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【白日夢続編】ゆめうつつ 1

 六時に終業を知らせるチャイムが鳴ったが、まだ日は沈みきっていない。
 自分の業務を終えて休憩室で缶コーヒーを飲んでいた司は、橙色の空を窓から眺めながら日が長くなったなと考えた。
 ここ数日、仕事が忙しくて残業続きだったが、久しぶりに明るい時間帯に帰れる。チャイムが鳴り止むと空の缶をゴミ箱に入れ、デスクに戻った。
 帰り支度をしていると上司の白川に声を掛けられた。明日の朝、急遽会議が入ったという連絡だ。

「お前も出るんだぞ」

「わかりました」

 司は会議室使用の予約だけをして、パソコンを閉じた。

 上司より先に帰るのか、という非難の視線を感じたが、どうでもいい。自分の仕事は終わらせているので無駄な残業はしないことにしている。
 かつては気を使って何か手伝えることはないかと聞いて、帰宅の許可が下りたら退社するようにしていたけれど、サービス残業をしたところで得をするわけでもない。それならば早く帰って残りの時間を自分のために使いたい。

 スマートフォンを見ると友人から「もう店にいる」とメッセージがあった。急ぎ足で約束の場所へ向かう。
 飲み屋が並ぶ横丁から裏路地に入ったところにある、軽く食事もできて酒の種類が豊富なバー。友人が伝手を使って予約してくれた。看板も広告もない、知る人ぞ知る店らしい。廃れたビルの二階にひっそりと構えてあり、司は夜に紛れて見落としそうな真っ黒な扉を開けた。店の隅にあるソファ席から友人が司を呼ぶ。

「お疲れ、司―」

「お疲れ」

「実は早く仕事終わったから一時間前には着いてたんだよ。悪いけど先に始めちゃったぜ」

 テーブルには空になったカクテルグラスとナッツが入った小皿があった。

「別にいいよ。待たせてごめん。相変わらず元気そうだな、五十嵐」

「こう見えてもまあまあ疲れてんだぜ。昨日、出張から帰ってきたとこ」

「どこ行ってたの?」

「ベトナム。来月また行くんだけど。もー商社ヤダ」

 五十嵐とは大学時代からの付き合いだが、知り合った頃から彼は面倒臭がりな人間だった。授業に対してもサークル活動に対しても不真面目で、就職活動ですらしょっぱなからコネを宛てにしていた。コネ入社が悪いわけではないが、そんなに他力本願で大丈夫なのかと心配になるほどだった。だが、真面目にやるべきところと手を抜いてもいいところをきっちり使い分けているので要領はいいし、寡黙な司と違って話上手なので他人の興味を引くのが上手い。さすがに仕事では手を抜けないと考えているのか、入社して六年間、転職もせず真面目に働いている。あのいい加減な五十嵐が落ち着いているという安心と同時に、世渡り上手というのは才能だなと羨ましくも思った。

「司は? 仕事、楽しい?」

「楽しくない」

 ひとつも迷いを見せることなく断言したので、五十嵐は少し驚いた顔をした。

「入社してしばらくは営業ばっかり、そのあとは建設本部にいて、そこは楽しかったけど、二年前から財務なんだ。ずっと内勤だし面白くない」

「財務って聞いただけで、俺も嫌だわ。つまんなさそ。そりゃ同情するぜ」

 五十嵐は正直な感想を言ってくれるので、そういうところが有難い。変な慰めをされてもかえって惨めになるだけだからだ。
 空腹だった司は、カレーライスとスクリュードライバーを注文した。どんな組み合わせだよ、と笑われる。五十嵐の軽快な笑い方は暗い気分も明るくしてくれるので、昔からそういうところに救われた。
 大学を卒業してから随分経つが、生活リズムの違う二人が忙しい中でも時間を作って定期的に会うのは、一時でも日々のストレスや疲れを忘れて気楽だった学生時代に戻れるからだと、今、改めて感じた。
 やぶから棒に五十嵐が言う。

「俺、来月誕生日なんだ」

「おめでとう。何歳?」

「二十九……って、同じ歳だろうが」

「俺、このあいだ二十八になったし。二月生まれだから」

「変わんねえだろ。なにその遠回しな『俺のほうが若い』アピール。あーウザ」

「で、誕生日がなに?」

「いや、もう二十九なのに、仕事しかない人生だなぁって思って。司は結婚しないの?」

「相手いないし」

「俺もいない」

 話が見えない。誰か女の子を紹介しろ、ということだろうかと思ったら、予想の斜め上をいった。

「俺さ、別に結婚なんかしなくていいんだよ。特定の彼女もいらない。ちょっと遊びで付き合ってくれる子がいればいい。昔はそんな子たくさんいたけど、アラサーになったらさすがにいなくてさ。最近、仕事も忙しいから家事炊事もまともにできない」

「時間があってもしないだろ」

「そこは流せよ。別に結婚しなくていいけど、家に帰った時に誰かいたらいいなと思うことはある。気心知れてる奴だとなおいいな。だから司、俺と一緒に住まない?」

 唐突な提案に、司は目を大きくしたまま固まった。運ばれてきたカレーライスを食べようとしていたところだったのに。スプーンをゆっくり皿に置く。

「は?」

「一緒に住もうぜって話。ルームシェア。お前も彼女いないんだろ」

「いないけど、嫌だ」

「はっきり言うな。勿論、部屋はそれぞれに個室があってプライベートは守られる。時間がある時に交互にメシ作るとかすれば、無駄な外食費もかからないし、体にもいい。司さ、今日、自分の顔鏡で見たか? すっげー顔色悪いぞ。疲れてるって感じの顔。家でひとりで居る時にぶっ倒れたらどうすんの。その点、一緒に暮らしてたら俺が見つけてやれる」

「疲れてるのは否定しないけど、時期的なもんだよ。別に五十嵐と一緒に住むのが嫌なわけじゃないけどさ、急すぎるだろ。そんなこといってお前、引っ越した途端に彼女作って出て行きそうだし」

「あ、大丈夫。俺、結婚しないし、彼女できても家には上げないし。もし司に彼女できて出て行くって言った時は快く送り出すよ」 

 五十嵐の中で既に話が出来上がっていて、ついていけずに溜息をついた。司は学生時代から住んでいるアパートをずっと契約している。不便はないがそろそろ引っ越したいと思っていたのでルームシェア自体は構わない。だが、実際にそれをするための物件探しや荷物の手配などの手間を考えたらやはり面倒だ。一人暮らしのアパートを探すのと二人で暮らすためのアパートを探すのとは違う。

「で、どうなの。彼女できそうとか、好きな子いるとか。いるならやめとくけど」

「それはない。俺も結婚する気ないし」

「え? そうなの?」

「うん」

「……ふーん、意外。それならますます話が早いな。決定でいいだろ。来週の土曜日空けとけよ」

 まだ迷っていたが、ひとりだったらいつまで経っても動かないままだろう。司は五十嵐の強引さに呆れながらも多少の感謝をして、了承した。
 深夜一時を回った頃に店を出た。横丁はまだ明るいが、街は半分眠りかけている。シャッターが下りた店ばかりが並ぶ静かなアーケードを、五十嵐と歩いた。五月の後半でも夜中は冷える。

「司、結婚する気ないって本当?」

 バーでの話の続きを突然、振られる。

「今のとこ。無理してしなくてもいいかなって」

「大学ん時さ、井下と付き合ってただろ。あの頃はお前は普通に結婚して、いい旦那になって、いい父親になりそうだなって思ってた」

 井下とは、司が高校時代から大学四年になるまで付き合っていた彼女のことだ。「美央」という、名前の通り可愛らしい彼女だった。社会人になってからも女の子と付き合ったことはあるが、美央ほど完璧な女の子はいなかったと今でも思う。当時は美央も司も互いに一途で、学生ながらに結婚するのだろうと思っていたし、実際その約束までした。けれども、約束は果たされなかった。司には、あれだけ完璧だと思っていた美央よりも好きな人がいたからだ。

「俺もそういう普通の人生だと思ってたよ」

 絶対に添い遂げられる相手じゃないと分かっていても、美央との約束を果たせなくても傍にいたかった。理性も道徳も無視したいと思えるほどの人だった。結局、板ばさみに苦しんだ挙句、司はどちらも選べずに離れてしまったが、あの頃の胸が痛むほど切なくて、辛くて愛しい想いは忘れられない。そんな想いを抱えたまま、他の誰かと一生を過ごすなんてとてもじゃないが考えられなかった。それならば多少孤独でも、一人を貫いたほうがいい。だから司は結婚という選択肢を自分の人生から外した。

「司がそう思うようになったのって、やっぱり井下と別れたことが関係してるのか?」

「……さあね」

「現実ってさ、理想通りにはいかないよな。ほんと」

 それは司もつくづく身に染みている。仕事にしてもそうだ。建設業界に憧れて今の会社に入ったのに、やっている仕事はどの会社にいても変わらないような事務仕事ばかりだ。生きていればいつか自分に合う人が見つかって、家族を持つだろうと思っても、過去に囚われてばかりで進歩がない。
 理想と現実の差はこんなものだ。司は深夜の夜空にかろうじて光る星を見て、寂しくなった。


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