剛(ごう) 1
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田植えに向けて、各農家が大地を耕し出す賑やかな季節。一面眩しい真緑の田んぼを夢見るウキウキとしたこの時期に、俺のクラスに転校生がやってきた。ひと目見た瞬間、運命だと思った。
「瀬川まひるです。東京から来ました。よろしくお願いします」
「ま、まひる……」
感動を抑えきれずに、俺はクラス中が怪訝な顔で注目する中、問いかけた。
「まひるやろ……? 小学生ん頃、この辺に住んどったよな?」
忘れもしない俺の初恋。餅みたいに白い肌、栗のような大きな瞳、触ると折れそうなほどの細い体。そして美しく育った稲穂のような茶色い髪……。
――やっと会えた……!
「俺、剛や。池谷剛(ごう)! 覚えとるやろ!?」
そしてまひるは爽やかな笑顔で言った。
「誰?」
***
波の穏やかな海と山脈に囲まれた、この瀬戸内の片田舎で生まれ育って十七年。のどかで平和で、狭すぎるこの街で、俺はのびのびと暮らしてきた。先祖代々米農家の俺の家は、決して裕福ではないけれど、広大な田畑と山を所有していて心置きなく大自然を堪能してきた。裸足で野山を駆け巡り、畑で採れた新鮮な野菜や果物をおやつ替わりにして、虫を捕まえたり猫を追い掛けたり、頭の先から足の先まで泥だらけになったものだ。
中でも一番楽しかったのは、毎日のようにまひると一緒に遊んだことだ。まひるは俺の家の向かいに住んでいた、赤ん坊の頃からの幼馴染だ。俺は4000グラムで産まれて、まひるは2500グラムギリギリで産まれたらしく、生まれた時の体格は成長してもそのままで、年齢のわりにずっと巨体だった俺とは逆に、まひるは標準より小柄だった。両親の農作業に付き合って日焼けで年中真っ黒だった俺と違って、まひるは白くて可愛くて、うちのお袋はよく「お人形さんみたいね」と、羨ましがった。それから俺はどんな獣道でも果敢に進んでいくけれど、まひるは怖がりだったから、いつも金魚のフンみたいに俺の後ろにいた。
「怖いんやったら、ウチでおりぃ」
「ひとりで家おってもつまらん。ゴンちゃんと遊びたい」
「怪我しても知らんで」
「ええもん。ゴンちゃんと行くもん」
狸やイタチに悲鳴を上げたり、坂道ですべって転んで泣いたり喚いたりするまひるを、「あー、こいつは俺が守ってやらんといかんのやな」と子どもながらに思っていたものだ。
――なあ、ゴンちゃん。大きくなっても一緒に遊んでな。
――当たり前やん。春は空豆採って、夏は海行って、秋は柿ちぎって、冬はこたつでみかん食べよな。
だけど、そんな楽しい日々は小学校五年生で終わった。
まひるの父親が転勤になったからと隣町に越すことになったのだ。離れたくないと駄々をこねて、「ウチで一緒に住んだらええやん!」と泣き叫んだのを覚えている。
――ゴンちゃん、ぼくのこと絶対忘れんといてな。また遊ぼうな、絶対やで。
――まひるのこと迎えに行く! 結婚してな!
大人たちは「アホやなぁ」と馬鹿にして笑っていたが、俺は本気で結婚したいと思うくらい、まひるのことが大好きだったんだ。
そしてそれは何年経っても変わらず……。
ふかふかの土を耕す春の田んぼを見ながら、
キラキラと太陽と青空を映す水の張った初夏の田んぼを見ながら、
青々と成長して緑の絨毯となった真夏の田んぼを見ながら、
黄金色の稲穂で賑わう秋の田んぼを見ながら、
稲刈りを終えて一気に寂しくなった冬の田んぼを見ながら、
この六年間、一年中、まひるを思い続けてきた。……それなのに、
――誰? ――
そらないやろ。
***
「どしたん、剛。珍しいな、あんたがご飯残すなんて」
思いがけない再会とショックに胸がいっぱいで、朝食が喉を通らない。畑で採れたエンドウをふんだんに使った豆ごはん。いつもなら炊飯器を平らげるくらいの勢いなのに、今日は茶碗三杯しか食えなかった。
「なあ、おかん。瀬川まひるって覚えとる?」
「覚えとるで。そや、引っ越してきたんやんな」
「同じクラスになってん」
「え~! 良かったやん! なんか話した? 元気やった?」
「それが、俺のこと覚えとらん言うんや」
お袋はアヒャヒャと品のない声を上げて笑った。
「まあ、そんなこともあるわな」
「ほんだって、あんだけ毎日一緒に遊んだんやで」
「小さい頃の六年間なんか、大人の二十年間くらい長ぉ感じるもんや。しゃあないわ」
「おかんもまひるの母ちゃんと仲良かったんちゃうん」
「今もペンフレンドやで」
「ぺんふれんど……」
「昔は昔、今は今で、また仲良うなったらえんちゃう? それより、はよ食べんと、じいちゃんが畑に水撒いとけ言いよったで」
「肝心のジジイはどこ行ったん」
「竹林。最後の筍掘りに行く言うとったわ」
はあ、と溜息をついて、気合いを入れるように小松菜と揚げと豆腐の味噌汁を胃袋に流し込んだ。
「ほな、畑行ったらそのまま学校行くけん」
「なんなん、元気ないなぁ」
「恋煩いや……」
俺の家は平屋の日本家屋で、母屋の隣に離れと納屋がある。納屋にはトラクターや小さなショベルカーなどの農機具をしまっていて、離れにはもともと曾祖父母が住んでいたのだけど、十年前に他界してから物置部屋になっている。納屋に入りきらなかった農具や、不要になった本や服をそこにまとめて置いてあるのだ。俺は少しカビ臭い離れに入り、軍手を着用してから母屋の裏にある畑へ向かった。
カラリと晴れた初夏の空。朝はまだ少し空気が冷たいが、学校へ行く前に畑や田んぼでひと汗かくのが俺のささやかな楽しみだ。
小さい頃から畑に水をやったり野菜を収穫したり、農作業を手伝ってきた。春は籾まきをして、田起こしをし、初夏は田植え、秋は稲刈り。そして冬は春に向けてまた田起こし。学校に行く前も学校から帰ったあとも、ずっと田んぼか畑にいる。おかげで部活に入り損ねたけれど、長年の農作業で体は鍛えられているし、何より一度も嫌だと思ったことがなかった。
田んぼは良い。晴れていても曇っていても、雨が降っても雪が降っても、いつも広い心で俺を受け入れてくれる。自然は裏切らない。なんの変哲もない雑草や土には計り知れない栄養が含まれている。目には見えない微生物、稲の天敵カメムシ、害虫を食べてくれる蜘蛛。小さな世界で繰り広げる食物連鎖。
田んぼは歴史、小宇宙、俺の故郷。米がないと生きられないのに、なんでみんなその偉大さに気付かないんだろう。こんなに素晴らしい世界はないのに。
―――
こんな田舎に東京からイケメンが転校してきたら、そりゃあ女子も放って置かないだろう。まひるが転入してきて三日経つのに、まひるの周りは人だかりが絶えず、俺は一度も声を掛けられずにいる。つまらない質問から下世話な質問まで終始笑顔で答えているまひるを教室の隅からただ見つめているしかなかった。
ずっと見ていても飽きない可愛い顔。相変わらず肌はつやつやと白く、睫毛の長い大きな目をアーチ型に細めて笑っている。ただ、どこか腹にイチモツありそうな胡散臭さがあるのは否めない。昔のような無邪気さが感じられなかった。きっと六年間のあいだで世間に揉まれて成長して、都会で洗練されたのだろう。狸やイタチに泣き叫んでいた昔を思い出すと変わりようは少し寂しい。
俺があんまり見つめるからなのか、時々視線が合った。その度にまひるは眉をひそめて鬱陶しそうな表情で顔を背けるのである。
まひるが転入してきて五日目の放課後、ようやく人の波が途切れて、帰りの田舎道をひとり歩くまひるを追い掛けた。青空の下、とうもろこし畑の横を姿勢よく歩く後姿がなんだか絵になるなと考えながら、肩を掴んで引き止めた。驚いて振り向いたまひるは、大きな目をさらに大きくして俺を見上げた。そしてすぐに目を伏せて「なんか用?」と冷たく言う。
「俺のこと、ほんまに覚えとらんの」
「覚えてない」
聞き慣れない標準語が、更に壁を感じる。
「俺の家の向かいに住んどったやろ? 毎日一緒に遊んだやろ?」
「だから、覚えてないって」
「……今はどこ住んどん?」
「山本町」
俺はまひるの少し後ろを付いていくように歩いた。顎あたりでまひるの柔らかそうな髪の毛が風に靡いてゆらゆら揺れる。
白くて細いうなじに思わず釘付け。
――いかんいかん、変態やん。
「なんで付いてくるんだよ」
「六年ぶりの再会に浸りたくて」
「俺はお前のことなんか覚えてないって言ってるだろ」
「いや、なんかな、その必要以上に冷たいところが、かえって覚えとる証拠ちゃうんかと思うんやけど」
まひるはいったん足を止めて、キッとこちらを睨み付けた。
「お前みたいな土臭い奴なんか知らない」
「えっ、土臭い?」
腕をくんくんと嗅いでみる。
「なんで、いっつもズボンの裾に砂とか土がついてんだよ。しかも今時、下駄ってなんだよ。あきらかに校則違反だろ。五右衛門みたいな頭しやがって」
「運動靴は学校に置いとるし、服装検査のときは下駄履かんし、頭は散髪行く暇がなかなかないんや。ズボンの土は毎朝、畑で水やりするけん」
「お前みたいなダサい奴と幼馴染だった覚えはないんだよ」
「ださい……」
昔の可愛いまひるとは程遠い、乱雑な言い方に呆気に取られた。
――都会っちゅーんは、そんなに人を変えるんか……?
すたすたと歩きだすまひるを慌てて追いかける。
「ほんなら、昔は昔、今は今で仲良くしょうや」
「嫌だ」
「なんでなん。せっかくまたここで暮らすんやったら、仲良うしたほうがええやん。あ、俺んちで採れた野菜とか米とか持ってくで? 昔一緒に畑でトマトちぎって食うたやんな」
「いらない」
「なんでそんな嫌がるん」
「俺はこんな田舎に帰って来たくなかった。こんな狭くてつまらない場所で一生過ごすなんて御免だ。今は仕方なくここにいるけど、卒業したら絶対東京に戻るし、田舎者と慣れ合うつもりもない」
「……」
「畑とか田んぼとか……下らない。ダサい」
「ええ加減にせえよ」
怒気を込めて言った俺の言葉に、まひるはちょっと驚いた顔をした。
俺は田舎が好きだ。畑も田んぼも大事だ。それがないと生きていけないからだ。それをダサいとか下らないと言われるのは、相手がまひるだろうと腹が立った。
「お前が都会でどんだけ洒落た暮らししとったんか知らんけどな、お前の地元やろ。ほんまは覚えとるくせに、なんでそんな言い方するんや。ガッカリやな」
するとさっきまで吊り上がらせていた眉を途端に緩ませて、頬と鼻を赤くしたと思ったら、目をうるうるさせた。
――やっべ! 泣かした! なんで!?
ぎょっとして慌てふためき、オロオロしながら「ごめん」と言いかけたところ、被せるようにしてまひるが声を上げた。
「ほんなら、なんで来てくれんかったんや!」
「へっ?」
「迎えに来る言うたやんか! 待っとったのに! いつまで経っても来んけん、東京行ったんや! アホ!」
さっきまでの標準語はどこへやら、コテコテの方言でそう言い放ったまひるは、とうもろこし畑と田んぼのあいだの畦道を走り去った。遠くにそびえる山に向かって小さくなるまひるの後姿を、俺は茫然と見送った。
⇒
田植えに向けて、各農家が大地を耕し出す賑やかな季節。一面眩しい真緑の田んぼを夢見るウキウキとしたこの時期に、俺のクラスに転校生がやってきた。ひと目見た瞬間、運命だと思った。
「瀬川まひるです。東京から来ました。よろしくお願いします」
「ま、まひる……」
感動を抑えきれずに、俺はクラス中が怪訝な顔で注目する中、問いかけた。
「まひるやろ……? 小学生ん頃、この辺に住んどったよな?」
忘れもしない俺の初恋。餅みたいに白い肌、栗のような大きな瞳、触ると折れそうなほどの細い体。そして美しく育った稲穂のような茶色い髪……。
――やっと会えた……!
「俺、剛や。池谷剛(ごう)! 覚えとるやろ!?」
そしてまひるは爽やかな笑顔で言った。
「誰?」
***
波の穏やかな海と山脈に囲まれた、この瀬戸内の片田舎で生まれ育って十七年。のどかで平和で、狭すぎるこの街で、俺はのびのびと暮らしてきた。先祖代々米農家の俺の家は、決して裕福ではないけれど、広大な田畑と山を所有していて心置きなく大自然を堪能してきた。裸足で野山を駆け巡り、畑で採れた新鮮な野菜や果物をおやつ替わりにして、虫を捕まえたり猫を追い掛けたり、頭の先から足の先まで泥だらけになったものだ。
中でも一番楽しかったのは、毎日のようにまひると一緒に遊んだことだ。まひるは俺の家の向かいに住んでいた、赤ん坊の頃からの幼馴染だ。俺は4000グラムで産まれて、まひるは2500グラムギリギリで産まれたらしく、生まれた時の体格は成長してもそのままで、年齢のわりにずっと巨体だった俺とは逆に、まひるは標準より小柄だった。両親の農作業に付き合って日焼けで年中真っ黒だった俺と違って、まひるは白くて可愛くて、うちのお袋はよく「お人形さんみたいね」と、羨ましがった。それから俺はどんな獣道でも果敢に進んでいくけれど、まひるは怖がりだったから、いつも金魚のフンみたいに俺の後ろにいた。
「怖いんやったら、ウチでおりぃ」
「ひとりで家おってもつまらん。ゴンちゃんと遊びたい」
「怪我しても知らんで」
「ええもん。ゴンちゃんと行くもん」
狸やイタチに悲鳴を上げたり、坂道ですべって転んで泣いたり喚いたりするまひるを、「あー、こいつは俺が守ってやらんといかんのやな」と子どもながらに思っていたものだ。
――なあ、ゴンちゃん。大きくなっても一緒に遊んでな。
――当たり前やん。春は空豆採って、夏は海行って、秋は柿ちぎって、冬はこたつでみかん食べよな。
だけど、そんな楽しい日々は小学校五年生で終わった。
まひるの父親が転勤になったからと隣町に越すことになったのだ。離れたくないと駄々をこねて、「ウチで一緒に住んだらええやん!」と泣き叫んだのを覚えている。
――ゴンちゃん、ぼくのこと絶対忘れんといてな。また遊ぼうな、絶対やで。
――まひるのこと迎えに行く! 結婚してな!
大人たちは「アホやなぁ」と馬鹿にして笑っていたが、俺は本気で結婚したいと思うくらい、まひるのことが大好きだったんだ。
そしてそれは何年経っても変わらず……。
ふかふかの土を耕す春の田んぼを見ながら、
キラキラと太陽と青空を映す水の張った初夏の田んぼを見ながら、
青々と成長して緑の絨毯となった真夏の田んぼを見ながら、
黄金色の稲穂で賑わう秋の田んぼを見ながら、
稲刈りを終えて一気に寂しくなった冬の田んぼを見ながら、
この六年間、一年中、まひるを思い続けてきた。……それなのに、
――誰? ――
そらないやろ。
***
「どしたん、剛。珍しいな、あんたがご飯残すなんて」
思いがけない再会とショックに胸がいっぱいで、朝食が喉を通らない。畑で採れたエンドウをふんだんに使った豆ごはん。いつもなら炊飯器を平らげるくらいの勢いなのに、今日は茶碗三杯しか食えなかった。
「なあ、おかん。瀬川まひるって覚えとる?」
「覚えとるで。そや、引っ越してきたんやんな」
「同じクラスになってん」
「え~! 良かったやん! なんか話した? 元気やった?」
「それが、俺のこと覚えとらん言うんや」
お袋はアヒャヒャと品のない声を上げて笑った。
「まあ、そんなこともあるわな」
「ほんだって、あんだけ毎日一緒に遊んだんやで」
「小さい頃の六年間なんか、大人の二十年間くらい長ぉ感じるもんや。しゃあないわ」
「おかんもまひるの母ちゃんと仲良かったんちゃうん」
「今もペンフレンドやで」
「ぺんふれんど……」
「昔は昔、今は今で、また仲良うなったらえんちゃう? それより、はよ食べんと、じいちゃんが畑に水撒いとけ言いよったで」
「肝心のジジイはどこ行ったん」
「竹林。最後の筍掘りに行く言うとったわ」
はあ、と溜息をついて、気合いを入れるように小松菜と揚げと豆腐の味噌汁を胃袋に流し込んだ。
「ほな、畑行ったらそのまま学校行くけん」
「なんなん、元気ないなぁ」
「恋煩いや……」
俺の家は平屋の日本家屋で、母屋の隣に離れと納屋がある。納屋にはトラクターや小さなショベルカーなどの農機具をしまっていて、離れにはもともと曾祖父母が住んでいたのだけど、十年前に他界してから物置部屋になっている。納屋に入りきらなかった農具や、不要になった本や服をそこにまとめて置いてあるのだ。俺は少しカビ臭い離れに入り、軍手を着用してから母屋の裏にある畑へ向かった。
カラリと晴れた初夏の空。朝はまだ少し空気が冷たいが、学校へ行く前に畑や田んぼでひと汗かくのが俺のささやかな楽しみだ。
小さい頃から畑に水をやったり野菜を収穫したり、農作業を手伝ってきた。春は籾まきをして、田起こしをし、初夏は田植え、秋は稲刈り。そして冬は春に向けてまた田起こし。学校に行く前も学校から帰ったあとも、ずっと田んぼか畑にいる。おかげで部活に入り損ねたけれど、長年の農作業で体は鍛えられているし、何より一度も嫌だと思ったことがなかった。
田んぼは良い。晴れていても曇っていても、雨が降っても雪が降っても、いつも広い心で俺を受け入れてくれる。自然は裏切らない。なんの変哲もない雑草や土には計り知れない栄養が含まれている。目には見えない微生物、稲の天敵カメムシ、害虫を食べてくれる蜘蛛。小さな世界で繰り広げる食物連鎖。
田んぼは歴史、小宇宙、俺の故郷。米がないと生きられないのに、なんでみんなその偉大さに気付かないんだろう。こんなに素晴らしい世界はないのに。
―――
こんな田舎に東京からイケメンが転校してきたら、そりゃあ女子も放って置かないだろう。まひるが転入してきて三日経つのに、まひるの周りは人だかりが絶えず、俺は一度も声を掛けられずにいる。つまらない質問から下世話な質問まで終始笑顔で答えているまひるを教室の隅からただ見つめているしかなかった。
ずっと見ていても飽きない可愛い顔。相変わらず肌はつやつやと白く、睫毛の長い大きな目をアーチ型に細めて笑っている。ただ、どこか腹にイチモツありそうな胡散臭さがあるのは否めない。昔のような無邪気さが感じられなかった。きっと六年間のあいだで世間に揉まれて成長して、都会で洗練されたのだろう。狸やイタチに泣き叫んでいた昔を思い出すと変わりようは少し寂しい。
俺があんまり見つめるからなのか、時々視線が合った。その度にまひるは眉をひそめて鬱陶しそうな表情で顔を背けるのである。
まひるが転入してきて五日目の放課後、ようやく人の波が途切れて、帰りの田舎道をひとり歩くまひるを追い掛けた。青空の下、とうもろこし畑の横を姿勢よく歩く後姿がなんだか絵になるなと考えながら、肩を掴んで引き止めた。驚いて振り向いたまひるは、大きな目をさらに大きくして俺を見上げた。そしてすぐに目を伏せて「なんか用?」と冷たく言う。
「俺のこと、ほんまに覚えとらんの」
「覚えてない」
聞き慣れない標準語が、更に壁を感じる。
「俺の家の向かいに住んどったやろ? 毎日一緒に遊んだやろ?」
「だから、覚えてないって」
「……今はどこ住んどん?」
「山本町」
俺はまひるの少し後ろを付いていくように歩いた。顎あたりでまひるの柔らかそうな髪の毛が風に靡いてゆらゆら揺れる。
白くて細いうなじに思わず釘付け。
――いかんいかん、変態やん。
「なんで付いてくるんだよ」
「六年ぶりの再会に浸りたくて」
「俺はお前のことなんか覚えてないって言ってるだろ」
「いや、なんかな、その必要以上に冷たいところが、かえって覚えとる証拠ちゃうんかと思うんやけど」
まひるはいったん足を止めて、キッとこちらを睨み付けた。
「お前みたいな土臭い奴なんか知らない」
「えっ、土臭い?」
腕をくんくんと嗅いでみる。
「なんで、いっつもズボンの裾に砂とか土がついてんだよ。しかも今時、下駄ってなんだよ。あきらかに校則違反だろ。五右衛門みたいな頭しやがって」
「運動靴は学校に置いとるし、服装検査のときは下駄履かんし、頭は散髪行く暇がなかなかないんや。ズボンの土は毎朝、畑で水やりするけん」
「お前みたいなダサい奴と幼馴染だった覚えはないんだよ」
「ださい……」
昔の可愛いまひるとは程遠い、乱雑な言い方に呆気に取られた。
――都会っちゅーんは、そんなに人を変えるんか……?
すたすたと歩きだすまひるを慌てて追いかける。
「ほんなら、昔は昔、今は今で仲良くしょうや」
「嫌だ」
「なんでなん。せっかくまたここで暮らすんやったら、仲良うしたほうがええやん。あ、俺んちで採れた野菜とか米とか持ってくで? 昔一緒に畑でトマトちぎって食うたやんな」
「いらない」
「なんでそんな嫌がるん」
「俺はこんな田舎に帰って来たくなかった。こんな狭くてつまらない場所で一生過ごすなんて御免だ。今は仕方なくここにいるけど、卒業したら絶対東京に戻るし、田舎者と慣れ合うつもりもない」
「……」
「畑とか田んぼとか……下らない。ダサい」
「ええ加減にせえよ」
怒気を込めて言った俺の言葉に、まひるはちょっと驚いた顔をした。
俺は田舎が好きだ。畑も田んぼも大事だ。それがないと生きていけないからだ。それをダサいとか下らないと言われるのは、相手がまひるだろうと腹が立った。
「お前が都会でどんだけ洒落た暮らししとったんか知らんけどな、お前の地元やろ。ほんまは覚えとるくせに、なんでそんな言い方するんや。ガッカリやな」
するとさっきまで吊り上がらせていた眉を途端に緩ませて、頬と鼻を赤くしたと思ったら、目をうるうるさせた。
――やっべ! 泣かした! なんで!?
ぎょっとして慌てふためき、オロオロしながら「ごめん」と言いかけたところ、被せるようにしてまひるが声を上げた。
「ほんなら、なんで来てくれんかったんや!」
「へっ?」
「迎えに来る言うたやんか! 待っとったのに! いつまで経っても来んけん、東京行ったんや! アホ!」
さっきまでの標準語はどこへやら、コテコテの方言でそう言い放ったまひるは、とうもろこし畑と田んぼのあいだの畦道を走り去った。遠くにそびえる山に向かって小さくなるまひるの後姿を、俺は茫然と見送った。
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