ゆめうつつ 8
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国税局が入ってから会社の空気が更に悪くなった。出社したら、まずリストに挙げられた伝票のコピーを取り、突っ込まれそうなところはあらかじめチェックを入れる。不明な点はどう切り抜けるかを相談しながら、不備があれば慌てて追加の書類を作った。粗探しされればされるほど、会社の不穏な点が浮き彫りになり、そんな職場にいる自分も嫌になってくる。
そんな風に追われていると通常業務すら進まず、仕事は溜まっていくばかり。フロア全体が常に緊張していて、電話の取り次ぎひとつで八つ当たりされることもしばしばだ。昼食を摂る暇も、水を飲む暇もない。
そろそろ疲労が溜まってきたある日、深夜まで残業をして日付が変わる頃に退社した。会社は街の中心にあるが、さすがに夜が更けると辺りはしんと静かだ。横断歩道を渡ろうとした時、思いがけず名前を呼ばれた。
「笠原」
スーツ姿の松岡だった。走って来たのか、少しだけ息を切らせている。
「……え……先輩、も、今まで仕事だったんですか?」
「いや、仕事は早く終わってたんだけど、そこのコインパーキングで待ってた」
「何時間待ったんですか」
「さあ」
「もう日付変わってるんですよ」
定時に仕事を終えてからずっと待っていたとしたら、七時間は経っている。待っていてくれて嬉しいというより、心底呆れた。
「国税が入ってるのは知ってるから、遅くなるだろうとは思ってたよ。だからずっと車で待ってたわけじゃない。近くで夕飯も済ませたし、本屋で時間潰したりもした」
「だからって」
「さすがにもう諦めようかと思ったところに、笠原が出てきたから。どうしても会いたかった。お前に電話したら絶対拒否されると分かってたから」
「……分かってるのに、どうして」
会社から社員が出てきたのに気付いて、松岡は司の腕を引っ張ってその場を離れた。コインパーキングに向かっている。
「送っていくから、車乗って」
「いえ、けっこうです」
乗ったら流される。松岡の車の前で手を振り払った。
「俺もお前もお互いに忘れてないのに、どうしてそんなに拒むんだ」
「一度、終わった関係ですから……」
「一度終わった関係なら、好きでも求めたらいけないのか」
「このあいだも言ったけど、想い出が美化されてるから好きだと思ってるだけです。昔、弟さんと俺を重ねてましたよね。弟さんへの罪滅ぼしを俺にしていた。先輩はずっと違うと否定してたけど、結局最後にはそれを認めたじゃないですか。今回もその類です。先輩は俺を好きなんじゃない。懐かしいだけだ」
「俺の気持ちは俺が決める。俺は笠原が好きだ。あれからずっと好きだ。再会してもやっぱりそう思う」
司は車に寄りかかった。バッグを落とし、頭を抱える。
「……勘弁して下さい」
「お前はどうなんだよ」
「俺たちの付き合いがどれだけ不自然か先輩も分かってるはずです。付き合っても堂々と一緒に歩けない。表面上は「知り合い」を装わなければいけない。両親に紹介もできない。できたとしても理解されないと思う。俺たちは本来はノーマルだから、普通に女の子を好きになって、結婚して、家庭を持てるんです。そんな普通の恋愛がいかに容易いかも知ってる。そのうちそういう人が現れたらどうするんですか。そしたらまた、誰かは必ず傷付くんです。もうあんな苦しいのは嫌だ。……先輩と付き合うのはしんどい。だから最初から付き合わない」
「好きなのにか」
「好きだからこそ、あのまま終わっていたかった」
どうもさっきから頭痛がする。視界がぐらぐらと揺れ出し、気分が悪くなってきた。
車に寄りかかっていた司は、そのままずるずると体勢を崩していく。
「笠原!」
松岡の両腕に支えられて、司は気を失った。
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国税局が入ってから会社の空気が更に悪くなった。出社したら、まずリストに挙げられた伝票のコピーを取り、突っ込まれそうなところはあらかじめチェックを入れる。不明な点はどう切り抜けるかを相談しながら、不備があれば慌てて追加の書類を作った。粗探しされればされるほど、会社の不穏な点が浮き彫りになり、そんな職場にいる自分も嫌になってくる。
そんな風に追われていると通常業務すら進まず、仕事は溜まっていくばかり。フロア全体が常に緊張していて、電話の取り次ぎひとつで八つ当たりされることもしばしばだ。昼食を摂る暇も、水を飲む暇もない。
そろそろ疲労が溜まってきたある日、深夜まで残業をして日付が変わる頃に退社した。会社は街の中心にあるが、さすがに夜が更けると辺りはしんと静かだ。横断歩道を渡ろうとした時、思いがけず名前を呼ばれた。
「笠原」
スーツ姿の松岡だった。走って来たのか、少しだけ息を切らせている。
「……え……先輩、も、今まで仕事だったんですか?」
「いや、仕事は早く終わってたんだけど、そこのコインパーキングで待ってた」
「何時間待ったんですか」
「さあ」
「もう日付変わってるんですよ」
定時に仕事を終えてからずっと待っていたとしたら、七時間は経っている。待っていてくれて嬉しいというより、心底呆れた。
「国税が入ってるのは知ってるから、遅くなるだろうとは思ってたよ。だからずっと車で待ってたわけじゃない。近くで夕飯も済ませたし、本屋で時間潰したりもした」
「だからって」
「さすがにもう諦めようかと思ったところに、笠原が出てきたから。どうしても会いたかった。お前に電話したら絶対拒否されると分かってたから」
「……分かってるのに、どうして」
会社から社員が出てきたのに気付いて、松岡は司の腕を引っ張ってその場を離れた。コインパーキングに向かっている。
「送っていくから、車乗って」
「いえ、けっこうです」
乗ったら流される。松岡の車の前で手を振り払った。
「俺もお前もお互いに忘れてないのに、どうしてそんなに拒むんだ」
「一度、終わった関係ですから……」
「一度終わった関係なら、好きでも求めたらいけないのか」
「このあいだも言ったけど、想い出が美化されてるから好きだと思ってるだけです。昔、弟さんと俺を重ねてましたよね。弟さんへの罪滅ぼしを俺にしていた。先輩はずっと違うと否定してたけど、結局最後にはそれを認めたじゃないですか。今回もその類です。先輩は俺を好きなんじゃない。懐かしいだけだ」
「俺の気持ちは俺が決める。俺は笠原が好きだ。あれからずっと好きだ。再会してもやっぱりそう思う」
司は車に寄りかかった。バッグを落とし、頭を抱える。
「……勘弁して下さい」
「お前はどうなんだよ」
「俺たちの付き合いがどれだけ不自然か先輩も分かってるはずです。付き合っても堂々と一緒に歩けない。表面上は「知り合い」を装わなければいけない。両親に紹介もできない。できたとしても理解されないと思う。俺たちは本来はノーマルだから、普通に女の子を好きになって、結婚して、家庭を持てるんです。そんな普通の恋愛がいかに容易いかも知ってる。そのうちそういう人が現れたらどうするんですか。そしたらまた、誰かは必ず傷付くんです。もうあんな苦しいのは嫌だ。……先輩と付き合うのはしんどい。だから最初から付き合わない」
「好きなのにか」
「好きだからこそ、あのまま終わっていたかった」
どうもさっきから頭痛がする。視界がぐらぐらと揺れ出し、気分が悪くなってきた。
車に寄りかかっていた司は、そのままずるずると体勢を崩していく。
「笠原!」
松岡の両腕に支えられて、司は気を失った。
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