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カルマの旋律1-1

 フランツ・リスト作曲『愛の夢』第三番。

神崎(かんざき)正臣(まさおみ)がこの曲の題名を知ったのは、彼が高校生の頃だった。放課後の音楽室から毎日のように聞こえる旋律が美しすぎて一瞬にして虜になった。曲に惹かれたのか、それとも弾いていた「彼」に惹かれたのか。どちらにせよ神崎の心はあの日、奪われた。

 甘く切なく、壮大なメロディ。軽快ながらも重みのある指使いは、聴き手に愛を問いかける。鍵盤と指の融合。音のゆらめき、白い指、長い睫毛、赤い唇。

 ――美しい。

 彼の奏でるピアノの音が、彼が、美しい。
 神崎は沸々と湧き上がる愛欲と独占欲を抑えながら、ホテルのロビーで『愛の夢』を演奏する彼を見つめていた。

 ――どうすれば俺のものになるだろう。

 彼をものにしたいという支配欲が治まらない。ソファの肘掛けをトントンと叩く指の動きが、次第にメロディとずれていった。
 演奏を終えて、ようやく彼が神崎のほうへ向かってくる。途端に胸が高鳴りだした。神崎の前に佇むと、にこりと微笑む。

「聴きに来てくれてありがとう、神崎くん」

「いや、俺もきみがここでピアノを弾いていると聞いて、来たくてたまらなかったんだ。こちらこそ素晴らしい演奏をありがとう」

 このあと、ふたりで食事にでも。と、続けるより先に彼が言った。

「着いたみたい」

「え?」

「実は今日、もうひとり誘ってて。仕事が忙しくて来れないって言ってたんだけど、今、来てくれた」

 カツカツとやかましいローファーの音を響かせながらやってきたその男は、彼の隣に立った。濃紺のスーツを纏った、生意気そうな眼をした男だ。神崎はその男を見るなり眉をひそめた。

「神崎くんも知ってるでしょ? 佐久間くんのこと。高三の時、同じクラスだったよね? 実は僕……」
 
 ――待て、それ以上言うな。やめろ、やめてくれ。

「佐久間くんと付き合ってるんだ」

 ***

 熱湯を被って火傷を負った幼児が診察に現れた。初診では軽く消毒をして包帯を巻いただけだと母親は言ったが、包帯をといてみると誰が見ても消毒だけでは治らない重傷だと判断できる。総合病院では日によって担当医が代わるので、治療の良し悪しは運次第だ。この幼児も初診でかかった担当医が悪かったのは不運だが、再診で自分にかかれたことは幸運だったな、と神崎は心の中で驕った。

「お母さん、これはきちんと治療をしないと痕になりますよ。三度の重傷です」

 不安を煽るわけではないが、のんびり構えた母親に危機感を持たせるために、あえて深刻げに言った。実際、治療を怠ると一生の傷になることはあきらかだ。微笑していた母親はすぐに眉間を寄せて心配そうにする。

「き、綺麗にはならないでしょうか……」

「きちんと治療すれば綺麗になります。間違った治療をすればケロイドになってしまいます。火傷に限らずですが、消毒はしないほうがいい。湿潤療法といって、常に湿り気をもたせた状態で気長に様子を見ます」

「お薬は」

「特にありません」

 神崎は保湿クリームをヘラで患部に塗り、ガーゼを宛てて包帯を巻いた。

「一ヵ月はお風呂を控えて下さい。どうしても入る時はビニール袋などを被せて水につけないように。乾燥させるのが駄目ですから。三日後にまた来て下さい」

「ありがとうございました」

 母娘が診察室を去って足音が遠のいた頃、近くを通りかかった同じく形成外科の勤務医である吉田が神崎に声を掛けた。

「神崎先生、相変わらずクールだね。さっきの女の子、ずーっときみの顔を不思議そうに見てたよ」

「わたしは『子ども』を診てるんじゃないのでね」

「ちらっと聞こえたけど、三度の熱傷? 誰が消毒なんかしたの」

「初診は二日前と言っていたので、岡崎先生ですね。頭の古い年寄りは治療も古い」

 吉田が慌てて人差し指を立てて「シッ!」と制すので、神崎は「いませんよ」と笑った。

「けど、神崎先生なら聞こえてても問題ないか。ここでの勤務はほぼボランティアだもんね。医院のほうはどう? 繁盛してる?」
「それなりに。まあ、大半は美容目的ですが」

「いいなぁ、僕も開業しようかなぁ」

「わたしはもっとやりがいのある仕事がしたいですね。それができれば医院でも総合病院でもどちらにいてもいい」

「やりがいのある仕事って?」

「そうですね。いっそ自分の理想の形を作るためにバラバラになった人体を再建するとか」

 シン、とその場が静まった。

「あ、あ~……さすが腕のいい先生は違うなァ。おっと、では医局に戻りますんで~」

 そそくさと去る吉田を、神崎はまた鼻で笑った。

 形成外科医の神崎は、個人の医院を開業しながら週に一度、総合病院の形成外科で勤務医をしている。もともと勤めていた病院だった。三十二の時に開業して退職したが、人手が足りないからと頼まれて渋々承諾したのだ。医院が定休日である木曜日が、神崎が総合病院で勤務する日だ。給与はしれた額だが、医院の収入が上々で経営にも生活にも苦労がないので、その辺りはどうでもいい。神崎にとって総合病院での勤務は息抜きのようなものだった。吉田にも言ったが、神崎が求めているのは収入でも、地位でも権力でもない。やりがいのある仕事なのだ。仕事の幅を広げたくて医院を立ち上げたのに、訪れるのは簡単な整形や傷痕の治療など、神崎にとっては退屈な仕事ばかりだった。

 ――もっと腕が鳴るようなことをしたい。

 満足のいく形成術をしてみたい。自分の理想の形を作りたい。神崎の理想――、ホテルのロビーでピアノを弾いていたあの彼、栄田(さかえだ)ハルカしかいなかった。

 神崎と栄田ハルカは、高校時代の同級生だ。とは言っても、当時は仲が良かったわけではない。
 神崎は幼い頃から抜きんでていて、優秀であるが故に周囲を見下してきた。程度の低い連中と群れるくらいなら、ひとりで本を読んだり勉強をしているほうがいいという、生まれながらの一匹狼だった。ハルカとは高校一年の時に同じクラスだったが、初めは存在すら認識していなかった。神崎と違って物腰が柔らかく、協調性もあるハルカとは掛り合ったことはない。神崎がハルカを意識するようになったのは、高校二年の冬。図書室で勉強をしていて帰りが遅くなった日のことだ。たまたま音楽室の近くを通ったら、思わず足を止めてしまうほど美しい音色が聞こえたのだ。それが『愛の夢』だ。

 ――誰が弾いているのだろう。

 興味本位で音楽室を覗くと、夕映えの中でピアノを弾いているハルカを見た。あまりに神々しく美しかったので、目を奪われた。生まれながら色素が薄いらしい肌と茶色の髪に反射する夕陽、もの悲しい雰囲気に似合った音楽。この世にこんなに美しいものがあるのかと神崎は初めて恋に落ちた。けれども、そこから話し掛ける勇気がなく、結局卒業までハルカと言葉を交わしたことはない。友人と談笑する姿や、放課後にピアノを弾く姿を遠目で見つめるだけだった。

 ハルカと初めて会話をしたのは、つい三ヵ月前に行われた同窓会で再会した時だ。十七年ぶりに見る彼は変わらず美しかった。忘れかけていた情欲が蘇り、このチャンスを逃してはならないと思った。心臓が喉から出そうなほどの緊張をしながら、ハルカに声を掛けた。

「栄田くん、久しぶりだね」

「神崎くん? 全然変わってないからすぐに分かったよ。相変わらずきみは格好いいね」

 一度も会話をしたことがなかったのに、ハルカは自分を覚えていたのだ。嬉しくてたまらなかった。絶対に近付きたかった。ハルカがプロのピアニストとしてホテルや病院のラウンジで仕事をしていると聞いたのも、その時だった。
 たまたま医院の近くのホテルで演奏をする予定があると知って、早めに仕事を切り上げて観に行ったあの日。初めて音楽室で彼を見た時と同じ高揚感を味わった。

 ――ああ、もう一度会いたい。

 思いを馳せながら帰路につき、医院まで辿り着いた時、入口の前でひとりの男を見つけた。振り返った男が神崎に気付くとほっとしたように微笑する。

「あ、……神崎くん」

 細長い手足、まっすぐ伸びた背筋、小さな顔には左右対称のアーモンド形の目。全体的に華奢だが、脆そうというわけではない。健康的で無駄のない整ったシルエットだ。たった今、神崎が思い焦がれていた相手、栄田ハルカだ。ホテルでピアノを弾いていた時はスーツ姿で凛としていたが、今はポロシャツとクロップドパンツというラフな格好で、若々しく見えた。神崎は途端に昂る気持ちを悟られないよう、冷静に訊ねた。

「どうかしたのか」

「うん、ごめんね、いきなり。ちょっと話したいことがあって」

 神崎は医院の裏口へ回り、先に中に入ってから入口の施錠を解いた。

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