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Ⅶ-4

 大学を卒業して就職してからも、司は相変わらず神戸に住んでいる。学生時代に住んでいたアパートをそのまま契約しているため、普段の生活は変わり映えしない。せめて部屋の模様替えでもしたいと思うが、あまり金に余裕もないので出来ずにいる。

 総合職の司は試用期間に営業を体験したのちに本社勤務となり、総務課に配属された。
 入社してまず驚いたことは、入社式で小野田に再会したことだ。大会社なので採用する人数も多く、一人くらい知り合いがいるかもしれないと思ったら、小野田に見つけられた。オリエンテーションの休憩時間に人ごみをかき分けて司に駆け寄って来たのだ。慣れないスーツを着て身だしなみを整えてはいるが、口を開くと昔と変わらなかった。

 一度だけ、小野田と呑みに行った。まだ入社して一ヶ月しか経っていない頃だ。小野田は早々に仕事や上司の愚痴をこぼしており、それ以外は惚気や自分のことについて延々と語った。司はほとんど聞き役で、あまりしゃべった記憶がない。小野田とは中学の頃、それなりに仲が良かった気がするが、思い返せば部活以外で一緒に過ごしたことはない。祐太や五十嵐との付き合いを考えれば、なぜ小野田とあまり絡まなかったのか分かった気がした。

 唯一、得た情報はあった。話の流れで小野田がドラマが好きだと知り、駄目もとで聞いた時だ。

「ずっと結末が気になってるドラマがあるんだけど、小野田知らないかな」

「どんなの?」

「俺が実際に見たわけじゃないんだけど、確か、主人公の女には好きな男が二人いて、どっちにしようかずっと悩んだ結果、船乗りの男を選ぶんだ。そして選んだ途端に男が出航して、その船が難破するっていう……」

「うーん……そんなドラマあったかなぁ……。もっと分かりやすい表現ないの? このドラマならこれっていうアイテムみたいなの」

あ、なんか女が男を青リンゴと赤リンゴに例えてたみたいなのは聞いたけど」

「……もしかしてアレのことかな。俺がそれ聞いて思い出したのは、十年くらい前にやってた海外ドラマだよ」

「結末知らない? 二人がどうなったのか」

「確か、船が難破して乗組員が全員死んだと聞いたんだけど、女はどうしても信じなかったんだ。だけど、難破して何年か過ぎた頃、男が生きてるって話を聞いて、会いに行くんだよ。でも男は事故の影響で目が見えなくなってた。男はそんな姿を見られたくなくて連絡しないでいたんだけど、最後は二人は結婚したよ。ハッピーエンドだった」

「そうなんだ」

「で、急になんで?」

「友達がその話の最終回見てないから気になってるって言ってて。ありがとう。伝えとく」

 ドラマの結末が嬉しかった。自分と重ねているわけではないが、五十嵐から話を聞いた時に何か感じるものがあったのは確かだ。いつか五十嵐に会うことがあったら教えてやろう。

 小野田は試用期間が終わった後、静岡支店に配属された。更にその三ヶ月後には会社を辞めたらしいと人事部から聞いたが、それ以来小野田とは連絡を取り合っていない。


 そして二年後の五月、祐太が地元で挙式をした。学生時代に居酒屋で語っていた彼女との結婚だ。祐太は入社してすぐに結婚するつもりだったらしいが、彼女の両親が仕事に慣れるまで待てと言うので、祐太の予定の二年後ということになったという。
 是非と言われて式と披露宴に出席した。花嫁は話に聞くよりもずっと可愛らしかった。高砂にいる新郎新婦は夫婦というにはまだ初々しすぎるくらいだが、仲睦まじく、その姿は司の憧れになった。キャンドルサービスで半分酔った祐太が、司の胸ポケットにブートニアを差していった。のちに司会者に「ブートニアはどうしたのか」と聞かれ、祐太は「一番の親友で、一番幸せになってもらいたい奴に贈った」と笑いながら言った。
 祐太は松岡とのことが知れた時も、美央と別れた時も、誰よりも親身になってくれた友人だ。なるべく彼の期待に応えたいと思った。

 祐太の挙式から間もない頃だった。風の便りで美央も結婚したと聞いた。相手はひとつ年上で、今は東京に住んでいるらしい。その知らせが事実なら、こんなに嬉しいことはない。別れる前は泣かせてばかりで、今でも時々罪悪感に苛まれることもあったが、ようやく救われた気がした。寂しくないと言えば嘘になるが、美央なら安易に結婚を決断しないはずだ。それこそ、車に轢かれそうになったら危険を顧みず助けに行けるような相手なのだろう。彼女なら世界で一番、美しい花嫁になったに違いないと、司は確信している。

 ―――

 どこからともなく漂う香りはおそらく楠だ。アパート付近になると匂いが特に強くなる。昔は考えてもみなかった香りの正体だ。それを知ったのは、道端で話し込んでいる老人たちの会話からだった。「今年も楠がよく匂う」と言っていたのが耳に入った。
 匂いにすり込まれた記憶が自分の意思とは関係なく蘇る。記憶とは都合のいいもので、自分にとって良かったものばかりが思い出される。
 最後に見た松岡の後ろ姿を思い出して、もっと辛くなるかと思ったが、そうでもなかった。脳裏によぎるのは、いつも穏やかに笑っている彼だ。心臓を掴まれるように胸が苦しくなる時もある。泣きたくなる時もある。だが、悲しい涙ではない。
 彼が司に触れる時の体温も感触もリアルに思い出せる。それでもなぜか、今までのことが全て夢だったような気さえした。一緒にいた期間は決して短くはない。ただ、現実味がない。彼はいつも一瞬の閃光の中にいる。掴みどころがなくて、眩しい。それほど松岡の存在は司にとって特別だった。

 あのドラマの最後は、主人公と一人の恋人がハッピーエンドに終わったが、もう一人の男については知られていない。彼はどうなったのだろうか。何度も考えた。司はどちらも失ったが、代わりに二人が幸せになってくれたらそれでいいと思った。

 公園のベンチに、倒れ込むように横になった。空を仰ぐ。風に揺れる新緑のあいだから光を浴びた。目を閉じる。瞼に映る彼の残像は、まだ消えない。



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