ゆめうつつ 11
本格的に夏を迎え、五十嵐との生活はもうすっかり慣れた。
はじめは気を遣って揃って食事を摂ったり、風呂に入るのもいちいちお伺いを立てていたが、二ヶ月も過ぎればそれぞれに済ますし、ゴミ出しも掃除も気付いたほうがやるし、部屋で寛いでいる時ならどちらかが帰宅したからといってわざわざ出迎えたりもしない。ただ、食事を作るのは交代ということだけは決まっていて、出張や飲み会でない限り二人分用意する。はじめはそれも分量が分からず、作り過ぎたり足らなかったりしたものだが、最近では感覚が掴めて、味の好みも理解してきた。他人との同居生活はなかなか快適だった。
会社のほうはまだ転職できずにいる。空いた時間に採用案内を探してみるものの、どれもピンとこないし、すべてゼロからやり直してまで、また環境の悪い職場だったらどうしようと考えると、なかなか踏み出せなかった。こんな時、五十嵐なら「とりあえずやってみなきゃ分かんねーだろ」と飛び込むのだろうなと思うと、彼が少し羨ましくなった。
五十嵐みたいに感情で動けたらどんなにいいだろうと思う。やりたいと思えばやって、やりたくなければやらない。好きでもない相手にむやみに愛想はふらないし、好きな相手には素直に生きるのだろう、彼の場合。自分もそんな風になりたいとは思うのに、結局手にしたスマートフォンを眺めては置くだけで、松岡に電話のひとつもできずにいる。
八月にまとまった休みを取れたので、お盆は予定通り、地元に帰省する。高速バスに乗り、地元のバス停に着いたら友人の祐太が車で迎えに来てくれる。これは学生時代から続いていることだ。いつも待ち合わせたあとは二人で飲みに行くのだが、今回は祐太の奥さんが手料理を振る舞ってくれるというので、司は気持ちばかりの焼き菓子と、祐太の子どもへのちょっとしたプレゼントを持ってバスを降りた。
「つ、か、さー」
ちょうど下りたところに祐太の車が横付けされる。後部座席の窓から祐太の息子が手を振った。
「いつも悪いな」
「全然。久しぶりー。元気にしてた?」
「まあね」
助手席に座った司は、チャイルドシートにおとなしく座っている子どもに振り向いた。
「こんにちは、久しぶりだね。俺のこと覚えてる?」
子どもははにかみながら首を横に振る。
「おい浩太、ちゃんと挨拶しろよー」
「こんちゃ」
唇を噛みしめて悪戯っぽく笑う顔が祐太にそっくりだ。
「祐太に似てるな。何歳?」
「四歳。今はネコ被ってるけど、すっげー悪ガキだから。誰に似たんだよってくらい落ち着きがない」
「祐太似だろ」
「俺は嫁似だと思うんだけど?」
「奥さん、結婚式でしか会ったことないけど、おとなしそうじゃん」
「まあ、会えば分かるよ」
祐太の家に着き、玄関のドアを開けるなり奥からバタバタと賑やかな足音が響いた。奥さんの由香里である。エプロンをつけたまま慌ただしく出迎え、三つ指でもつきそうな勢いで深々と頭を下げられた。
「ようこそおいでくださいました~」
「急で申し訳ないです。お邪魔します」
「俺が仕事から帰って来た時も、そうやって出迎えてくれてもいいんだぜ」
という祐太の要望には「なに言ってんの」と冷たく返しておしまいだ。続いて家に入ってきた浩太には過剰なほどベタベタと可愛がる。浩太も母親のほうにより懐いているらしく、この家での力関係が目に浮かんで、祐太を気の毒に思いながらもおかしくなった。
「綺麗な家じゃないけど、ゆっくりしていって下さい」
誰もが羨ましがりそうな、明るいナチュラルモダンの一軒家。コンパクトなリビングダイニングだが、日当たりがいいのと天井が高いので窮屈さはない。ダイニングテーブルもテレビボードも木目調で、若草色のソファがアクセントになっている。部屋の一角はキッズスペースになっているようで、そこだけ積み木やブロックが散乱していた。よく雑誌やパンフレットに載っているような、いかにも若い家族が住む理想の家、という雰囲気だった。
夕飯は由香里がすべて用意してくれた。ハンバーグやポテトサラダなどの家庭的なものから、酒を飲むだろうからとそれに合うつまみまで手作りだ。
「こいつ、料理好きなんだよ」
「作ってるとストレス発散になるんです。おかげで太っちゃって」
「俺と体重変わらないもんな」
「なによ、祐太がお酒のアテになるようなもの作れってうるさいからでしょ。ちょっとは感謝して欲しいわぁ。祐太なんて育児ほとんど参加してくれなかったくせに」
「生まれた時は仕事が忙しかったんだから仕方ないだろぉ! 今はやってるじゃん!」
「つーん」
祐太に「俺、いつもこういう扱いなの」と同情を求められたが、同情はできなかった。そんなやり取りすら幸せそうに見えたからだ。
祐太にビールを注がれる。泡の分量が絶妙で、溢れるか溢れないかのところで注ぎ終える。さすが酒好きは注ぎ方も手慣れている。
「司、最近どうなの? 仕事とかプライベートとか」
「仕事は微妙。転職したいけど、なかなか時間がなくて。プライベート……は、大学時代の友達とルームシェア始めた」
「まじで? 司がルームシェア? そういうの乗らなさそうなのに」
「気心知れてる奴だから。ほぼ強引に勝手に決められちゃったんだけど」
「俺ですら司と寝起きを共にしたことがないのによ」
チェ、と唇を尖らせる祐太に、由香里が「祐太は笠原さんが大好きだからね」と加えた。がつがつと食い散らかす浩太の手助けをする由香里の手際がいい。
「でもルームシェアしたら、彼女できた時、いろいろ不便じゃない?」
「俺も友達も彼女いないし、そもそも結婚願望もないから、どうとでもなるんじゃない」
由香里は「そうなんだ」とあっさり納得していたが、祐太は少し驚いたようだった。けれども深くは聞かれなかった。
壁やカウンターの上を見てみると、子どもの写真や家族写真がたくさん飾られている。こうして彼らのやりとりを見ていても、ありふれた光景が微笑ましくもあり、妬ましくもあり、自分には縁遠い幸せだと絶望的にもなる。今更そんな世界を望んでもいないが、この姿が一般的なものなのだと再確認すると、やはり松岡との未来はないなと思った。
子どもがいる家庭に何時間も居座るわけにはいかないので、八時前には失敬した。玄関先で浩太が手を振ってくれる。
「おにーちゃん、今度いつ来るの?」
「分からないけど、また遊ぼうね」
そういえば浩太にみやげがあるのを忘れていて、慌てて鞄の中から取り出した。
「あらー! この子にまですみません」
「開けてもいい!?」
「いいよ」
中身は浩太が好きな戦隊アニメのパズルだ。おもちゃにしようかと思ったが、祐太が以前「おもちゃばっかり買いすぎて甘やかしすぎた」とこぼしていたので、あいだを取ってパズルにしたのだった。四歳の子どもが果たして喜ぶのかと心配したが、浩太は目をキラキラ輝かせて嬉しそうに飛び跳ねた。
「この子、パズル好きなんです! ありがとうございます」
「おにーちゃん、ありがとう! また来てね!」
頬を赤くして喜ぶ子どもは可愛らしい。そしてやっぱり自分には遠い存在だと思った。
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はじめは気を遣って揃って食事を摂ったり、風呂に入るのもいちいちお伺いを立てていたが、二ヶ月も過ぎればそれぞれに済ますし、ゴミ出しも掃除も気付いたほうがやるし、部屋で寛いでいる時ならどちらかが帰宅したからといってわざわざ出迎えたりもしない。ただ、食事を作るのは交代ということだけは決まっていて、出張や飲み会でない限り二人分用意する。はじめはそれも分量が分からず、作り過ぎたり足らなかったりしたものだが、最近では感覚が掴めて、味の好みも理解してきた。他人との同居生活はなかなか快適だった。
会社のほうはまだ転職できずにいる。空いた時間に採用案内を探してみるものの、どれもピンとこないし、すべてゼロからやり直してまで、また環境の悪い職場だったらどうしようと考えると、なかなか踏み出せなかった。こんな時、五十嵐なら「とりあえずやってみなきゃ分かんねーだろ」と飛び込むのだろうなと思うと、彼が少し羨ましくなった。
五十嵐みたいに感情で動けたらどんなにいいだろうと思う。やりたいと思えばやって、やりたくなければやらない。好きでもない相手にむやみに愛想はふらないし、好きな相手には素直に生きるのだろう、彼の場合。自分もそんな風になりたいとは思うのに、結局手にしたスマートフォンを眺めては置くだけで、松岡に電話のひとつもできずにいる。
八月にまとまった休みを取れたので、お盆は予定通り、地元に帰省する。高速バスに乗り、地元のバス停に着いたら友人の祐太が車で迎えに来てくれる。これは学生時代から続いていることだ。いつも待ち合わせたあとは二人で飲みに行くのだが、今回は祐太の奥さんが手料理を振る舞ってくれるというので、司は気持ちばかりの焼き菓子と、祐太の子どもへのちょっとしたプレゼントを持ってバスを降りた。
「つ、か、さー」
ちょうど下りたところに祐太の車が横付けされる。後部座席の窓から祐太の息子が手を振った。
「いつも悪いな」
「全然。久しぶりー。元気にしてた?」
「まあね」
助手席に座った司は、チャイルドシートにおとなしく座っている子どもに振り向いた。
「こんにちは、久しぶりだね。俺のこと覚えてる?」
子どもははにかみながら首を横に振る。
「おい浩太、ちゃんと挨拶しろよー」
「こんちゃ」
唇を噛みしめて悪戯っぽく笑う顔が祐太にそっくりだ。
「祐太に似てるな。何歳?」
「四歳。今はネコ被ってるけど、すっげー悪ガキだから。誰に似たんだよってくらい落ち着きがない」
「祐太似だろ」
「俺は嫁似だと思うんだけど?」
「奥さん、結婚式でしか会ったことないけど、おとなしそうじゃん」
「まあ、会えば分かるよ」
祐太の家に着き、玄関のドアを開けるなり奥からバタバタと賑やかな足音が響いた。奥さんの由香里である。エプロンをつけたまま慌ただしく出迎え、三つ指でもつきそうな勢いで深々と頭を下げられた。
「ようこそおいでくださいました~」
「急で申し訳ないです。お邪魔します」
「俺が仕事から帰って来た時も、そうやって出迎えてくれてもいいんだぜ」
という祐太の要望には「なに言ってんの」と冷たく返しておしまいだ。続いて家に入ってきた浩太には過剰なほどベタベタと可愛がる。浩太も母親のほうにより懐いているらしく、この家での力関係が目に浮かんで、祐太を気の毒に思いながらもおかしくなった。
「綺麗な家じゃないけど、ゆっくりしていって下さい」
誰もが羨ましがりそうな、明るいナチュラルモダンの一軒家。コンパクトなリビングダイニングだが、日当たりがいいのと天井が高いので窮屈さはない。ダイニングテーブルもテレビボードも木目調で、若草色のソファがアクセントになっている。部屋の一角はキッズスペースになっているようで、そこだけ積み木やブロックが散乱していた。よく雑誌やパンフレットに載っているような、いかにも若い家族が住む理想の家、という雰囲気だった。
夕飯は由香里がすべて用意してくれた。ハンバーグやポテトサラダなどの家庭的なものから、酒を飲むだろうからとそれに合うつまみまで手作りだ。
「こいつ、料理好きなんだよ」
「作ってるとストレス発散になるんです。おかげで太っちゃって」
「俺と体重変わらないもんな」
「なによ、祐太がお酒のアテになるようなもの作れってうるさいからでしょ。ちょっとは感謝して欲しいわぁ。祐太なんて育児ほとんど参加してくれなかったくせに」
「生まれた時は仕事が忙しかったんだから仕方ないだろぉ! 今はやってるじゃん!」
「つーん」
祐太に「俺、いつもこういう扱いなの」と同情を求められたが、同情はできなかった。そんなやり取りすら幸せそうに見えたからだ。
祐太にビールを注がれる。泡の分量が絶妙で、溢れるか溢れないかのところで注ぎ終える。さすが酒好きは注ぎ方も手慣れている。
「司、最近どうなの? 仕事とかプライベートとか」
「仕事は微妙。転職したいけど、なかなか時間がなくて。プライベート……は、大学時代の友達とルームシェア始めた」
「まじで? 司がルームシェア? そういうの乗らなさそうなのに」
「気心知れてる奴だから。ほぼ強引に勝手に決められちゃったんだけど」
「俺ですら司と寝起きを共にしたことがないのによ」
チェ、と唇を尖らせる祐太に、由香里が「祐太は笠原さんが大好きだからね」と加えた。がつがつと食い散らかす浩太の手助けをする由香里の手際がいい。
「でもルームシェアしたら、彼女できた時、いろいろ不便じゃない?」
「俺も友達も彼女いないし、そもそも結婚願望もないから、どうとでもなるんじゃない」
由香里は「そうなんだ」とあっさり納得していたが、祐太は少し驚いたようだった。けれども深くは聞かれなかった。
壁やカウンターの上を見てみると、子どもの写真や家族写真がたくさん飾られている。こうして彼らのやりとりを見ていても、ありふれた光景が微笑ましくもあり、妬ましくもあり、自分には縁遠い幸せだと絶望的にもなる。今更そんな世界を望んでもいないが、この姿が一般的なものなのだと再確認すると、やはり松岡との未来はないなと思った。
子どもがいる家庭に何時間も居座るわけにはいかないので、八時前には失敬した。玄関先で浩太が手を振ってくれる。
「おにーちゃん、今度いつ来るの?」
「分からないけど、また遊ぼうね」
そういえば浩太にみやげがあるのを忘れていて、慌てて鞄の中から取り出した。
「あらー! この子にまですみません」
「開けてもいい!?」
「いいよ」
中身は浩太が好きな戦隊アニメのパズルだ。おもちゃにしようかと思ったが、祐太が以前「おもちゃばっかり買いすぎて甘やかしすぎた」とこぼしていたので、あいだを取ってパズルにしたのだった。四歳の子どもが果たして喜ぶのかと心配したが、浩太は目をキラキラ輝かせて嬉しそうに飛び跳ねた。
「この子、パズル好きなんです! ありがとうございます」
「おにーちゃん、ありがとう! また来てね!」
頬を赤くして喜ぶ子どもは可愛らしい。そしてやっぱり自分には遠い存在だと思った。
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