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Ⅵ—3

 ***

 ようやく忙しい時間が過ぎて、一日の仕事に落ち着きが戻った頃、松岡は何時間ぶりとも言える水分補給にありつけた。既に定時を二時間程過ぎているが、残っている仕事を片付けて退社するまであと三十分もかからなそうだ。

「松岡、これやるよ」

 後ろの席にいる主任に、紙袋を手渡された。

「なんですか」

「ビワ。取引先の人が今日、くれたんだ。でも俺、ビワ苦手でさ。一人暮らしだろ? 食事の足しにでもしてくれよ」

「こんなに食べられないですよ」

 松岡はそう言いながら笑い、「有難くいただきます」と、受け取った。ビワは好きなほうだった。

「そういえば、こないだ松岡を見たぜ。本屋で」

「声、掛けてくれたらよかったのに」

「誰かと一緒だったから。大学生くらいの男の子とさ。友達?」

「……後輩です。中学時代の」

「そら長い付き合いだな」

「特別、仲がよかったんで」

「ふーん。最初、弟かと思ったんだけど、一人暮らしって言ってたし、兄弟はいないって聞いてたから。でも同い年って感じでもなさそうだった。本当の兄弟みたいだったよ」

「……ありがとうございます」

 主任は礼を言われたことに首を傾げたが、特にその理由を聞かれることもなかった。松岡自身も、咄嗟に出た言葉がなぜそれだったのか分からなかった。
 職場を出て電話を掛けようとした時、ちょうどのタイミングで司が現れた。神妙な顔つきで頼りなさそうに近寄って来る司に、思わず顔がほころんだ。

「お疲れ様です」

「もしかして、近くで待ってた?」

「少しブラブラしてたんですけど、寄るところもないし、ベンチで待ってました」

「悪いな」

「別に。ボーッとするのは好きだから」

 夕食を一緒にする約束をしている。
 司はどうせ外食だろうと思ってわざわざ松岡の職場まで足を運んだのだが、読みは外れた。

「せっかく来てもらっておいてなんだけど、今日は家で食べようかと思って。鍋の材料を買ってあるんだ」

「いいですよ」

 司は松岡の数歩後ろを保って歩いた。先日、祐太に松岡のことを話したばかりだからか、隣に並んで歩くのは後ろめたい気がした。松岡の持っている紙袋に気が付いた。

「それ、なんですか?」

「職場の先輩がくれたんだ。ビワ」

「ビワ?」

「取引先の人がくれたらしいんだけど、先輩はビワが苦手だからって」

「へぇ」

「ああ、でもお前も食べられないな」

「え?」

「食べると口の周りがかゆくなるんだよな。アレルギーだっけ」

「……え……」

 司はビワにアレルギーなど持っていない。松岡が断言的に言うので、違うと言いそびれた。松岡の様子からして完全に司がアレルギーだと思っているらしかった。今時、ビワアレルギーは珍しくないので誰かと間違えていても不思議ではないが、その誰かが特定出来るだけに妙に胸がざわついた。

 松岡のアパートに着いて、松岡は休む間もなく食事の準備にかかった。手伝うと申し出ると、構わないから座ってろと断わられた。せめて野菜を切るくらいはと、無理矢理にでも台所に立った。数年、一人暮らしをしている司はそれなりに炊事をしてきた。簡単に切ったり炒めたりする程度なら出来る。好きなわけではないが、苦手でもない。ただ、気負いすぎたのか、包丁で指を切った。いつもならしない怪我だ。思ったより傷が深かった。血が流れてすぐには止まりそうになかった。絆創膏はないかと訊ねると、怪我に気付いた松岡は少し慌てた様子でティッシュを司の指に宛がった。

「少し止血しないと、すぐに絆創膏貼っても駄目になるだろ。暫くこうしてろ」

「……すみません」

「慣れないことするからだよ」

「……得意じゃないけど、少しなら出来ます」

「そうか、それは悪かった。……もう炊くだけだから、座ってろ」

 頭を軽く叩かれる。時々される子供扱いにはいい気がしない。司自身にある幼さに対してではなく、誰かと間違えているような気がしてならなかった。キッチンに戻ろうとする松岡の袖を思わず引っ張る。

「なに?」

「……す、きです」

「突然、どうしたんだよ」

「先輩が好き……だけど、先輩はどうなのかなって……」

「お前らしくないこと言うんだな」

 自分でも女々しくて、仕様のない質問だと分かっている。逆に自分が同じことをされたら引くだろうとも。困惑に負けて馬鹿なことを聞いてしまった。けれども松岡は笑いもせず司を抱きすくめた。

「好きに決まってるじゃないか」

 すかさず口を塞がれる。刻んだままの野菜を放置して、カーペットに倒される。

「泊まっていくだろ」

「……そうします」

 直に肌が触れると、たちまち惹き込まれていく。雁字搦めになった理性が簡単に解かされていくようだった。それでも不安は異物のように残ったままだ。松岡と会う度に少しずつ蓄積されていく。一緒にいる限り異物はどんどん重くなって、いつか潰されるだろう。
 肌を合わせているあいだだけが、唯一何も考えずに済む。


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