カルマの旋律2-4
***
朝、出勤すると裏口の前で誰かが立っているのを見た。長い焦げ茶の髪の毛をひとつに縛り、フレームのないシンプルなデザインの眼鏡をかけている。長身で姿勢のいい、いるだけで絵になる男だった。近付いてその正体が分かると秀一は眉をひそめた。
「……なんでここにいるんだよ、神崎」
秀一に気付いた神崎はそれまで保っていたクールな無表情を一変させて、みるみる顔を歪ませた。そして近付くと秀一の胸ぐらを掴む。秀一は睡眠不足と精神的な疲れもあって動じなかった。神崎が自分を訪ねてきた理由も大体、見当がつく。
「貴様ァ! 栄田に謝罪のひとつもないのか!」
血管が浮き出るほど強く襟を掴まれている。ワイシャツとネクタイが皺になってしまう、などと、呑気なことを考えた。秀一は神崎の手首を握り、無理やり胸から外した。
「なんの謝罪だ」
「お前が栄田を傷付けたからだろう! あいつがどんな想いで身投げしたと思うんだ!」
「俺だって迷惑してるんだよ。そんなことでいちいち死なれると思わねぇだろ。原因はあいつの心の弱さと恋愛経験のなさだよ。俺のせいにするな」
「お前は本当にクズだな……! 一体なんのつもりで栄田に近付いたんだ。不用意に付き合って傷付けて、人生まで奪った。あれは殺人だ、お前は人殺しだッ!!」
「うるせぇ!! だったらお前が止めて慰めてやりゃよかっただろ! あのあと追い掛けていって、お前は何をしてたんだよ! 止めきれずに目の前で死ぬのをボサッと見てただけかよ! それこそ情けねぇ話だよなぁ! 医者のくせに好きな奴ひとりも救えねぇのか! 傍観してたお前も同罪だよ、俺になすりつけんじゃねぇ!!」
ちらほらと社員が出勤してくる。話の内容まで分からなくとも険悪なムードだけは誰が見ても分かる。次々に一瞥されて、秀一は舌打ちをして神崎を睨んだ。
「人の迷惑を考えろよ、二度と来んな」
神崎がもの言いたげな鋭い視線を寄越してくるのに気付いていたが、秀一は振り返らずに社内に入っていった。
エレベーターの前で、秀一が気に入っているあの彼女がいた。青い顔をして困惑しているように見えた。秀一は明るく笑ってみせた。
「おはよう!」
「佐久間くん、おはよ……。ねぇ、さっきそこで言い合ってた人、このあいだアパートの前でいなかった……?」
「……」
「あの時も何か言い合ってるみたいだった。佐久間くんははぐらかしてたけど。さっきの会話も少し聞こえたの。身投げとか、人殺しとか……。何かあったの?」
「――なにそれ。俺がなんかしたとでも思ってんの?」
「そ、そうじゃないけど」
「共通の知り合いが自殺したんだ。でも俺はたいして親しくなかったから葬儀に出なかった。それをさっきの奴が大袈裟に責めただけだ」
「そ、そう、なんだ。で、でも佐久間くんの知り合いでしょ? 出なくて本当に、」
「うるせぇな、口出しすんな!!」
張り上げた声がロビーに響き渡る。大勢の社員がいる中で突然理不尽に怒鳴られた彼女は、驚きもあってポロポロと涙を零した。それが余計に注目を集める。この構図はどうしても自分が悪者になってしまう。そうだと分かっていても苛々と舌打ちが止まらなかった。
「佐久間ぁ、何があったか知らないけど、女の子怒鳴るのは良くないだろ」
「しかもロビーでなんて、誰が見てるか分かんないぜ?」
彼らに深い意味がなくても、言葉のひとつひとつが自分を責めているように聞こえる。
ハルカが自殺したのは自分のせいじゃないかもしれない。悪運が重なって、飛び降りたのがたまたまその日だったのかもしれない。それでもあの日のハルカの様子を思い返せば、自分がその「悪運」のひとつであることには変わりない。咎められれば咎められるほど否定したくなる。後悔や反省をすれば認めたことになる。
――あれは殺人だ、お前は人殺しだッ!!――
神崎の言葉が脳に焼き付いて離れない。耳の中で何度もリピートされた。周囲の話し声も挨拶も、電話の音ですらもすべてが自分を責める騒音に聞こえる。
――どいつもこいつも俺を責めやがって!
俺は悪くない、絶対に悪くない。
死ねば楽になると思うなよ!
―――
睡眠不足も解消されず、ハルカが自死してから二週間経っても秀一の頭の中は混乱したままだった。体調が優れずに会社を欠勤したり早退したりする日が続いている。これまでの仕事ぶりが評価されて数日までは上司も気遣ってくれた。事情を説明すると憐れんでくれる。しかし、さすがに二週間も続くと上司も「またか」と呆れるばかりだった。
本調子でないにも関わらず週末に思い立ってバイクに乗った。学生時代から車よりバイクを愛用している。趣味はツーリングだった。仕事が忙しくなってから乗らなくなったが、久しぶりに景色のいい山道でも走れば体調も戻るのではないかと考えたのだ。なのに、いくら緑の生い茂る木々を見ても、色とりどりの花を見ても、瑠璃色の海を見ても、視界に流れて来る景色はまるでモノクロのフィルムを見ているようで、気が晴れるどころか酔ってしまった。カーブの多い山道ではなかなか停まれる場所もなく、どこかで東屋でも見つけたら休憩しようと無理をして走り続けた。
狭い道路でガードレールの向こうはすぐ崖になっている。もしバランスを崩してここから落ちたら無事ではいられないだろう。そんなことを一瞬でも考えたのがいけなかった。ハルカが自死した瞬間を想像してしまい、動揺してスピードを上げてしまったのだ。
――早く、停まりたい……!
カーブの向こうで車のブレーキ音とクラクションが聞こえた。まずい、と思った時には遅かった。スピードを落とせないまま目の前に現れた乗用車と真っ向からぶつかった。しかも相手の車にとっては下り坂だ。強い衝撃を受けて、秀一は宙を舞った。
⇒
朝、出勤すると裏口の前で誰かが立っているのを見た。長い焦げ茶の髪の毛をひとつに縛り、フレームのないシンプルなデザインの眼鏡をかけている。長身で姿勢のいい、いるだけで絵になる男だった。近付いてその正体が分かると秀一は眉をひそめた。
「……なんでここにいるんだよ、神崎」
秀一に気付いた神崎はそれまで保っていたクールな無表情を一変させて、みるみる顔を歪ませた。そして近付くと秀一の胸ぐらを掴む。秀一は睡眠不足と精神的な疲れもあって動じなかった。神崎が自分を訪ねてきた理由も大体、見当がつく。
「貴様ァ! 栄田に謝罪のひとつもないのか!」
血管が浮き出るほど強く襟を掴まれている。ワイシャツとネクタイが皺になってしまう、などと、呑気なことを考えた。秀一は神崎の手首を握り、無理やり胸から外した。
「なんの謝罪だ」
「お前が栄田を傷付けたからだろう! あいつがどんな想いで身投げしたと思うんだ!」
「俺だって迷惑してるんだよ。そんなことでいちいち死なれると思わねぇだろ。原因はあいつの心の弱さと恋愛経験のなさだよ。俺のせいにするな」
「お前は本当にクズだな……! 一体なんのつもりで栄田に近付いたんだ。不用意に付き合って傷付けて、人生まで奪った。あれは殺人だ、お前は人殺しだッ!!」
「うるせぇ!! だったらお前が止めて慰めてやりゃよかっただろ! あのあと追い掛けていって、お前は何をしてたんだよ! 止めきれずに目の前で死ぬのをボサッと見てただけかよ! それこそ情けねぇ話だよなぁ! 医者のくせに好きな奴ひとりも救えねぇのか! 傍観してたお前も同罪だよ、俺になすりつけんじゃねぇ!!」
ちらほらと社員が出勤してくる。話の内容まで分からなくとも険悪なムードだけは誰が見ても分かる。次々に一瞥されて、秀一は舌打ちをして神崎を睨んだ。
「人の迷惑を考えろよ、二度と来んな」
神崎がもの言いたげな鋭い視線を寄越してくるのに気付いていたが、秀一は振り返らずに社内に入っていった。
エレベーターの前で、秀一が気に入っているあの彼女がいた。青い顔をして困惑しているように見えた。秀一は明るく笑ってみせた。
「おはよう!」
「佐久間くん、おはよ……。ねぇ、さっきそこで言い合ってた人、このあいだアパートの前でいなかった……?」
「……」
「あの時も何か言い合ってるみたいだった。佐久間くんははぐらかしてたけど。さっきの会話も少し聞こえたの。身投げとか、人殺しとか……。何かあったの?」
「――なにそれ。俺がなんかしたとでも思ってんの?」
「そ、そうじゃないけど」
「共通の知り合いが自殺したんだ。でも俺はたいして親しくなかったから葬儀に出なかった。それをさっきの奴が大袈裟に責めただけだ」
「そ、そう、なんだ。で、でも佐久間くんの知り合いでしょ? 出なくて本当に、」
「うるせぇな、口出しすんな!!」
張り上げた声がロビーに響き渡る。大勢の社員がいる中で突然理不尽に怒鳴られた彼女は、驚きもあってポロポロと涙を零した。それが余計に注目を集める。この構図はどうしても自分が悪者になってしまう。そうだと分かっていても苛々と舌打ちが止まらなかった。
「佐久間ぁ、何があったか知らないけど、女の子怒鳴るのは良くないだろ」
「しかもロビーでなんて、誰が見てるか分かんないぜ?」
彼らに深い意味がなくても、言葉のひとつひとつが自分を責めているように聞こえる。
ハルカが自殺したのは自分のせいじゃないかもしれない。悪運が重なって、飛び降りたのがたまたまその日だったのかもしれない。それでもあの日のハルカの様子を思い返せば、自分がその「悪運」のひとつであることには変わりない。咎められれば咎められるほど否定したくなる。後悔や反省をすれば認めたことになる。
――あれは殺人だ、お前は人殺しだッ!!――
神崎の言葉が脳に焼き付いて離れない。耳の中で何度もリピートされた。周囲の話し声も挨拶も、電話の音ですらもすべてが自分を責める騒音に聞こえる。
――どいつもこいつも俺を責めやがって!
俺は悪くない、絶対に悪くない。
死ねば楽になると思うなよ!
―――
睡眠不足も解消されず、ハルカが自死してから二週間経っても秀一の頭の中は混乱したままだった。体調が優れずに会社を欠勤したり早退したりする日が続いている。これまでの仕事ぶりが評価されて数日までは上司も気遣ってくれた。事情を説明すると憐れんでくれる。しかし、さすがに二週間も続くと上司も「またか」と呆れるばかりだった。
本調子でないにも関わらず週末に思い立ってバイクに乗った。学生時代から車よりバイクを愛用している。趣味はツーリングだった。仕事が忙しくなってから乗らなくなったが、久しぶりに景色のいい山道でも走れば体調も戻るのではないかと考えたのだ。なのに、いくら緑の生い茂る木々を見ても、色とりどりの花を見ても、瑠璃色の海を見ても、視界に流れて来る景色はまるでモノクロのフィルムを見ているようで、気が晴れるどころか酔ってしまった。カーブの多い山道ではなかなか停まれる場所もなく、どこかで東屋でも見つけたら休憩しようと無理をして走り続けた。
狭い道路でガードレールの向こうはすぐ崖になっている。もしバランスを崩してここから落ちたら無事ではいられないだろう。そんなことを一瞬でも考えたのがいけなかった。ハルカが自死した瞬間を想像してしまい、動揺してスピードを上げてしまったのだ。
――早く、停まりたい……!
カーブの向こうで車のブレーキ音とクラクションが聞こえた。まずい、と思った時には遅かった。スピードを落とせないまま目の前に現れた乗用車と真っ向からぶつかった。しかも相手の車にとっては下り坂だ。強い衝撃を受けて、秀一は宙を舞った。
⇒
スポンサーサイト