カルマの旋律1-4
佐久間が向かったのは独身者向けのアパートだった。女が先に共同階段を駆け上がっていく。階段の下でひとり残された佐久間に、神崎が先に近寄った。ふたりの存在にようやく気付いた佐久間は、浮かれた表情から一気に煩わしげな表情へ変えた。ただ、焦る様子は微塵もない。
「こんなところで再会するとは思わなかったぜ、神崎」
「俺もお前なんかと会いたくなかったさ」
佐久間の目尻がピクリと痙攣する。神崎の後ろで隠れるように立っているハルカを一瞥した。
「いくら連絡しても俺が反応しねぇから、神崎に浮気調査の協力を依頼したってことか? で、無事、現場を押さえられたってわけか」
「しゅ、秀一、どうして」
「普通さ、分かるだろ。電話してもラインしても返事がない、既読にならない。『あ、避けられてるんだ』って馬鹿でも気付くぜ」
「避けてた……の」
「だって、お前、鬱陶しんだもん。いい歳した男のくせにウジウジして、すぐメソメソして、お前と一緒にいたら辛気臭くなるんだよ」
「……でも、秀一はそういう僕を好きになったって」
「んーまあ、顔はその辺の女よりは綺麗だからよ、いけるかと思ったけど、俺もそろそろ結婚とか視野に入れたいしな。あきらかにお前はナシだろ」
神崎が先に動いて佐久間の胸ぐらを掴んだ。佐久間はそれに物怖じすることなく、神崎の顔面に向かって唾を吐きかける。
「部外者は引っ込んでな」
「栄田に頼られた以上、俺は部外者じゃない。栄田はお前が無事かどうか心配してたんだよ。栄田の気持ちも知りもしないで、よくそんな残酷なことを言えるな。クズが」
神崎に見下ろされながら、佐久間は鼻で笑った。
「なんだよ、嫉妬か? 俺がハルカを落としたのが、ハルカが俺を好きなのがそんなに悔しいか。そりゃそうだよなぁ、ずーっとハルカを好きだったもんな?」
カッとなった神崎は佐久間を思い切り殴り付けた。佐久間は尻餅をつき、唇の端から血を流したが、やり返すこともせずニヤリと口角を上げた。佐久間の口から神崎の想いをバラされたことに腹を立てたわけじゃない。なんの関わりもなく、たった今、初めて言葉を交わした知人以下の存在である佐久間に、ハルカへの想いを気付かれていたことが屈辱だったからだ。再び拳を振り上げたところをハルカに止められた。
「神崎くん! もういい、もういいよ。……充分、分かった」
「栄田も一発や二発、殴ればいい」
佐久間は地べたに座り込んだまま胡坐をかき、挑発的に頬を指差した。
「どうぞ、殴ってくれていいぜ。それでお前の気が済むならな」
「……僕のことはたいして好きじゃなかったってことか……」
「悪いな」
と、悪びれもなく言うのである。ハルカは震える声で「さよなら」と残して走り去った。
「栄田!」
「追い掛ければ? アイツのこと好きなんだろ? ああ、アイツの良いところひとつ教えてやろうか。フェラは上手いぜ」
神崎はもう一度、佐久間の胸ぐらを持ち上げて拳を打ち込んだ。たった二発では気が済まないが、ハルカを放っておけない。神崎は急いでハルカのあとを追った。
大通りに出て先ほどのフランチャイズカフェまで戻った時、うなだれて足を引きずりながら歩いているハルカを見つけた。
「栄田!」
呼び掛けると、ハルカはまた走り出す。意外に足が速いらしく、なかなか捉えることができない。やがてハルカが駆け込んだのは、先日ピアノを演奏したホテルだった。フロントを通り過ぎて真っ先に非常階段へ向かった。嫌な予感がする。
「栄田! 待て! どこに行くんだ!」
「来ないでくれ!」
ようやく追いついて肩を掴んだと思っても、思いきり突き飛ばされる。足場の悪い階段では踏ん張りがきかずに手を離してしまった。ハルカは駆け上がり、最上階へ向かう。この時期はビアガーデンを催しているので施錠が甘いらしい。あっさり屋上への侵入を許されたハルカは、フェンスまで走り寄った。よじ登ろうとするのを羽交い絞めにして止める。
「馬鹿なことはやめろ! 死ぬぞ!」
「死にたいんだよ!」
「あんな奴のために死ぬな!」
「僕には彼しかいないんだ! 彼しかいなかったんだよ!!」
賑わっているビアガーデンの中で、ハルカは泣き叫んだ。大勢の視線がふたりに刺さる。
「……嬉しかったんだよ……好きだって言ってくれて……。声を掛けてくれて、覚えてくれてて、嬉しかった。今まで誰とも恋人関係になったことがなかったから、彼が僕にとって全部初めてだった。なのに……」
「お前を愛してくれる奴は他にもいる」
俺だって、と続けようとしたところを、手を振り払われた。
「僕には何もない。友達も恋人も」
「違う、何もないなんてことはない」
「もう駄目だ、信じられないよ、……生きてたって仕方がない」
誰かが告げ口をしたのか、警備員がふたりに駆け寄ってきた。
「栄田、とにかく……」
ハルカは宥める神崎を振り切って、フェンスを乗り越えた。
「やめろ! 戻れ!」
「きみ! そっちは駄目だ!」
「神崎くん、ありがとう。さようなら」
そしてハルカは頬に涙の筋を残したまま、暗闇の底へ姿を消した。
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「こんなところで再会するとは思わなかったぜ、神崎」
「俺もお前なんかと会いたくなかったさ」
佐久間の目尻がピクリと痙攣する。神崎の後ろで隠れるように立っているハルカを一瞥した。
「いくら連絡しても俺が反応しねぇから、神崎に浮気調査の協力を依頼したってことか? で、無事、現場を押さえられたってわけか」
「しゅ、秀一、どうして」
「普通さ、分かるだろ。電話してもラインしても返事がない、既読にならない。『あ、避けられてるんだ』って馬鹿でも気付くぜ」
「避けてた……の」
「だって、お前、鬱陶しんだもん。いい歳した男のくせにウジウジして、すぐメソメソして、お前と一緒にいたら辛気臭くなるんだよ」
「……でも、秀一はそういう僕を好きになったって」
「んーまあ、顔はその辺の女よりは綺麗だからよ、いけるかと思ったけど、俺もそろそろ結婚とか視野に入れたいしな。あきらかにお前はナシだろ」
神崎が先に動いて佐久間の胸ぐらを掴んだ。佐久間はそれに物怖じすることなく、神崎の顔面に向かって唾を吐きかける。
「部外者は引っ込んでな」
「栄田に頼られた以上、俺は部外者じゃない。栄田はお前が無事かどうか心配してたんだよ。栄田の気持ちも知りもしないで、よくそんな残酷なことを言えるな。クズが」
神崎に見下ろされながら、佐久間は鼻で笑った。
「なんだよ、嫉妬か? 俺がハルカを落としたのが、ハルカが俺を好きなのがそんなに悔しいか。そりゃそうだよなぁ、ずーっとハルカを好きだったもんな?」
カッとなった神崎は佐久間を思い切り殴り付けた。佐久間は尻餅をつき、唇の端から血を流したが、やり返すこともせずニヤリと口角を上げた。佐久間の口から神崎の想いをバラされたことに腹を立てたわけじゃない。なんの関わりもなく、たった今、初めて言葉を交わした知人以下の存在である佐久間に、ハルカへの想いを気付かれていたことが屈辱だったからだ。再び拳を振り上げたところをハルカに止められた。
「神崎くん! もういい、もういいよ。……充分、分かった」
「栄田も一発や二発、殴ればいい」
佐久間は地べたに座り込んだまま胡坐をかき、挑発的に頬を指差した。
「どうぞ、殴ってくれていいぜ。それでお前の気が済むならな」
「……僕のことはたいして好きじゃなかったってことか……」
「悪いな」
と、悪びれもなく言うのである。ハルカは震える声で「さよなら」と残して走り去った。
「栄田!」
「追い掛ければ? アイツのこと好きなんだろ? ああ、アイツの良いところひとつ教えてやろうか。フェラは上手いぜ」
神崎はもう一度、佐久間の胸ぐらを持ち上げて拳を打ち込んだ。たった二発では気が済まないが、ハルカを放っておけない。神崎は急いでハルカのあとを追った。
大通りに出て先ほどのフランチャイズカフェまで戻った時、うなだれて足を引きずりながら歩いているハルカを見つけた。
「栄田!」
呼び掛けると、ハルカはまた走り出す。意外に足が速いらしく、なかなか捉えることができない。やがてハルカが駆け込んだのは、先日ピアノを演奏したホテルだった。フロントを通り過ぎて真っ先に非常階段へ向かった。嫌な予感がする。
「栄田! 待て! どこに行くんだ!」
「来ないでくれ!」
ようやく追いついて肩を掴んだと思っても、思いきり突き飛ばされる。足場の悪い階段では踏ん張りがきかずに手を離してしまった。ハルカは駆け上がり、最上階へ向かう。この時期はビアガーデンを催しているので施錠が甘いらしい。あっさり屋上への侵入を許されたハルカは、フェンスまで走り寄った。よじ登ろうとするのを羽交い絞めにして止める。
「馬鹿なことはやめろ! 死ぬぞ!」
「死にたいんだよ!」
「あんな奴のために死ぬな!」
「僕には彼しかいないんだ! 彼しかいなかったんだよ!!」
賑わっているビアガーデンの中で、ハルカは泣き叫んだ。大勢の視線がふたりに刺さる。
「……嬉しかったんだよ……好きだって言ってくれて……。声を掛けてくれて、覚えてくれてて、嬉しかった。今まで誰とも恋人関係になったことがなかったから、彼が僕にとって全部初めてだった。なのに……」
「お前を愛してくれる奴は他にもいる」
俺だって、と続けようとしたところを、手を振り払われた。
「僕には何もない。友達も恋人も」
「違う、何もないなんてことはない」
「もう駄目だ、信じられないよ、……生きてたって仕方がない」
誰かが告げ口をしたのか、警備員がふたりに駆け寄ってきた。
「栄田、とにかく……」
ハルカは宥める神崎を振り切って、フェンスを乗り越えた。
「やめろ! 戻れ!」
「きみ! そっちは駄目だ!」
「神崎くん、ありがとう。さようなら」
そしてハルカは頬に涙の筋を残したまま、暗闇の底へ姿を消した。
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