Ⅳ-5
***
美央と付き合いだしたのは高校三年の夏前だった。
当時、美央は学年でも美人の部類に入っていて、女子からも男子からも支持する声は聞こえていた。見かける度に「綺麗な子だな」と思っていたが、司が一方的に知っていただけだ。二年になって同じクラスになったが、そこでも暫く挨拶すら交わしたことがなかった。
高校に入ってバスケを辞め、友人に誘われて軽い気持ちでテニス部に入った。やれば意外に楽しいもので、そこそこに上達したが、部活で青春を謳歌しようとは思わなかった。部そのものが「楽しければいい」というスタンスで活動していたので、そのせいもあるかもしれない。ただ、引退を間近に控えた三年たちは、夏前の総体に向けて密かにやる気を燃やしていた。
団体戦のメンバーを決めるのに、校内トーナメント戦をすると言われた。司はいつもシングルスを任されていたので、普通にやればメンバーになるはずだった。
トーナメント戦を翌日に控えたある日、三年の一人に呼ばれた。宮本という小柄な男である。テニスの腕はいいとも悪いとも言えない、司より少し劣るくらいの実力だ。誰にも気付かれないようにと、体育館裏に連れて行かれた。宮本は辺りに誰もいないか念入りに確認したあと、司の手を強く握って言った。
「笠原、明日のトーナメント戦、俺達さっそく当たるよな」
「え? ……そうですね」
「俺、今までの大会で団体戦のメンバーに入ったことないんだ」
「ああー……そういえば……」
「明日の試合、俺に勝たせてくれないか」
「えぇ!?」
「どうしてもメンバーに入りたいんだ。でも、勝たないと入れない」
「勝てばいいじゃないですか」
「簡単に言うなよ。負けたらどうするんだよ。最後の大会なんだ。一度くらい団体で出たいんだ。頼む、一生のお願いだ」
「でも……」
「笠原!」
最後の試合くらいは良い思い出を作っておきたいのは分かる。だからといって司が八百長をしたところで、宮本が他のメンバーに負け続けたら意味がない。だが、宮本に切実にここまで訴えられたら、断われなかった。司は迷いながら承諾した。
「ありがとう! 恩に着るよ!」
「俺以外の人には実力で勝ってくださいよ」
「勿論だよ! こんなこと頼めるの、お前しかいない。本当にありがとう!」
そして翌日の試合では周囲に悟られないよう宮本に勝たせてやった。誰にも怪しまれなかったので、こんなものかと気抜けしていたら意外な人物に指摘されてしまった。美央だったのだ。
「今日の試合、なんだったの?」
校門を出て自転車にまたがった時に言われた。美央はアーチェリー部なのでテニス部での出来事は知らないはずだ。司は試合を指摘されたことより、そっちのほうが気になった。
「なんだったのって……どういうこと」
「今日、テニス部試合してたでしょ。通りかかった時に見たの。丁度笠原くんが試合してたわ。なんなのよ、あのやる気ないの」
「何も知らないくせに、いきなりやる気がないとか言われても」
司は自転車から降りて、押しながら歩いた。美央は付いて来る。
「わたし、中学の頃テニス部だったからテニスのことは分かるの。……そうじゃなくて、第三者から見ても、わざと負けたってバレバレよ。見てて腹が立ったから言っちゃった。相手の人に何も言われなかった?」
「別に。っていうか、言われてわざと負けたんだ」
「あ、認めた」
「事実だから」
美央は憮然とした態度から一変して、今度は感心しているようにも見えた。
「言われてって、何を言われたの?」
「試合に負けてくれって」
「誰に」
「対戦相手に」
「だからって、本当に負けるなんて失礼よ」
「相手は引退する先輩なんだ。校内トーナメント戦で勝たないと団体のメンバーになれない。先輩は本当言うと、俺より弱いんだけど、どうしてもメンバーになりたいから負けてくれって頼まれた。……先輩に言われると断われないだろ」
「でもその先輩、笠原くんのあとずっと負けたら意味ないじゃない」
「そうだね。だから、俺のあとは実力で勝ってくれって言ったよ」
「そうなんだ」
「井下、徒歩?」
「電車」
「じゃあ、駅まで送って行く」
「えっ、いいのに。すぐそこの交差点で曲がるんでしょ? わたしが勝手に付いて来ただけで」
「もう暗いから。……ってのは口実で、口止め料」
「なにそれ、ひどい」
無邪気に笑う美央につられて、司も口元がほころんだ。
駅前で「じゃあ」と言うと、美央は唇ときゅっと噛みしめた。何か言いたげに見えたので、司が先に聞いた。
「何? なんか付いてる?」
「ううん、わたし笠原くんて、とっつきにくいと思ってたの。でも、そうでもないのね」
「よく言われる」
「送ってくれてありがとう。八百長のことは秘密にしてあげる」
その翌日から、よく美央に話し掛けられるようになった。暇な休み時間はたいした用がなくてもフラリと近寄ってきたり、数学を教えてくれと言う時もあった。たまに掃除当番を代わってくれと頼まれ、それは嫌だと断ったら「八百長をバラす」と脅される。
数いる女友達の中でも特に親しい存在にはなったが、恋愛感情はまだなかったと思う。美央も司に対して特別な対応をするわけではなかったので、異性であることを多少意識しながらも気兼ねのない距離感を保てるのが、司にとってとても心地がよかった。
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美央と付き合いだしたのは高校三年の夏前だった。
当時、美央は学年でも美人の部類に入っていて、女子からも男子からも支持する声は聞こえていた。見かける度に「綺麗な子だな」と思っていたが、司が一方的に知っていただけだ。二年になって同じクラスになったが、そこでも暫く挨拶すら交わしたことがなかった。
高校に入ってバスケを辞め、友人に誘われて軽い気持ちでテニス部に入った。やれば意外に楽しいもので、そこそこに上達したが、部活で青春を謳歌しようとは思わなかった。部そのものが「楽しければいい」というスタンスで活動していたので、そのせいもあるかもしれない。ただ、引退を間近に控えた三年たちは、夏前の総体に向けて密かにやる気を燃やしていた。
団体戦のメンバーを決めるのに、校内トーナメント戦をすると言われた。司はいつもシングルスを任されていたので、普通にやればメンバーになるはずだった。
トーナメント戦を翌日に控えたある日、三年の一人に呼ばれた。宮本という小柄な男である。テニスの腕はいいとも悪いとも言えない、司より少し劣るくらいの実力だ。誰にも気付かれないようにと、体育館裏に連れて行かれた。宮本は辺りに誰もいないか念入りに確認したあと、司の手を強く握って言った。
「笠原、明日のトーナメント戦、俺達さっそく当たるよな」
「え? ……そうですね」
「俺、今までの大会で団体戦のメンバーに入ったことないんだ」
「ああー……そういえば……」
「明日の試合、俺に勝たせてくれないか」
「えぇ!?」
「どうしてもメンバーに入りたいんだ。でも、勝たないと入れない」
「勝てばいいじゃないですか」
「簡単に言うなよ。負けたらどうするんだよ。最後の大会なんだ。一度くらい団体で出たいんだ。頼む、一生のお願いだ」
「でも……」
「笠原!」
最後の試合くらいは良い思い出を作っておきたいのは分かる。だからといって司が八百長をしたところで、宮本が他のメンバーに負け続けたら意味がない。だが、宮本に切実にここまで訴えられたら、断われなかった。司は迷いながら承諾した。
「ありがとう! 恩に着るよ!」
「俺以外の人には実力で勝ってくださいよ」
「勿論だよ! こんなこと頼めるの、お前しかいない。本当にありがとう!」
そして翌日の試合では周囲に悟られないよう宮本に勝たせてやった。誰にも怪しまれなかったので、こんなものかと気抜けしていたら意外な人物に指摘されてしまった。美央だったのだ。
「今日の試合、なんだったの?」
校門を出て自転車にまたがった時に言われた。美央はアーチェリー部なのでテニス部での出来事は知らないはずだ。司は試合を指摘されたことより、そっちのほうが気になった。
「なんだったのって……どういうこと」
「今日、テニス部試合してたでしょ。通りかかった時に見たの。丁度笠原くんが試合してたわ。なんなのよ、あのやる気ないの」
「何も知らないくせに、いきなりやる気がないとか言われても」
司は自転車から降りて、押しながら歩いた。美央は付いて来る。
「わたし、中学の頃テニス部だったからテニスのことは分かるの。……そうじゃなくて、第三者から見ても、わざと負けたってバレバレよ。見てて腹が立ったから言っちゃった。相手の人に何も言われなかった?」
「別に。っていうか、言われてわざと負けたんだ」
「あ、認めた」
「事実だから」
美央は憮然とした態度から一変して、今度は感心しているようにも見えた。
「言われてって、何を言われたの?」
「試合に負けてくれって」
「誰に」
「対戦相手に」
「だからって、本当に負けるなんて失礼よ」
「相手は引退する先輩なんだ。校内トーナメント戦で勝たないと団体のメンバーになれない。先輩は本当言うと、俺より弱いんだけど、どうしてもメンバーになりたいから負けてくれって頼まれた。……先輩に言われると断われないだろ」
「でもその先輩、笠原くんのあとずっと負けたら意味ないじゃない」
「そうだね。だから、俺のあとは実力で勝ってくれって言ったよ」
「そうなんだ」
「井下、徒歩?」
「電車」
「じゃあ、駅まで送って行く」
「えっ、いいのに。すぐそこの交差点で曲がるんでしょ? わたしが勝手に付いて来ただけで」
「もう暗いから。……ってのは口実で、口止め料」
「なにそれ、ひどい」
無邪気に笑う美央につられて、司も口元がほころんだ。
駅前で「じゃあ」と言うと、美央は唇ときゅっと噛みしめた。何か言いたげに見えたので、司が先に聞いた。
「何? なんか付いてる?」
「ううん、わたし笠原くんて、とっつきにくいと思ってたの。でも、そうでもないのね」
「よく言われる」
「送ってくれてありがとう。八百長のことは秘密にしてあげる」
その翌日から、よく美央に話し掛けられるようになった。暇な休み時間はたいした用がなくてもフラリと近寄ってきたり、数学を教えてくれと言う時もあった。たまに掃除当番を代わってくれと頼まれ、それは嫌だと断ったら「八百長をバラす」と脅される。
数いる女友達の中でも特に親しい存在にはなったが、恋愛感情はまだなかったと思う。美央も司に対して特別な対応をするわけではなかったので、異性であることを多少意識しながらも気兼ねのない距離感を保てるのが、司にとってとても心地がよかった。
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