Ⅴ—3
薄暗くなった頃に授業を終えて、帰宅の途に着いた。陽が沈んでも名残で西の空はまだ赤い。それも次第に薄くなり、家に着く頃には完全に燃え尽きた。
「笠原」
仕事帰りの松岡がアパートの前で待っていた。
「どうしたんですか」
「仕事が早く終わって、少し寄った」
家に上げようと思ったが、美央が来ることを思い出して、無駄足になったことを詫びた。
「俺が勝手に来ただけだから。俺も顔を見たらすぐ帰ろうと思ってたし」
「日曜、会えますか」
「勿論。迎えに来るよ」
「それじゃあ」と言っておきながら別れるのを渋っていると、松岡が先に動いた。トン、と触れるようにキスをし、首に腕を回して軽く抱き寄せた。
「つ……かさ」
聞き慣れた声が、疑うように司を呼んだ。はっとして振り返ると美央が茫然と立っていた。松岡は小声で「悪い」と言い残し、車に乗り込む。松岡がいなくなって暫くは二人とも距離を保ったまま動かなかった。
「……大学からすぐ来たの?」
「今の松岡さんでしょ? 何してたの」
司の問いに答えずに問い詰められる。
「もしかして、司の放って置けない人って……松岡さん、なの……?」
美央は司に近付くや、両腕を掴んだ。
「いつからそういう関係なの!? 男の人だよねぇ!?」
「ごめ……」
「いつからなのよ!」
「最近だよ。俺だってもともと男が好きなわけじゃなかった」
「……好きなの?」
「どうして好きになったのか、自分でも分からない」
司の腕から美央の手が剥がれ落ちた。俯いて黙り込んだ彼女を見ると、今度こそ終わったと思った。それでも美央は下がらなかった。
「……今見たことショックだけど、わたしまだ諦めない」
「美央」
「わたしのところに戻って来るまで待ってる。結婚したいって言ったもの」
「これ以上、もう無理だよ」
「平気だよ。司の言う通り、距離を置くわ。だから」
「別れよう」
その言葉に美央の動きが止まった。
「あんなの見て、しかも相手が男だなんて平気なわけないだろ。幻滅して当然じゃないか。それなのに待ってるなんて言うなよ」
「嫌よ。司がしつこいのは嫌いなのは知ってるわ。だから今まで聞きたいことや干渉したいこともあったけど、我慢したの。わたしも束縛したくなかったから平気って思ってたわ。でも、今回ばかりは簡単に引き下がれない。しつこいって思われても、すぐに別れるなんてしたくない」
「でも」
「まだ別れたなんて思わないで」
どうしてそこまで拘ってくれるのか理解に苦しむ。眉間を寄せた無理やりな笑顔が痛々しい。けれども彼女にそんな顔をさせているのは、ほかでもない自分なのである。
―——
珍しく五十嵐から誘われた。駅前のコンビニで待ち合わせ、司がコンビニに着いた時には五十嵐は缶ビールを数本、購入済みだった。
「俺んち、すぐそこだから来いよ」
五十嵐の家は駅から十分ほど離れたマンションで、学生が一人暮らしをするには贅沢な部屋だった。ただ、片付けが苦手な五十嵐の部屋には服やごみが散らかっている。五十嵐は足でそれを除け、司が座るスペースを確保した。
「人を入れる時くらい、掃除しろよ」
「いいだろ、男同士なんだし」
五十嵐はコンビニで買ったビールを司に差し出した。司が受け取ると、続いて自分の分のビールを取り出し、軽快な破裂音とともに蓋を開けた。豪快に半分ほど飲んだあと、言った。
「まだ怒ってる?」
なんのことを聞かれているのか分からず、司は顔を顰めた。「このあいだの駅でのこと」と付け足され、ようやく思い出した。
「怒ってないよ。忘れてた」
「なーんだ。よかった」
「お前でも、そういうの気にするんだな」
「お前でもってなんだよ。俺はこう見えてデリケートなんだ。……あの時は悪かったなって、ちょっと反省してたんだぜ」
「なら、もっと早く謝れよ」
司は笑いながら返した。
「実はさ、あの時、なんでああいうこと聞いたかって言えば、友達に頼まれてさ」
「友達?」
「高校からの友達が、井下と友達でさ。井下が最近、元気ないから彼氏と何かあったんじゃないかって心配してたんだ。俺はそのうち本人から相談するだろうって言ったんだけど、そいつ、どうしても気になるみたいで、念のため司に何かあったか聞いてみてくれって頼まれたわけさ。まあ、俺が井下が泣いてるのを見たって、うっかり言っちゃったのも悪かったんだけど。俺って、遠まわしに聞くの苦手だから、ああいう聞き方したんだ。悪かったな」
「そうなんだ」
「でも司から聞いたことは言ってねぇから。聞かれても言うつもりないし」
「ありがとう」
「で、どうなの? 本当に別れたの?」
「まだ……みたい」
「みたいってなんだよ」
「別れるつもりはないって言われた。俺は正直、もう元通りにはならないと思うんだけど」
「よっぽど好きなんだなぁ、司が」
「なんでそんなに好きになってくれるのか分からない」
「司は? 井下のこと、もう好きじゃないの?」
「好きだけど、お前に言われた通り、他に好きな人が出来ちゃったんだから、一緒にいられないだろ」
「両方、付き合うのは無理なの?」
「どっちにも悪いじゃないか。正直、そういう時期もあったけど、無理だった」
「だから長年付き合った彼女と別れるのか。好きなのに。ってことは、よっぽどその相手が好きなんだな。お前も」
「……」
「昔、ドラマであったんだ。主人公の女には好きな男が二人いて、二人から求婚されて、毎日悩むんだ。青いリンゴと赤いリンゴ、どっちがいいんだろうって」
「青いリンゴと赤いリンゴ?」
「例えだよ。二人の男をリンゴに見立てててね」
「どっちを選んだの」
「散々悩んで、片方の男を選んだ。でもそいつは船乗りで、そいつって決めた途端に、男が出航するんだ」
「最後はどうなった?」
「確か、数日後に男の船が難破して、生死が分からない状況になるんだったかな。たぶん、死んでるだろうって言われてたんだけど、女は待つって約束したから、待ち続けるんだ。でも、二人がどうなったか知らない。最終回見てないから」
「……なんだよ、それ」
「っていうのを、今、ふと思い出した。今の司の状況を見て」
「なるほどね」
「ドラマの最後は知らないけど、俺はお前がどっち選んでもハッピーエンドになるのを願うよ」
五十嵐はまだ開けられていない司の缶ビールを指差し、飲むよう促した。司はようやくビールに手を付ける。そのあと五十嵐は気を遣ってか、美央についての話は一切しなかった、軽妙にべらべらと喋る五十嵐の小話を一晩中聞きながら、司は久しぶりに笑った。
⇒
「笠原」
仕事帰りの松岡がアパートの前で待っていた。
「どうしたんですか」
「仕事が早く終わって、少し寄った」
家に上げようと思ったが、美央が来ることを思い出して、無駄足になったことを詫びた。
「俺が勝手に来ただけだから。俺も顔を見たらすぐ帰ろうと思ってたし」
「日曜、会えますか」
「勿論。迎えに来るよ」
「それじゃあ」と言っておきながら別れるのを渋っていると、松岡が先に動いた。トン、と触れるようにキスをし、首に腕を回して軽く抱き寄せた。
「つ……かさ」
聞き慣れた声が、疑うように司を呼んだ。はっとして振り返ると美央が茫然と立っていた。松岡は小声で「悪い」と言い残し、車に乗り込む。松岡がいなくなって暫くは二人とも距離を保ったまま動かなかった。
「……大学からすぐ来たの?」
「今の松岡さんでしょ? 何してたの」
司の問いに答えずに問い詰められる。
「もしかして、司の放って置けない人って……松岡さん、なの……?」
美央は司に近付くや、両腕を掴んだ。
「いつからそういう関係なの!? 男の人だよねぇ!?」
「ごめ……」
「いつからなのよ!」
「最近だよ。俺だってもともと男が好きなわけじゃなかった」
「……好きなの?」
「どうして好きになったのか、自分でも分からない」
司の腕から美央の手が剥がれ落ちた。俯いて黙り込んだ彼女を見ると、今度こそ終わったと思った。それでも美央は下がらなかった。
「……今見たことショックだけど、わたしまだ諦めない」
「美央」
「わたしのところに戻って来るまで待ってる。結婚したいって言ったもの」
「これ以上、もう無理だよ」
「平気だよ。司の言う通り、距離を置くわ。だから」
「別れよう」
その言葉に美央の動きが止まった。
「あんなの見て、しかも相手が男だなんて平気なわけないだろ。幻滅して当然じゃないか。それなのに待ってるなんて言うなよ」
「嫌よ。司がしつこいのは嫌いなのは知ってるわ。だから今まで聞きたいことや干渉したいこともあったけど、我慢したの。わたしも束縛したくなかったから平気って思ってたわ。でも、今回ばかりは簡単に引き下がれない。しつこいって思われても、すぐに別れるなんてしたくない」
「でも」
「まだ別れたなんて思わないで」
どうしてそこまで拘ってくれるのか理解に苦しむ。眉間を寄せた無理やりな笑顔が痛々しい。けれども彼女にそんな顔をさせているのは、ほかでもない自分なのである。
―——
珍しく五十嵐から誘われた。駅前のコンビニで待ち合わせ、司がコンビニに着いた時には五十嵐は缶ビールを数本、購入済みだった。
「俺んち、すぐそこだから来いよ」
五十嵐の家は駅から十分ほど離れたマンションで、学生が一人暮らしをするには贅沢な部屋だった。ただ、片付けが苦手な五十嵐の部屋には服やごみが散らかっている。五十嵐は足でそれを除け、司が座るスペースを確保した。
「人を入れる時くらい、掃除しろよ」
「いいだろ、男同士なんだし」
五十嵐はコンビニで買ったビールを司に差し出した。司が受け取ると、続いて自分の分のビールを取り出し、軽快な破裂音とともに蓋を開けた。豪快に半分ほど飲んだあと、言った。
「まだ怒ってる?」
なんのことを聞かれているのか分からず、司は顔を顰めた。「このあいだの駅でのこと」と付け足され、ようやく思い出した。
「怒ってないよ。忘れてた」
「なーんだ。よかった」
「お前でも、そういうの気にするんだな」
「お前でもってなんだよ。俺はこう見えてデリケートなんだ。……あの時は悪かったなって、ちょっと反省してたんだぜ」
「なら、もっと早く謝れよ」
司は笑いながら返した。
「実はさ、あの時、なんでああいうこと聞いたかって言えば、友達に頼まれてさ」
「友達?」
「高校からの友達が、井下と友達でさ。井下が最近、元気ないから彼氏と何かあったんじゃないかって心配してたんだ。俺はそのうち本人から相談するだろうって言ったんだけど、そいつ、どうしても気になるみたいで、念のため司に何かあったか聞いてみてくれって頼まれたわけさ。まあ、俺が井下が泣いてるのを見たって、うっかり言っちゃったのも悪かったんだけど。俺って、遠まわしに聞くの苦手だから、ああいう聞き方したんだ。悪かったな」
「そうなんだ」
「でも司から聞いたことは言ってねぇから。聞かれても言うつもりないし」
「ありがとう」
「で、どうなの? 本当に別れたの?」
「まだ……みたい」
「みたいってなんだよ」
「別れるつもりはないって言われた。俺は正直、もう元通りにはならないと思うんだけど」
「よっぽど好きなんだなぁ、司が」
「なんでそんなに好きになってくれるのか分からない」
「司は? 井下のこと、もう好きじゃないの?」
「好きだけど、お前に言われた通り、他に好きな人が出来ちゃったんだから、一緒にいられないだろ」
「両方、付き合うのは無理なの?」
「どっちにも悪いじゃないか。正直、そういう時期もあったけど、無理だった」
「だから長年付き合った彼女と別れるのか。好きなのに。ってことは、よっぽどその相手が好きなんだな。お前も」
「……」
「昔、ドラマであったんだ。主人公の女には好きな男が二人いて、二人から求婚されて、毎日悩むんだ。青いリンゴと赤いリンゴ、どっちがいいんだろうって」
「青いリンゴと赤いリンゴ?」
「例えだよ。二人の男をリンゴに見立てててね」
「どっちを選んだの」
「散々悩んで、片方の男を選んだ。でもそいつは船乗りで、そいつって決めた途端に、男が出航するんだ」
「最後はどうなった?」
「確か、数日後に男の船が難破して、生死が分からない状況になるんだったかな。たぶん、死んでるだろうって言われてたんだけど、女は待つって約束したから、待ち続けるんだ。でも、二人がどうなったか知らない。最終回見てないから」
「……なんだよ、それ」
「っていうのを、今、ふと思い出した。今の司の状況を見て」
「なるほどね」
「ドラマの最後は知らないけど、俺はお前がどっち選んでもハッピーエンドになるのを願うよ」
五十嵐はまだ開けられていない司の缶ビールを指差し、飲むよう促した。司はようやくビールに手を付ける。そのあと五十嵐は気を遣ってか、美央についての話は一切しなかった、軽妙にべらべらと喋る五十嵐の小話を一晩中聞きながら、司は久しぶりに笑った。
⇒
スポンサーサイト