Ⅶ-3
京町筋にある喫茶店で会うことになっている。迎えに行くと言われたが、断わった。
早めに店に着いた司は窓際の席を選び、外の景色や通行人を眺めながら松岡を待った。その日は朝から晴天で、薄手のTシャツ一枚で十分間に合う。日差しも空気の匂いも夏の訪れを感じさせ、懐かしいような気分になった。
コップの中の氷が溶け、カランと音を立てると、松岡が司の前に座った。
「……事故で怪我はしてなかったか? 体の調子は」
「俺は軽い打撲で済んだので大丈夫です。先輩は?」
「右肩を軽く骨折したけど、だいぶよくなったよ。連絡がなかなか出来なくて悪かった」
司の注文したアイスティーを運んできたウェイターに、松岡はアイスコーヒーを注文した。
「仕事は……休んだんですか?」
「一週間だけね。今はもう復帰してる。いつまでも休めないからな」
松岡は何もなかったかのように、いつも通りに笑顔を見せる。そして唐突に本題に入った。
「彼女、病室に来たよ」
「え?」
「笠原の彼女。俺の病室に、見舞いに来てくれた」
「な、なんで……」
先日、美央に会った時は何も言っていなかった。松岡は淡々と続ける。
「目が覚めてボンヤリしているところに、彼女が入って来てね。棒読みで大丈夫ですかって。ニコリともしないんだ。そのくせ、手には花を持っていて、それをおもむろに置いて行ったよ」
後半、松岡は少し笑った。
「どんな話をしたんですか」
「そのまま言うよ。『司はあなたといて幸せかもしれないけど、こんな風に危ない目に遭うのならあなたには譲れない。わたしのほうがあなたより司を幸せにする自信がある』って」
「……」
「妬けたよ。あんなに真っ直ぐに言われたら、何も言葉が出て来なかった。現に俺は笠原に怪我までさせたんだから」
「事故は、先輩のせいじゃない」
「でも苦しめてるのは事実だ。笠原があの子と付き合ってることに、嫉妬がないわけじゃなかった。頭では分かっていても、お前とあの子の繋がりを感じると、どうにかしたいと思った。正直、別れて俺だけのものになって欲しいと思った。だけど、そんなこと絶対に出来ない。せめて俺の嫉妬を笠原に気付かれないようにするのが精一杯だった。けど、やっぱり彼女には勝てない」
司はいつでも、松岡は美央との付き合いについては何も感じていないのだと思っていた。美央との関係を曖昧にしたままで
言える口じゃないのは分かっているが、寂しかった。ようやく松岡の本心を聞けた。それだけでもうよかった。
「美央とは別れたんです」
アイスコーヒーに手をつけようとした松岡は、目を大きくして司を見据えた。
「本当はずっと前から別れようって話はしてたんですけど、美央は待つって言ってくれてて。けど、事故のあと、もう諦めるって。本当に別れました」
「でも、彼女は」
「……きっと、美央なりの、最後の見栄なんだと思います」
「そうか……俺がいなければ、ずっと彼女と続いてたのに」
「だから、俺は後悔してません。確かに、先輩とのことを黙っていれば別れずに済んだかもしれない。だって美央のことを好きじゃなくなったわけじゃないし。だけど、美央は俺だけを見ていてくれているのに、俺は美央と先輩のあいだをフラフラするなんて、そんな不誠実なことはもうしたくない。美央にはもっとふさわしい人を見つけて欲しいから」
「……馬鹿だな、選ぶほうを間違えてるよ……」
「先輩が言えますか」
司はそう言って微笑した。松岡はアイスコーヒーを口に含み、一息入れた。
「……笠原に弟と重ねてると言われて、本当にそんなつもりじゃないと思ったんだ。でも笠原が車に轢かれそうになったのを見て、お前が弟に見えた。また同じように失くしてしまうと思った。怖かったよ」
「分かってます。あのあと、意識がなくなっていく中で、倒れている先輩を見ました。『千明』と言っているのが見えた。俺の言ったことは間違ってなかった」
松岡の顔を見るとしゃべれなくなりそうで、俯いた。
「けど、おかしいですよね。自分で言っておいて、いざそれを見た時、すごくショックだったんです。分かってたのに……」
「笠原」
松岡は司にとって、思いがけないことを言った。
「ありがとう」
「……」
「俺はずっと否定してたけど、笠原に言われたこと、事故にあってからようやく気付いた。確かに弟と笠原を重ねていたかもしれない。弟が死んだ時、なんでもっと優しくしてやれなかったんだろうとか、なんであんなに嫌っていたんだろうとか、悔んでも悔みきれなくて、結果、後悔と願望が幻を作りだした。笠原に会うことで弟は傍にいるんだと無意識に言い聞かせていたのかもしれない。笠原に良くしてやることで弟が喜ぶような気がしたんだ。お前の言う通り、罪滅ぼしだよ。……でも、やっぱりこれだけは思う。弟に対する愛情と、お前に対する愛情は間違ってない。きっかけが弟に似ていたからだったとしても、俺が本当に好きになったのは、笠原だけだよ。それだけは忘れないで欲しい」
「……はい」
声が震えた。
「好きだよ。でも、もう会わないことにする。これ以上傷つけたくないから。墓参りにも行って、立ち直る努力もする」
自分も何か言いたかったが、何も言葉が出てこなかった。それどころか、我慢していた涙が溢れては拳にポタポタと落ちた。松岡がふっと噴き出すのが聞こえた。
「顔を上げろよ。俺が苛めてるみたいじゃないか」
「……出来ません」
「上げろって」
中学二年の冬、松岡に告白した冬の夜を思い出した。あの時と同じように、司は腕で顔を隠しながら顔を上げた。いつもと同じ、あの頃と変わらない笑顔だった。
店を出た二人はそこで別れることになった。
「実は異動が決まってね。来週には神戸を出るんだ」
「どこに……」
「それは言わないほうがいいだろう。いつ出るのかも、言わないでおく。お前も来年には就職してどこに行くか分からないしな」
「そう、ですね」
「それじゃ、さようなら」
「……さよなら」
松岡はあっさりと背を向けた。彼なりの気遣いかもしれない。司は彼の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。松岡は一度も振り返らない。人ごみに紛れて小さくなっても、司は立ちつくした。そして再び、涙が頬を伝った。
夏がくる。初めて会った時も二度目に会った時も夏だった。だが、彼はもういない。これからはこの季節になる度、今日の彼の背中を思い出して寂しくなるのだろう。
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早めに店に着いた司は窓際の席を選び、外の景色や通行人を眺めながら松岡を待った。その日は朝から晴天で、薄手のTシャツ一枚で十分間に合う。日差しも空気の匂いも夏の訪れを感じさせ、懐かしいような気分になった。
コップの中の氷が溶け、カランと音を立てると、松岡が司の前に座った。
「……事故で怪我はしてなかったか? 体の調子は」
「俺は軽い打撲で済んだので大丈夫です。先輩は?」
「右肩を軽く骨折したけど、だいぶよくなったよ。連絡がなかなか出来なくて悪かった」
司の注文したアイスティーを運んできたウェイターに、松岡はアイスコーヒーを注文した。
「仕事は……休んだんですか?」
「一週間だけね。今はもう復帰してる。いつまでも休めないからな」
松岡は何もなかったかのように、いつも通りに笑顔を見せる。そして唐突に本題に入った。
「彼女、病室に来たよ」
「え?」
「笠原の彼女。俺の病室に、見舞いに来てくれた」
「な、なんで……」
先日、美央に会った時は何も言っていなかった。松岡は淡々と続ける。
「目が覚めてボンヤリしているところに、彼女が入って来てね。棒読みで大丈夫ですかって。ニコリともしないんだ。そのくせ、手には花を持っていて、それをおもむろに置いて行ったよ」
後半、松岡は少し笑った。
「どんな話をしたんですか」
「そのまま言うよ。『司はあなたといて幸せかもしれないけど、こんな風に危ない目に遭うのならあなたには譲れない。わたしのほうがあなたより司を幸せにする自信がある』って」
「……」
「妬けたよ。あんなに真っ直ぐに言われたら、何も言葉が出て来なかった。現に俺は笠原に怪我までさせたんだから」
「事故は、先輩のせいじゃない」
「でも苦しめてるのは事実だ。笠原があの子と付き合ってることに、嫉妬がないわけじゃなかった。頭では分かっていても、お前とあの子の繋がりを感じると、どうにかしたいと思った。正直、別れて俺だけのものになって欲しいと思った。だけど、そんなこと絶対に出来ない。せめて俺の嫉妬を笠原に気付かれないようにするのが精一杯だった。けど、やっぱり彼女には勝てない」
司はいつでも、松岡は美央との付き合いについては何も感じていないのだと思っていた。美央との関係を曖昧にしたままで
言える口じゃないのは分かっているが、寂しかった。ようやく松岡の本心を聞けた。それだけでもうよかった。
「美央とは別れたんです」
アイスコーヒーに手をつけようとした松岡は、目を大きくして司を見据えた。
「本当はずっと前から別れようって話はしてたんですけど、美央は待つって言ってくれてて。けど、事故のあと、もう諦めるって。本当に別れました」
「でも、彼女は」
「……きっと、美央なりの、最後の見栄なんだと思います」
「そうか……俺がいなければ、ずっと彼女と続いてたのに」
「だから、俺は後悔してません。確かに、先輩とのことを黙っていれば別れずに済んだかもしれない。だって美央のことを好きじゃなくなったわけじゃないし。だけど、美央は俺だけを見ていてくれているのに、俺は美央と先輩のあいだをフラフラするなんて、そんな不誠実なことはもうしたくない。美央にはもっとふさわしい人を見つけて欲しいから」
「……馬鹿だな、選ぶほうを間違えてるよ……」
「先輩が言えますか」
司はそう言って微笑した。松岡はアイスコーヒーを口に含み、一息入れた。
「……笠原に弟と重ねてると言われて、本当にそんなつもりじゃないと思ったんだ。でも笠原が車に轢かれそうになったのを見て、お前が弟に見えた。また同じように失くしてしまうと思った。怖かったよ」
「分かってます。あのあと、意識がなくなっていく中で、倒れている先輩を見ました。『千明』と言っているのが見えた。俺の言ったことは間違ってなかった」
松岡の顔を見るとしゃべれなくなりそうで、俯いた。
「けど、おかしいですよね。自分で言っておいて、いざそれを見た時、すごくショックだったんです。分かってたのに……」
「笠原」
松岡は司にとって、思いがけないことを言った。
「ありがとう」
「……」
「俺はずっと否定してたけど、笠原に言われたこと、事故にあってからようやく気付いた。確かに弟と笠原を重ねていたかもしれない。弟が死んだ時、なんでもっと優しくしてやれなかったんだろうとか、なんであんなに嫌っていたんだろうとか、悔んでも悔みきれなくて、結果、後悔と願望が幻を作りだした。笠原に会うことで弟は傍にいるんだと無意識に言い聞かせていたのかもしれない。笠原に良くしてやることで弟が喜ぶような気がしたんだ。お前の言う通り、罪滅ぼしだよ。……でも、やっぱりこれだけは思う。弟に対する愛情と、お前に対する愛情は間違ってない。きっかけが弟に似ていたからだったとしても、俺が本当に好きになったのは、笠原だけだよ。それだけは忘れないで欲しい」
「……はい」
声が震えた。
「好きだよ。でも、もう会わないことにする。これ以上傷つけたくないから。墓参りにも行って、立ち直る努力もする」
自分も何か言いたかったが、何も言葉が出てこなかった。それどころか、我慢していた涙が溢れては拳にポタポタと落ちた。松岡がふっと噴き出すのが聞こえた。
「顔を上げろよ。俺が苛めてるみたいじゃないか」
「……出来ません」
「上げろって」
中学二年の冬、松岡に告白した冬の夜を思い出した。あの時と同じように、司は腕で顔を隠しながら顔を上げた。いつもと同じ、あの頃と変わらない笑顔だった。
店を出た二人はそこで別れることになった。
「実は異動が決まってね。来週には神戸を出るんだ」
「どこに……」
「それは言わないほうがいいだろう。いつ出るのかも、言わないでおく。お前も来年には就職してどこに行くか分からないしな」
「そう、ですね」
「それじゃ、さようなら」
「……さよなら」
松岡はあっさりと背を向けた。彼なりの気遣いかもしれない。司は彼の後ろ姿を見えなくなるまで見送った。松岡は一度も振り返らない。人ごみに紛れて小さくなっても、司は立ちつくした。そして再び、涙が頬を伝った。
夏がくる。初めて会った時も二度目に会った時も夏だった。だが、彼はもういない。これからはこの季節になる度、今日の彼の背中を思い出して寂しくなるのだろう。
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