Ⅴ—4
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『千歳へ
変わりはないか。元気でやっているのか。三ヶ月前に忙しくなったと電話をもらってから、何も音沙汰ないので、母さんが心配している。ここ最近、家に帰って来ないが、何かあったのか。千明の命日も過ぎた。お前だけ墓参りに何年も行っていないだろう。たまには行ってやれ。千明も喜ぶ。伯母さんから空豆とえんどうを沢山いただいた。母さんが炊いたのを冷凍して送る。仕事が終わったら食べなさい。最近、母さんの調子があまり良くない。めまいをよく起こすらしい。病院で検査をしても特に異常はなかったが、もともと血圧が高いので無理は出来ない。あまり心配をかけるな。たまには連絡しなさい。 父より』
実家から、調理済みの豆や、レトルト食品などが入った荷物が届いた。受け取ったのは夜の九時だったので、松岡は翌日の夕方、仕事が一段落ついたところで実家に電話を掛けた。
「もしもし、母さん?」
『千歳? 元気なの?』
「元気だよ。荷物届いたよ。ありがとう」
『あなた、伯母さんの空豆、好きでしょ。たくさん炊いてるからね。仕事は忙しい?』
「最近、少しね。今もまだ仕事中なんだ」
『そう、たまには帰ってきなさい』
「そうする。じゃあ、仕事に戻るよ」
電話を切ってから仕事場に戻ったが、簡単な事務作業を終わらせて退社した。まだ定時を過ぎて十分しか経っていない。早めに帰宅して、母が炊いた空豆を食べるつもりだった。
店の前で、若い女が立っていた。もうとっくに窓口は閉まっている。誰かを待っているのか聞こうと思ったら、別方向を見ていたその女が振り向いた。
「お疲れ様です」
美央だった。松岡は美央と一度しかまともに話したことはないが、印象の残る顔立ちなのですぐに分かった。しかも、つい先日司といるところを見られたばかりだ。松岡は身構えることなく冷静に訊ねた。
「どうしたの?」
「松岡さんに話があって」
美央は二コリとも笑わない。話の内容は大体、察しがつく。
「どこかでお茶でも飲もうか」
「すぐ終わりますから、いいです」
「立ち話もなんだから」
「あなたとお茶を飲むつもりで来たんじゃないわ。司のことを聞きたいだけ」
松岡の余裕を感じてか、美央は強気で言った。だが、それには松岡もやや苛ついた。
「だったら尚更だろう。ここは俺の職場の前なんだ。中にまだ人も残ってる。少しは考えてくれないか」
そう言われて、美央は自分の子供じみた真似を恥じ、素直に「ごめんなさい」と従った。
近くのカフェに入った。窓際の二人掛けの席につく。暫く無言だったが、注文したコーヒーとアイスティーが運ばれて来ると、美央が単刀直入に聞いた。
「司と付き合ってるんですか?」
松岡は鼻でふっと笑い、「そうなのかな」と呟いた。
「いつからですか」
「いきなり聞くんだな」
「それを聞きたいんです。他に何もないわ」
「……最近だ。中学の頃から知ってるけど、卒業する頃はまったく連絡取ってなかったし、お互いの高校時代は知らない。連絡をまた取り合うようになったのは、去年の夏から。母校で偶然会った」
「いつから司のこと好きなんですか」
「高校の時。笠原が中学生の時かな」
その答えには美央も驚いた。もっと最近の話かと思っていた。
「……俺には笠原と同い年の弟がいたんだよ。弟が小学六年の時、俺は中学二年で、お互い反抗期だの思春期だの仲が悪くてね」
松岡は弟との経緯を、司に話したよりも詳しく伝えた。
「俺はその頃、弟を疎ましいと思っていた。両親が弟には甘くて、それに付け上がってるのが腹立たしくて。ある日、弟が友人と万引きをした。たいした叱責もされずにのこのこと帰って来た弟を、俺は思いっきり殴った。弟の唇は切れて血が流れた。すぐに青くなった。痛かったと思う。だけど弟は痛いとも言わず、泣きもせず、倒れ込んだまま俺を睨んだ。あの時の眼は今でも覚えている。そのあとすぐに出かけた弟は、トラックに轢かれて死んだ。信じられなかった。ついさっき睨みあったのに。殴った感触がまだ手に残っているのに」
記憶が鮮明に蘇るのか、松岡の眉間には皺が寄っていく。美央はその表情を息を飲んで見守った。
「……弟の亡骸は見られなかった。見るなと言われたから。葬式が終わっても、信じられなくて、一度も泣かなかった。正直、そんな実感なんて今まで湧いたことがない。亡骸も見てないんだから。だけど、どうしてあの時殴ったのか、もっと仲良く出来なかったのか、そういうのは色々後悔した。気を塞いだ母は、暫くは死人のようだった。俺が何か話しかけても上の空。そういうのもあって、俺は少しだけ、荒んだ」
「……少しだけ?」
「心の問題。うわべはニコニコしていても、誰にも心を開かなかった。親しくなろうと思わなかった。親しくなっても突然別れが来たら辛いと思って。……ただ唯一、あからさまに変わったのは煙草を吸うようになったことかな」
最後は笑いながら言った。美央は少しだけ、口角を上げた。
「そんな時に、笠原に会った。初めはなんて生意気な奴なんだろうって思った。だけど、その生意気な口調も、睨むような目つきも、弟に似てたんだ。話してるうちに、色々世話を焼きたくなった。頼まれてもないのに勉強を見てやったり、色んなところに遊びに連れて行ったり。弟にしてやれなかったこと、笠原にしてやろうと思った。笠原にとっては迷惑だったかもしれないが、笑った顔を見ると、これでいいのかもしれないと思った」
司の話になると途端に松岡の表情が和らいだ。
「ある時、笠原に弟の話をしたら、それからなんとなく避けられるようになった。気分を悪くしたんだ、俺の勝手な独りよがりだったと後悔した。のちにそれは違うと言われたけど、やっぱり引っかかってね。それから段々、距離が出来て、中学を卒業する頃に連絡が取れなくなった。そうなると、どうしようもない寂寥感に襲われた。そこで笠原のことを好きなんだと思った。ただの可愛い後輩でなく、それ以上の別の何かの感情があることには気付いてたけど、離れてみて、好きだと気付いた」
松岡がここまで正直にすべてを打ち明けると思わなかった。美央は話の内容と同様に、それにも戸惑った。自分が司の彼女である以上は強気でいるつもりだったが、それも挫けてしまいそうだ。
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『千歳へ
変わりはないか。元気でやっているのか。三ヶ月前に忙しくなったと電話をもらってから、何も音沙汰ないので、母さんが心配している。ここ最近、家に帰って来ないが、何かあったのか。千明の命日も過ぎた。お前だけ墓参りに何年も行っていないだろう。たまには行ってやれ。千明も喜ぶ。伯母さんから空豆とえんどうを沢山いただいた。母さんが炊いたのを冷凍して送る。仕事が終わったら食べなさい。最近、母さんの調子があまり良くない。めまいをよく起こすらしい。病院で検査をしても特に異常はなかったが、もともと血圧が高いので無理は出来ない。あまり心配をかけるな。たまには連絡しなさい。 父より』
実家から、調理済みの豆や、レトルト食品などが入った荷物が届いた。受け取ったのは夜の九時だったので、松岡は翌日の夕方、仕事が一段落ついたところで実家に電話を掛けた。
「もしもし、母さん?」
『千歳? 元気なの?』
「元気だよ。荷物届いたよ。ありがとう」
『あなた、伯母さんの空豆、好きでしょ。たくさん炊いてるからね。仕事は忙しい?』
「最近、少しね。今もまだ仕事中なんだ」
『そう、たまには帰ってきなさい』
「そうする。じゃあ、仕事に戻るよ」
電話を切ってから仕事場に戻ったが、簡単な事務作業を終わらせて退社した。まだ定時を過ぎて十分しか経っていない。早めに帰宅して、母が炊いた空豆を食べるつもりだった。
店の前で、若い女が立っていた。もうとっくに窓口は閉まっている。誰かを待っているのか聞こうと思ったら、別方向を見ていたその女が振り向いた。
「お疲れ様です」
美央だった。松岡は美央と一度しかまともに話したことはないが、印象の残る顔立ちなのですぐに分かった。しかも、つい先日司といるところを見られたばかりだ。松岡は身構えることなく冷静に訊ねた。
「どうしたの?」
「松岡さんに話があって」
美央は二コリとも笑わない。話の内容は大体、察しがつく。
「どこかでお茶でも飲もうか」
「すぐ終わりますから、いいです」
「立ち話もなんだから」
「あなたとお茶を飲むつもりで来たんじゃないわ。司のことを聞きたいだけ」
松岡の余裕を感じてか、美央は強気で言った。だが、それには松岡もやや苛ついた。
「だったら尚更だろう。ここは俺の職場の前なんだ。中にまだ人も残ってる。少しは考えてくれないか」
そう言われて、美央は自分の子供じみた真似を恥じ、素直に「ごめんなさい」と従った。
近くのカフェに入った。窓際の二人掛けの席につく。暫く無言だったが、注文したコーヒーとアイスティーが運ばれて来ると、美央が単刀直入に聞いた。
「司と付き合ってるんですか?」
松岡は鼻でふっと笑い、「そうなのかな」と呟いた。
「いつからですか」
「いきなり聞くんだな」
「それを聞きたいんです。他に何もないわ」
「……最近だ。中学の頃から知ってるけど、卒業する頃はまったく連絡取ってなかったし、お互いの高校時代は知らない。連絡をまた取り合うようになったのは、去年の夏から。母校で偶然会った」
「いつから司のこと好きなんですか」
「高校の時。笠原が中学生の時かな」
その答えには美央も驚いた。もっと最近の話かと思っていた。
「……俺には笠原と同い年の弟がいたんだよ。弟が小学六年の時、俺は中学二年で、お互い反抗期だの思春期だの仲が悪くてね」
松岡は弟との経緯を、司に話したよりも詳しく伝えた。
「俺はその頃、弟を疎ましいと思っていた。両親が弟には甘くて、それに付け上がってるのが腹立たしくて。ある日、弟が友人と万引きをした。たいした叱責もされずにのこのこと帰って来た弟を、俺は思いっきり殴った。弟の唇は切れて血が流れた。すぐに青くなった。痛かったと思う。だけど弟は痛いとも言わず、泣きもせず、倒れ込んだまま俺を睨んだ。あの時の眼は今でも覚えている。そのあとすぐに出かけた弟は、トラックに轢かれて死んだ。信じられなかった。ついさっき睨みあったのに。殴った感触がまだ手に残っているのに」
記憶が鮮明に蘇るのか、松岡の眉間には皺が寄っていく。美央はその表情を息を飲んで見守った。
「……弟の亡骸は見られなかった。見るなと言われたから。葬式が終わっても、信じられなくて、一度も泣かなかった。正直、そんな実感なんて今まで湧いたことがない。亡骸も見てないんだから。だけど、どうしてあの時殴ったのか、もっと仲良く出来なかったのか、そういうのは色々後悔した。気を塞いだ母は、暫くは死人のようだった。俺が何か話しかけても上の空。そういうのもあって、俺は少しだけ、荒んだ」
「……少しだけ?」
「心の問題。うわべはニコニコしていても、誰にも心を開かなかった。親しくなろうと思わなかった。親しくなっても突然別れが来たら辛いと思って。……ただ唯一、あからさまに変わったのは煙草を吸うようになったことかな」
最後は笑いながら言った。美央は少しだけ、口角を上げた。
「そんな時に、笠原に会った。初めはなんて生意気な奴なんだろうって思った。だけど、その生意気な口調も、睨むような目つきも、弟に似てたんだ。話してるうちに、色々世話を焼きたくなった。頼まれてもないのに勉強を見てやったり、色んなところに遊びに連れて行ったり。弟にしてやれなかったこと、笠原にしてやろうと思った。笠原にとっては迷惑だったかもしれないが、笑った顔を見ると、これでいいのかもしれないと思った」
司の話になると途端に松岡の表情が和らいだ。
「ある時、笠原に弟の話をしたら、それからなんとなく避けられるようになった。気分を悪くしたんだ、俺の勝手な独りよがりだったと後悔した。のちにそれは違うと言われたけど、やっぱり引っかかってね。それから段々、距離が出来て、中学を卒業する頃に連絡が取れなくなった。そうなると、どうしようもない寂寥感に襲われた。そこで笠原のことを好きなんだと思った。ただの可愛い後輩でなく、それ以上の別の何かの感情があることには気付いてたけど、離れてみて、好きだと気付いた」
松岡がここまで正直にすべてを打ち明けると思わなかった。美央は話の内容と同様に、それにも戸惑った。自分が司の彼女である以上は強気でいるつもりだったが、それも挫けてしまいそうだ。
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