Ⅶ—1
目を覚まし、見知らぬ天井を見た。自分が何をしていて、なぜ寝ているのか分からなかった。暫くぼんやりと天井を眺めるうちに病院にいるのだとようやく気付いた。ベッドの横に誰かが座っている。少しずつ、目線を上げると、想定外の人間と目が合った。渋面の美央が、涙を浮かべて司を睨んでいる。
「……なにやってるの」
「美央……、なんで……」
「いい加減にしてよ! どこまでわたしを惨めにさせれば気が済むのよ! 司から電話があったと思えば警察から事故を聞かされるし! 松岡さんと一緒に病院に運ばれて……こんなに惨めなのに、心配で……」
「ごめん……」
「それでもまだ好きなのが悔しいじゃない!」
美央は司の腹に覆いかぶさって、悲鳴をあげるように泣いた。美央が震えているのを全身で感じている。大事な人が自分のためにここまで嘆いているのに、司の手は彼女の肩を抱くことも触れることもなかった。
司は特に大きな怪我もなく、ほんの数日で退院出来た。
美央が司の病室を訪れたのは、あの日だけだ。それから一切、連絡はない。一応、退院したことと、来てくれたことの礼と詫びの言葉をメールで伝えてあるが、その返信もなかった。
松岡は別の病室で、司より一週間ほど長く入院していた。看護師に聞いたところによれば、幸い命に別状はなく軽い骨折で済んだらしかった。松岡の病室の前まで行ってみたが、顔を見る勇気がなくて引き返した。
最後に見た松岡の唇の動きをはっきり覚えている。間違いなく「千明」と言っていた。彼の弟の名だ。前から分かってはいたが、松岡の感情の錯覚を確かなものにさせた瞬間だった。想像以上にショックが大きい。この状態で松岡を見舞えるわけがなかった。
―――
汗ばむ日と肌寒い日を繰り返して陰鬱と毎日が過ぎた。
たいした怪我ではなかったと言っても、事故から体調が優れないことが時々あり、授業もあまりないことから、大学にはほとんど顔を出していない。体調が優れないのは事故の影響というよりも、気分的なものが大きかった。
欠席が続いた授業について、五十嵐から単位を落とすかもしれないと忠告を受け、およそ二週間ぶりに大学へ向かった。学生課の前で五十嵐に会った。会ったというより、待ち伏せされていたようだ。
「なんで最近、来なかったんだ?」
「色々あって」
いつもなら冗談交じりにしつこく問い質してくる五十嵐だが、司があまりに憔悴しているからか、からかってはこなかった。
「お前、就活とかで今までも欠席してる授業あっただろ。昨日の経済史、あと一回の欠席で単位落とすとこだったから代弁しといたぜ。今日のゼミも、卒論のこと言われると思うから呼んだんだけど」
「悪いな。……ありがとう」
「授業、どれくらい取ってんの?」
「あんまりない。去年の後期で落としたやつ取り直してるだけだから」
「へー、俺なんか外国語の単位も全然だから、今年すげー授業入ってるんだけど。真面目に勉強しとくんだったなー」
講義室への階段を上ろうとした時、五十嵐に後ろ襟を引っ張られた。危うく首が締まるところだった。
「危ないだろ」
五十嵐は渡り廊下を指差した。その先を追うと美央が立っていた。
「先に行っとく」
肩をポンと叩かれて、五十嵐は先に階段を上がっていった。「頑張れよ」と言われたようだった。
「来てたのね」
「うん……」
「今日、司の家の近くの公園に来て欲しいの。このあいだ、来てもらったとこ」
美央は司の目を見ようとしなかった。美央と言葉を交わすのは病室に来てくれた時以来だ。怒っているようにも呆れているようにも見えなかったが、彼女をひどく傷付けたのは事実なのだ。さすがにまだ待つとは言わないはずだ。どうせなら思い切り罵倒してくれることを願った。
⇒
「……なにやってるの」
「美央……、なんで……」
「いい加減にしてよ! どこまでわたしを惨めにさせれば気が済むのよ! 司から電話があったと思えば警察から事故を聞かされるし! 松岡さんと一緒に病院に運ばれて……こんなに惨めなのに、心配で……」
「ごめん……」
「それでもまだ好きなのが悔しいじゃない!」
美央は司の腹に覆いかぶさって、悲鳴をあげるように泣いた。美央が震えているのを全身で感じている。大事な人が自分のためにここまで嘆いているのに、司の手は彼女の肩を抱くことも触れることもなかった。
司は特に大きな怪我もなく、ほんの数日で退院出来た。
美央が司の病室を訪れたのは、あの日だけだ。それから一切、連絡はない。一応、退院したことと、来てくれたことの礼と詫びの言葉をメールで伝えてあるが、その返信もなかった。
松岡は別の病室で、司より一週間ほど長く入院していた。看護師に聞いたところによれば、幸い命に別状はなく軽い骨折で済んだらしかった。松岡の病室の前まで行ってみたが、顔を見る勇気がなくて引き返した。
最後に見た松岡の唇の動きをはっきり覚えている。間違いなく「千明」と言っていた。彼の弟の名だ。前から分かってはいたが、松岡の感情の錯覚を確かなものにさせた瞬間だった。想像以上にショックが大きい。この状態で松岡を見舞えるわけがなかった。
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汗ばむ日と肌寒い日を繰り返して陰鬱と毎日が過ぎた。
たいした怪我ではなかったと言っても、事故から体調が優れないことが時々あり、授業もあまりないことから、大学にはほとんど顔を出していない。体調が優れないのは事故の影響というよりも、気分的なものが大きかった。
欠席が続いた授業について、五十嵐から単位を落とすかもしれないと忠告を受け、およそ二週間ぶりに大学へ向かった。学生課の前で五十嵐に会った。会ったというより、待ち伏せされていたようだ。
「なんで最近、来なかったんだ?」
「色々あって」
いつもなら冗談交じりにしつこく問い質してくる五十嵐だが、司があまりに憔悴しているからか、からかってはこなかった。
「お前、就活とかで今までも欠席してる授業あっただろ。昨日の経済史、あと一回の欠席で単位落とすとこだったから代弁しといたぜ。今日のゼミも、卒論のこと言われると思うから呼んだんだけど」
「悪いな。……ありがとう」
「授業、どれくらい取ってんの?」
「あんまりない。去年の後期で落としたやつ取り直してるだけだから」
「へー、俺なんか外国語の単位も全然だから、今年すげー授業入ってるんだけど。真面目に勉強しとくんだったなー」
講義室への階段を上ろうとした時、五十嵐に後ろ襟を引っ張られた。危うく首が締まるところだった。
「危ないだろ」
五十嵐は渡り廊下を指差した。その先を追うと美央が立っていた。
「先に行っとく」
肩をポンと叩かれて、五十嵐は先に階段を上がっていった。「頑張れよ」と言われたようだった。
「来てたのね」
「うん……」
「今日、司の家の近くの公園に来て欲しいの。このあいだ、来てもらったとこ」
美央は司の目を見ようとしなかった。美央と言葉を交わすのは病室に来てくれた時以来だ。怒っているようにも呆れているようにも見えなかったが、彼女をひどく傷付けたのは事実なのだ。さすがにまだ待つとは言わないはずだ。どうせなら思い切り罵倒してくれることを願った。
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