神崎だけだ。ここ数週間、毎日息をつく暇もなく働いている。
先日、入院した患者は、重症下肢虚血の男性だった。足の血管の動脈硬化が原因で血流が悪くなり、そのせいでちょっとした靴擦れから潰瘍、更に壊死にまで進行していた。糖尿病による神経障害を患っていたので痛みがなく、放置していたため悪化したという。
治療は、細くなった血管を広げるためのバイパス手術と足の傷の閉鎖。本来、心臓血管外科と共同でおこなう手術を神崎はすべてひとりでおこなった。珍しいことじゃない。神崎は自分ができる範囲のことは自分でやりたがる。他の医師に任せて不満の残る治療をするくらいなら、少々時間がかかっても完璧な治療をしたいからだ。それがすべて医師側も患者側も満足のいく結果に終わるのだから、神崎は間違いなく天才だった。しかし、スタッフにとって神崎の美徳はいい迷惑でもあるらしい。神崎がすべてを担うぶん、それを補佐するスタッフの仕事も増えるのだから疲労を訴えても仕方のないことだ。
神崎は自分の方針に付いて行けない人間に無理してもらおうと思わない。気遣いもなくスタッフルームのドアを開けた神崎は、
「退職金は多めに出すから、無理してここにいなくてもいい」
と、勧めておいた。その言葉通り、数日後に看護師が次々に退職していき、医院に残ったのは受付けの女性と看護師ひとりだけだった。ますます仕事は増えるばかりだが、仕事に熱中すればするほど神崎はやりがいを感じた。完全なるワーカホリックだった。
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その日は日曜だったが、休日当番医を頼まれて総合病院で勤務していた。休日の形成外科は患者が少なく、普段の医院での仕事に比べて俄然、楽だ。診察を終えて医局に戻った時、吉田がコーヒーを淹れてくれた。
「神崎先生、なんだかお疲れじゃないです?」
「そうでもないですよ。むしろ仕事が楽しくて生き生きしてます」
「でも顔色が優れないですよ。ストレスに鈍感な人は気付かないうちに体調崩しますから、気を付けて下さいね」
「吉田先生、優しいですね」
「神崎先生が倒れちゃうと心許ないからですよ」と吉田は笑った。
昼過ぎに仕事を終えて、救急外来の前を通りかかった時だった。ちょうど救急車が到着したらしかった。休日に運び込まれても、当番医なんてたいした医師もいないのに不運だなと他人事のように考えていた。
「三十四歳男性、交通事故で複雑骨折と内臓を損傷しています!」
ますます気の毒な話だ。横切った処置室から看護師と医師の会話がかすかに聞こえた。
「――を、バイクで……リング中、――で、」
「……まえは?」
「佐久間……一さん、」
いったん足を止めた神崎は、方向転換して処置室に入った。頼りなさそうな若手の医師と看護師が慌てふためいている。寝かされている患者は顔面の損傷がひどく、全身が血まみれだ。
「この人は?」
「バイクでツーリング中に車と接触して……」
「違う、身元だ」
「佐久間秀一さん、三十四歳です」
看護師に持ち物から見つかった運転免許証を渡される。目の前にいる彼は打撲や裂傷、出血でひと目見ただけでは人物の特定が難しいが、写真を見る限り佐久間秀一、本人だ。
神崎はまず、その事実に驚いていた。もう二度と会うまいと決めていた人物が、まさか瀕死で運び込まれるとは思いもしなかった。次に抱いたのは半分憐み、半分愉快さだった。まだ三十四という若さで重傷を負ってしまったことは気の毒だが、ハルカを思えば当然の結果だと思った。そして考えた。このまま若手医師に任せれば秀一は間違いなく死ぬ。自分が看れば一命は取り留めるだろう。ハルカへの償いをあの世でさせるか、生かして恩を一生着せるか。医師らしからぬ選択をして神崎は言った。
「わたしが看る」
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