ゆめうつつ 6
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松岡からのメッセージは、週明けに仕事が終わったら会わないかというものだった。およそ三週間ぶりになる。司は今度こそ動揺すまいと決意して、松岡の誘いを受けた。
六時半に花時計の前で待ち合わせをしている。若者やカップルが多いこの場所で、スーツの男がひとりで立っているのは居心地が悪いが、初夏の黄昏時は好きだ。早めに待ち合わせ場所に着いた司は、ビルの向こうに見える夕焼けをぼんやり眺めながら待っていた。六時半ちょうどに、目の前に車が停まる。窓が下がり、松岡が「お待たせ」と手をあげた。
「歩いてくるかと思いました」
「予約してる店が歩くにはちょっと遠いから」
助手席に乗り込むと、松岡の匂いがする。司はいつもより畏まって座った。何も言っていないのに、松岡はふふ、と笑う。
「なんですか?」
「いや、お前が待ってる姿を遠巻きに見てさ、頼りなさそうな、動物みたいな顔で立ってるのが変わらないなぁって思ってね」
「それはあんまり嬉しくないですね」
「俺は、俺を待ってる時の笠原を見るのが好きだったけどね」
ところどころで昔を思い出させるような言い方をするのは、わざとなのだろうか。そのくせ過去形だし、どう反応すればいいのか分からない。
「今までどういう風に過ごしてきた?」
「や、特にこれといって。普通に就職して、仕事に追われてました」
「お前の会社、危ないな」
「もう転職しようかとも思ってます。今の専務が馬鹿なんですよ。意味のない土地買ってみたり、たいして利にならない受注ばっかりして、社長の交際費は半端じゃないし」
「転職するならどこにするの」
「基本ブラックじゃなければなんでもいいです。でも銀行は嫌です」
「そういうところ相変わらずだな」
隣にいると嫌でも指輪が目に入る。さすがに見て見ぬフリもできないかと思った時、先に言われた。
「俺に何か聞きたいことがあるんじゃないのか」
赤信号で停まると同時に、司は訊ねた。
「結婚されたんですか?」
松岡はすぐには答えなかった。信号待ちのあいだは沈黙し、青信号になって発車して暫くした頃、口を開いた。
「したって言ったらどうする?」
「……おめでとうございます」
「めでたくなさそう」
「良かったと思ってますよ。先輩が幸せに暮らしてるといいなと思ってたので」
「笠原は? 友達とルームシェアするって言ってたよな。付き合ってる子はいないの?」
「いたら、しません」
「一緒に住む子は男?」
「大学時代の友達です。定期的に会ってたんですけど、お互い忙しくてボロボロなんで、生活を補い合えたらいいよなって話で」
「もののはずみで間違いでも起こったらどうするんだよ」
「間違いってなんですか。起こるわけないでしょう」
すると松岡はいきなりハンドルを切って路肩に停車した。ブレーキの衝撃で体が揺れる。肩を抱き寄せられ、耳元で松岡の低い声が言った。
「そんなの分からないだろ、俺たちみたいに」
唇が移動して司の唇に被せられる。驚いて突き放そうとしたが、肩をしっかり封じられているので敵わなかった。まだ人通りの多い場所だ。車内で何をしているか外から見えてしまう。早く逃れなければ、と思うのに体は思うように力が入らない。松岡の息遣いと匂いを間近に感じては抵抗できなかった。口をこじ開けられようとしたところで我に返って、離れた。
「なに、やって……」
けれども松岡は退かなかった。今度は強く抱擁される。
「先輩、……まずいです」
「なにが」
「だって先輩は」
「結婚なんてしてない。こんなのただの見せかけだ。会いたかった。本当に会いたかった」
脱力しそうになったが、司はなんとか振り切って車を降りた。こんな雰囲気のまま食事になんか行けない。続いて松岡が車を降りた。
「指輪は仕事上、多少の信頼を得るためのカモフラージュだよ。……俺はやっぱり、お前を忘れられなかった」
「……先輩は意地が悪い。俺が気にしてると分かってて試したんですね」
「お前も俺を忘れてないんだよな」
それには答えなかった。司は食事はキャンセルさせて欲しいと残して、もと来た道を戻ろうとした。駅もバス停も見当たらないが、松岡の車に乗るよりましだ。
「もとに戻れないか」
松岡の問いかけに足を止めてしまった。振り返らずに答える。
「……例えお互いが忘れてなくても、無理でしょう。……先輩は再会した驚きから昔を懐かしんでるだけです。想い出が美化されてるだけなんです」
「それだけじゃない。懐かしさだけで触れたいと思わないだろ」
「それでも、もう会わないと決めたから別れたんですよね。もとに戻るには月日が経ち過ぎました。……堂々とできる関係じゃないし」
司は道順も分からず走り去った。
別れを告げておいて、もとに戻りたいなんて、やっぱり松岡は勝手な男だ。それなのに指輪の意味を知って心のどこかでほっとしている自分が心底嫌だった。
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松岡からのメッセージは、週明けに仕事が終わったら会わないかというものだった。およそ三週間ぶりになる。司は今度こそ動揺すまいと決意して、松岡の誘いを受けた。
六時半に花時計の前で待ち合わせをしている。若者やカップルが多いこの場所で、スーツの男がひとりで立っているのは居心地が悪いが、初夏の黄昏時は好きだ。早めに待ち合わせ場所に着いた司は、ビルの向こうに見える夕焼けをぼんやり眺めながら待っていた。六時半ちょうどに、目の前に車が停まる。窓が下がり、松岡が「お待たせ」と手をあげた。
「歩いてくるかと思いました」
「予約してる店が歩くにはちょっと遠いから」
助手席に乗り込むと、松岡の匂いがする。司はいつもより畏まって座った。何も言っていないのに、松岡はふふ、と笑う。
「なんですか?」
「いや、お前が待ってる姿を遠巻きに見てさ、頼りなさそうな、動物みたいな顔で立ってるのが変わらないなぁって思ってね」
「それはあんまり嬉しくないですね」
「俺は、俺を待ってる時の笠原を見るのが好きだったけどね」
ところどころで昔を思い出させるような言い方をするのは、わざとなのだろうか。そのくせ過去形だし、どう反応すればいいのか分からない。
「今までどういう風に過ごしてきた?」
「や、特にこれといって。普通に就職して、仕事に追われてました」
「お前の会社、危ないな」
「もう転職しようかとも思ってます。今の専務が馬鹿なんですよ。意味のない土地買ってみたり、たいして利にならない受注ばっかりして、社長の交際費は半端じゃないし」
「転職するならどこにするの」
「基本ブラックじゃなければなんでもいいです。でも銀行は嫌です」
「そういうところ相変わらずだな」
隣にいると嫌でも指輪が目に入る。さすがに見て見ぬフリもできないかと思った時、先に言われた。
「俺に何か聞きたいことがあるんじゃないのか」
赤信号で停まると同時に、司は訊ねた。
「結婚されたんですか?」
松岡はすぐには答えなかった。信号待ちのあいだは沈黙し、青信号になって発車して暫くした頃、口を開いた。
「したって言ったらどうする?」
「……おめでとうございます」
「めでたくなさそう」
「良かったと思ってますよ。先輩が幸せに暮らしてるといいなと思ってたので」
「笠原は? 友達とルームシェアするって言ってたよな。付き合ってる子はいないの?」
「いたら、しません」
「一緒に住む子は男?」
「大学時代の友達です。定期的に会ってたんですけど、お互い忙しくてボロボロなんで、生活を補い合えたらいいよなって話で」
「もののはずみで間違いでも起こったらどうするんだよ」
「間違いってなんですか。起こるわけないでしょう」
すると松岡はいきなりハンドルを切って路肩に停車した。ブレーキの衝撃で体が揺れる。肩を抱き寄せられ、耳元で松岡の低い声が言った。
「そんなの分からないだろ、俺たちみたいに」
唇が移動して司の唇に被せられる。驚いて突き放そうとしたが、肩をしっかり封じられているので敵わなかった。まだ人通りの多い場所だ。車内で何をしているか外から見えてしまう。早く逃れなければ、と思うのに体は思うように力が入らない。松岡の息遣いと匂いを間近に感じては抵抗できなかった。口をこじ開けられようとしたところで我に返って、離れた。
「なに、やって……」
けれども松岡は退かなかった。今度は強く抱擁される。
「先輩、……まずいです」
「なにが」
「だって先輩は」
「結婚なんてしてない。こんなのただの見せかけだ。会いたかった。本当に会いたかった」
脱力しそうになったが、司はなんとか振り切って車を降りた。こんな雰囲気のまま食事になんか行けない。続いて松岡が車を降りた。
「指輪は仕事上、多少の信頼を得るためのカモフラージュだよ。……俺はやっぱり、お前を忘れられなかった」
「……先輩は意地が悪い。俺が気にしてると分かってて試したんですね」
「お前も俺を忘れてないんだよな」
それには答えなかった。司は食事はキャンセルさせて欲しいと残して、もと来た道を戻ろうとした。駅もバス停も見当たらないが、松岡の車に乗るよりましだ。
「もとに戻れないか」
松岡の問いかけに足を止めてしまった。振り返らずに答える。
「……例えお互いが忘れてなくても、無理でしょう。……先輩は再会した驚きから昔を懐かしんでるだけです。想い出が美化されてるだけなんです」
「それだけじゃない。懐かしさだけで触れたいと思わないだろ」
「それでも、もう会わないと決めたから別れたんですよね。もとに戻るには月日が経ち過ぎました。……堂々とできる関係じゃないし」
司は道順も分からず走り去った。
別れを告げておいて、もとに戻りたいなんて、やっぱり松岡は勝手な男だ。それなのに指輪の意味を知って心のどこかでほっとしている自分が心底嫌だった。
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