ゆめうつつ 2
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翌朝、出社するなり会議に出るための資料をまとめた。財務本部に所属している司は、決算時は主力となって仕事をするので、経理関係の会議はほぼ出なければならない。先日決算を終えたところだが、会社の経営状況は芳しくない。昨年度に引き続き、今年度も経常赤字が出た。今日の会議の相手は取引銀行だ。どうせ色々と突かれるのだろうと、朝から溜息が止まらない。
早めに会議室に入ってペットボトルのお茶を並べているところに、銀行員がやってきた。
「今日はよろしくお願い致します」
確か二人来ると聞いていたが、融資課長ひとりしかいない。もうひとりは来られなくなったのだろうか。席へ案内し、時間になったので会議を始めようとしたところ、
「ああ、すみません。あと一人来ます。駐車ができなくて車を停めに行ってもらってるんです」
「そうでしたか、失礼しました」
ちょうどそのタイミングでドアが開いた。
「遅れて申し訳ございません」
少し息切れをしながら部屋に入ってきたその人を見て、司は言葉を失った。
焦げ茶色の髪と、まっすぐ伸びたしなやかな高身長。少しだけ低くなったようにも思える落ち着いた声で言った。
「松岡と申します」
「先輩」と出そうになったのを我慢した。ここは職場であり、仕事中であり、取引相手だ。直属の上司も、常務もいる。司は内心、動揺しながら席へ促した。司に気付いた松岡も、あきらかに驚いている。だが、すぐに営業スマイルを浮かべて「失礼します」と席についた。あくまで他人行儀なのは司と同じ理由だろう。全員が揃ったところでようやく始まった。
会議は予想通り、業績が悪いことへの指摘と、今後の経営方針や返済の目途を報告するものだった。決算書の説明をするのは司の役目だ。頭の中で何度もシミュレーションをしたはずなのに、思いがけない再会に戸惑って、説明が上手くできなかった。しかも自分が悪いわけじゃないのに、会社の経営不振をすべて見せなければならないことは、どうもやりにくかった。
司が口を開くたびに松岡が凝視してくる。そういえば松岡は話をする時、必ず人の目を見る人だったなと考えた。視線に落ち着かなくて声が震える。汗もかく。司が動揺しているのと同じように、松岡も動揺しているのだろうか。昔をありありと思い出して、仕事中であるにも関わらず締めつけられるような懐かしい想いをしているだろうかと考えてしまう。けれども、松岡が書類をめくった時、司はその指を見てスッと何かが冷めるのを感じた。
左手の薬指に、指輪がはめられていたからだ。
「笠原ぁ、もしかしてお前、体調でも悪いのか」
「いえ、そんなことありません……」
「なんか朝から顔色悪いし、会議もボロボロだったじゃないか」
「本当に申し訳ございません」
「まあ、いいけど。今日は早く帰っていいぞ。明日、総会のシナリオ頼むな」
かつての想い人と会議で再会してそれどころじゃなかった、なんて言えるはずがない。司は休憩スペースへ行き、自販機で缶コーヒーを買った。
——松岡は、司の中学時代の先輩だ。弟のように可愛がってくれる、司にとって兄のような存在だった。だが、いつしか兄弟愛ではなく、違う形で慕うようになった。松岡に甘えたい、触れたい、抱き締められたい。恋慕だ。一度は想いを告げたものの、もともとノーマルの司は、男が男に恋するなんて有り得ないという後ろめたさと罪悪感から、高校時代は松岡とのつながりを絶っていた。そしてそのあいだに美央と出会ったのだ。美央と付き合うようになって松岡のことは吹っ切れたはずだった。だけど違った。
大学三年の夏、偶然、母校の中学で松岡と再会したのだ。昔のように会って欲しいと言われて、自分には美央がいるという安心から油断して、松岡との兄弟のような付き合いをまた始めてしまった。それがいけなかった。
愛する彼女がいながら松岡に惹かれていくばかり。さらに「ずっと好きだった」と松岡から告白されてはもう拒めなかった。美央と松岡のあいだで揺れ、さんざん傷付いて二人を傷付けた。結果的に司はどちらの愛も失ったが、後悔はしなかった。あんなに誰かを好きになったのは、あとにも先にもない。
彼と別れた日のことは今でも鮮明に覚えている。
——好きだよ。でも、もう会わないことにする。これ以上傷付けたくないから。
来週には神戸を出るんだ。
いつ出るのかも、言わないでおく。
それじゃ、さようなら。——
雑踏に紛れて遠ざかっていく後姿。確かあれは、今と同じ、ちょうど春を過ぎた頃だった。
手に持っている缶コーヒーを見る。そういえば、コーヒーは松岡の好きな飲み物だ。昔は苦手だったのに、いつの間に飲めるようになったのか。
月日が経った。味覚も変わった。取り巻く環境も変わった。
何ひとつ変わらないのは、自分だけだ。
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翌朝、出社するなり会議に出るための資料をまとめた。財務本部に所属している司は、決算時は主力となって仕事をするので、経理関係の会議はほぼ出なければならない。先日決算を終えたところだが、会社の経営状況は芳しくない。昨年度に引き続き、今年度も経常赤字が出た。今日の会議の相手は取引銀行だ。どうせ色々と突かれるのだろうと、朝から溜息が止まらない。
早めに会議室に入ってペットボトルのお茶を並べているところに、銀行員がやってきた。
「今日はよろしくお願い致します」
確か二人来ると聞いていたが、融資課長ひとりしかいない。もうひとりは来られなくなったのだろうか。席へ案内し、時間になったので会議を始めようとしたところ、
「ああ、すみません。あと一人来ます。駐車ができなくて車を停めに行ってもらってるんです」
「そうでしたか、失礼しました」
ちょうどそのタイミングでドアが開いた。
「遅れて申し訳ございません」
少し息切れをしながら部屋に入ってきたその人を見て、司は言葉を失った。
焦げ茶色の髪と、まっすぐ伸びたしなやかな高身長。少しだけ低くなったようにも思える落ち着いた声で言った。
「松岡と申します」
「先輩」と出そうになったのを我慢した。ここは職場であり、仕事中であり、取引相手だ。直属の上司も、常務もいる。司は内心、動揺しながら席へ促した。司に気付いた松岡も、あきらかに驚いている。だが、すぐに営業スマイルを浮かべて「失礼します」と席についた。あくまで他人行儀なのは司と同じ理由だろう。全員が揃ったところでようやく始まった。
会議は予想通り、業績が悪いことへの指摘と、今後の経営方針や返済の目途を報告するものだった。決算書の説明をするのは司の役目だ。頭の中で何度もシミュレーションをしたはずなのに、思いがけない再会に戸惑って、説明が上手くできなかった。しかも自分が悪いわけじゃないのに、会社の経営不振をすべて見せなければならないことは、どうもやりにくかった。
司が口を開くたびに松岡が凝視してくる。そういえば松岡は話をする時、必ず人の目を見る人だったなと考えた。視線に落ち着かなくて声が震える。汗もかく。司が動揺しているのと同じように、松岡も動揺しているのだろうか。昔をありありと思い出して、仕事中であるにも関わらず締めつけられるような懐かしい想いをしているだろうかと考えてしまう。けれども、松岡が書類をめくった時、司はその指を見てスッと何かが冷めるのを感じた。
左手の薬指に、指輪がはめられていたからだ。
「笠原ぁ、もしかしてお前、体調でも悪いのか」
「いえ、そんなことありません……」
「なんか朝から顔色悪いし、会議もボロボロだったじゃないか」
「本当に申し訳ございません」
「まあ、いいけど。今日は早く帰っていいぞ。明日、総会のシナリオ頼むな」
かつての想い人と会議で再会してそれどころじゃなかった、なんて言えるはずがない。司は休憩スペースへ行き、自販機で缶コーヒーを買った。
——松岡は、司の中学時代の先輩だ。弟のように可愛がってくれる、司にとって兄のような存在だった。だが、いつしか兄弟愛ではなく、違う形で慕うようになった。松岡に甘えたい、触れたい、抱き締められたい。恋慕だ。一度は想いを告げたものの、もともとノーマルの司は、男が男に恋するなんて有り得ないという後ろめたさと罪悪感から、高校時代は松岡とのつながりを絶っていた。そしてそのあいだに美央と出会ったのだ。美央と付き合うようになって松岡のことは吹っ切れたはずだった。だけど違った。
大学三年の夏、偶然、母校の中学で松岡と再会したのだ。昔のように会って欲しいと言われて、自分には美央がいるという安心から油断して、松岡との兄弟のような付き合いをまた始めてしまった。それがいけなかった。
愛する彼女がいながら松岡に惹かれていくばかり。さらに「ずっと好きだった」と松岡から告白されてはもう拒めなかった。美央と松岡のあいだで揺れ、さんざん傷付いて二人を傷付けた。結果的に司はどちらの愛も失ったが、後悔はしなかった。あんなに誰かを好きになったのは、あとにも先にもない。
彼と別れた日のことは今でも鮮明に覚えている。
——好きだよ。でも、もう会わないことにする。これ以上傷付けたくないから。
来週には神戸を出るんだ。
いつ出るのかも、言わないでおく。
それじゃ、さようなら。——
雑踏に紛れて遠ざかっていく後姿。確かあれは、今と同じ、ちょうど春を過ぎた頃だった。
手に持っている缶コーヒーを見る。そういえば、コーヒーは松岡の好きな飲み物だ。昔は苦手だったのに、いつの間に飲めるようになったのか。
月日が経った。味覚も変わった。取り巻く環境も変わった。
何ひとつ変わらないのは、自分だけだ。
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