Ⅳ-3
***
土曜日は松岡と約束をしてある。
話があると連絡を取ろうとしたところに、向こうから誘われた。司は午前中に家の用事を済ませて午後から松岡の家へ向かうつもりだった。松岡にもそう伝えてある。だが、出掛ける前にゴミを出そうとベランダに出たところ、アパートの前で松岡の車が停まっているのに気付いた。ゴミ出しをやめて、慌てて外に出た。司が出て行くと、松岡はすぐに気付いて車から降りた。
「先輩、いつからいたんですか」
「十分前くらいから。もう出られる?」
「はい」
松岡は助手席のドアを開けて、司を車内に促した。
「俺、昼から行くって言いましたよね」
「驚いたか?」
「いいんですけど、なんか悪いなって……」
最後まで言う前に、強引に抱き締められた。
「待ち切れなかった」
耳元でそう言われて、脱力してしまった。松岡の背中に腕を回そうとしたが、思い止まった。車内とはいえ、人通りのあるこの時間帯は、何が起きているか外から丸見えだ。司は松岡から離れた。松岡はすぐに対応して、万人に対する態度と同じ、自然な振る舞いに戻った。
「ずっと連絡できなくて悪かった。仕事が忙しかったのもあるけど、お前も就活で疲れてるだろうと思って控えてたんだ」
「そ、そうだったんですか……」
二人きりでも大丈夫だろうと思っていても、いざその状況になるとすぐ流されそうになった。二人だけの空間はまずい。何も言わなければ松岡の家に着いてしまうので、司は何かしら理由をつけて松岡を連れ回した。そのあいだに、どうやって話を切り出そうか考えた。
言い出せる機会は何度かあった。手に汗を握り、やっとの思いで口を開いても、松岡の顔を見ると口を閉ざしてしまった。まっすぐ司を見て穏やかに笑う松岡を見ると、心が痛んで切なくなる。どうにかしてこの関係を続けられたらとまで思った。
「今日は無口だな」
アイスコーヒーのグラスを持った松岡の手をぼんやり見つめているところに言われた。
「……そうですか?」
「いつも無口だけど、今日は特に。何かあったのか?」
「いえ……何も」
「悩み事でもあるのかと思った」
司は苦笑いをしながら「あんただよ」と心の中で投げかけた。今が一番、切り出すのに絶好の機会かもしれないと姿勢を正したが、「悩み事があれば、いつでも聞くよ」と言われてしまったので、思わず「ありがとうございます」と返した。結局何も言えないまま喫茶店を後にすることになり、司はこれ以上松岡を連れていく場所がなくなった。
「ほかに行きたいところはあるか?」
もう何も思い浮かばなかった。車の中では松岡が一人で喋り、司はそれを適当に相槌を打ちながら聞き流すだけだ。早く切り出さなくちゃと思っているのに、どうしても言い出せないのが苦しい。
松岡のアパートの前に着いてしまい、もうここで言うしかなかった。エンジンを切り、松岡はシートベルトを外して出ようとしたが、動かない司を怪訝に思い、降りるのを止めた。
「着いたぞ」
「……」
「笠原」
「あの……先輩」
「うん」
「その……」
「なんだよ」
「……いきなりなんですけど……」
「だから、なに」
「……もう会うの、やめませんか……」
「……なんで」
松岡の表情が凍ったのを、司は見逃さなかった。
「もう会わないほうがいいってことです。やっぱりこんな関係、いつまでも続けられないし」
「二度と?」
司は頷いた。
「縁を切るってことか」
「そうです」
少し沈黙が流れた。
「先輩と再会して、またこうやって一緒に出かけたり出来て、最初は嬉しかったんです。でも、彼女のことを考えると彼女にすごく申し訳なくて、でも先輩とは会いたい。どうにかして普通の先輩と後輩の関係に戻れないかと考えたけど、声を聞いたり、顔を見たら、やっぱり縁を切らないと無理だと思ったんです。進展がなくて、公にも出来なくて、一生続けられる関係じゃないでしょう」
「お前はそれで平気なのか」
「平気です」
「本当に」
「俺はこれからも彼女のことを大事にしたいんです。これ以上誤魔化したくないから……。それに、先輩の俺に対する気持ちは、俺と一緒じゃないと思います」
「一緒じゃないって、なに」
「先輩は俺の中に、亡くなった弟さんを見てるだけです」
「……」
「前からなんとなく引っかかってて、このあいだ淡路に行った時にそうだと思いました。弟さんと似てるんでしょう。だから色々面倒見てくれるんですよね」
「そんなこと、あるわけないだろう。俺のことをなんでお前が分かるんだよ」
「先輩は錯覚してるだけだ」
松岡の目はいよいよ本気になり、表情から戸惑いが消え、怒りに変わっていた。初めて見る顔だった。怖気づきそうになった。
「降りろよ」
「……え……」
松岡は車を降りて助手席に回ると、司の手首を掴んで強引に降ろした。引きずられるようにして部屋へ向かう。
「ちょっと、先輩!」
振り払おうとしても解放されるわけがなく、手首が鬱血するのではと思うほどだった。
部屋に入ってようやく解放された。手首がじんじんと痛むが、それよりも怒気を帯びた松岡の表情に困惑した。ここで負けたらまた同じことの繰り返しになる。司は松岡を通り過ぎて部屋を出ようとしたが、すれ違いざまに腕を掴まれ、そのまま抱きすくめられた。
「やめてくださいよ!」
抵抗しても敵わず、強くキスをされる。押しのけて玄関に向かおうとしても、すぐに捕えられてベッドに押し倒された。両手首をしっかり握られ、再び押しつけるようにキスをする。
「弟と思ってる奴に、こんなことするはずがないだろう」
「先輩は罪滅ぼしをしたいだけです。それを好きだと勘違いしてるだけです」
「だったら、お前はどうなんだ。彼女がいながら、男の俺を好きだと言ってるじゃないか」
「……違う、こんなの馬鹿げてる。俺も先輩も、男同士だという後ろめたさに舞い上がってるだけなんです」
「いいや、俺はお前のことが好きだから触れたいし、キスだってしたい。……それ以上のことも。お前も一緒のはずだ」
「それだけは駄目です。いい加減、目を覚ましましょうよ……!」
「頼むよ」
松岡はすがるように司の首筋に唇を当て、そして声を絞り出した。
「お前がいないと駄目なんだ」
消え入りそうなその声から、怒りがなくなっていた。
松岡は孤独なのかもしれない。いつも毅然としていても、本当は誰よりも寂しいのかもしれない。手首を握っている松岡の手が震えている。振り払わなければと思うのに体が言うことを聞かない。流されたら負けだと分かっていても、この哀れな人を分かってやれるのは自分しかいないと自惚れたくなる。
握られた手首から、力が抜けた。
松岡の手がゆっくりシャツの中にすべり込んでくる。いよいよ肌に触れた。腹、腰、胸と這ってくる。躊躇いを残しながら手探りで体を弄られた。触れられることに違和感がなかった。嫌悪なんか以ての外だ。むしろこの瞬間を待ち侘びていたのだとすら思った。彼の手によって浸食されていると思うと気を失いそうだ。
呼吸が乱れていく。松岡の手が自身に辿り着くと、全身が一気に紅潮した。松岡の息遣いを間近で感じながら一番敏感な部分を愛でられては、もう冷静でいられない。
結局自分に負けた。一番避けるべき事態なのに、どこか喜びに似た安堵があることに気付くと嫌気が差した。美央の顔を思い出して理性を取り戻そうとしても、美央の顔がどうしても思い浮かばない。引き返せなくなったと悟った時、司は限界を超えた。
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土曜日は松岡と約束をしてある。
話があると連絡を取ろうとしたところに、向こうから誘われた。司は午前中に家の用事を済ませて午後から松岡の家へ向かうつもりだった。松岡にもそう伝えてある。だが、出掛ける前にゴミを出そうとベランダに出たところ、アパートの前で松岡の車が停まっているのに気付いた。ゴミ出しをやめて、慌てて外に出た。司が出て行くと、松岡はすぐに気付いて車から降りた。
「先輩、いつからいたんですか」
「十分前くらいから。もう出られる?」
「はい」
松岡は助手席のドアを開けて、司を車内に促した。
「俺、昼から行くって言いましたよね」
「驚いたか?」
「いいんですけど、なんか悪いなって……」
最後まで言う前に、強引に抱き締められた。
「待ち切れなかった」
耳元でそう言われて、脱力してしまった。松岡の背中に腕を回そうとしたが、思い止まった。車内とはいえ、人通りのあるこの時間帯は、何が起きているか外から丸見えだ。司は松岡から離れた。松岡はすぐに対応して、万人に対する態度と同じ、自然な振る舞いに戻った。
「ずっと連絡できなくて悪かった。仕事が忙しかったのもあるけど、お前も就活で疲れてるだろうと思って控えてたんだ」
「そ、そうだったんですか……」
二人きりでも大丈夫だろうと思っていても、いざその状況になるとすぐ流されそうになった。二人だけの空間はまずい。何も言わなければ松岡の家に着いてしまうので、司は何かしら理由をつけて松岡を連れ回した。そのあいだに、どうやって話を切り出そうか考えた。
言い出せる機会は何度かあった。手に汗を握り、やっとの思いで口を開いても、松岡の顔を見ると口を閉ざしてしまった。まっすぐ司を見て穏やかに笑う松岡を見ると、心が痛んで切なくなる。どうにかしてこの関係を続けられたらとまで思った。
「今日は無口だな」
アイスコーヒーのグラスを持った松岡の手をぼんやり見つめているところに言われた。
「……そうですか?」
「いつも無口だけど、今日は特に。何かあったのか?」
「いえ……何も」
「悩み事でもあるのかと思った」
司は苦笑いをしながら「あんただよ」と心の中で投げかけた。今が一番、切り出すのに絶好の機会かもしれないと姿勢を正したが、「悩み事があれば、いつでも聞くよ」と言われてしまったので、思わず「ありがとうございます」と返した。結局何も言えないまま喫茶店を後にすることになり、司はこれ以上松岡を連れていく場所がなくなった。
「ほかに行きたいところはあるか?」
もう何も思い浮かばなかった。車の中では松岡が一人で喋り、司はそれを適当に相槌を打ちながら聞き流すだけだ。早く切り出さなくちゃと思っているのに、どうしても言い出せないのが苦しい。
松岡のアパートの前に着いてしまい、もうここで言うしかなかった。エンジンを切り、松岡はシートベルトを外して出ようとしたが、動かない司を怪訝に思い、降りるのを止めた。
「着いたぞ」
「……」
「笠原」
「あの……先輩」
「うん」
「その……」
「なんだよ」
「……いきなりなんですけど……」
「だから、なに」
「……もう会うの、やめませんか……」
「……なんで」
松岡の表情が凍ったのを、司は見逃さなかった。
「もう会わないほうがいいってことです。やっぱりこんな関係、いつまでも続けられないし」
「二度と?」
司は頷いた。
「縁を切るってことか」
「そうです」
少し沈黙が流れた。
「先輩と再会して、またこうやって一緒に出かけたり出来て、最初は嬉しかったんです。でも、彼女のことを考えると彼女にすごく申し訳なくて、でも先輩とは会いたい。どうにかして普通の先輩と後輩の関係に戻れないかと考えたけど、声を聞いたり、顔を見たら、やっぱり縁を切らないと無理だと思ったんです。進展がなくて、公にも出来なくて、一生続けられる関係じゃないでしょう」
「お前はそれで平気なのか」
「平気です」
「本当に」
「俺はこれからも彼女のことを大事にしたいんです。これ以上誤魔化したくないから……。それに、先輩の俺に対する気持ちは、俺と一緒じゃないと思います」
「一緒じゃないって、なに」
「先輩は俺の中に、亡くなった弟さんを見てるだけです」
「……」
「前からなんとなく引っかかってて、このあいだ淡路に行った時にそうだと思いました。弟さんと似てるんでしょう。だから色々面倒見てくれるんですよね」
「そんなこと、あるわけないだろう。俺のことをなんでお前が分かるんだよ」
「先輩は錯覚してるだけだ」
松岡の目はいよいよ本気になり、表情から戸惑いが消え、怒りに変わっていた。初めて見る顔だった。怖気づきそうになった。
「降りろよ」
「……え……」
松岡は車を降りて助手席に回ると、司の手首を掴んで強引に降ろした。引きずられるようにして部屋へ向かう。
「ちょっと、先輩!」
振り払おうとしても解放されるわけがなく、手首が鬱血するのではと思うほどだった。
部屋に入ってようやく解放された。手首がじんじんと痛むが、それよりも怒気を帯びた松岡の表情に困惑した。ここで負けたらまた同じことの繰り返しになる。司は松岡を通り過ぎて部屋を出ようとしたが、すれ違いざまに腕を掴まれ、そのまま抱きすくめられた。
「やめてくださいよ!」
抵抗しても敵わず、強くキスをされる。押しのけて玄関に向かおうとしても、すぐに捕えられてベッドに押し倒された。両手首をしっかり握られ、再び押しつけるようにキスをする。
「弟と思ってる奴に、こんなことするはずがないだろう」
「先輩は罪滅ぼしをしたいだけです。それを好きだと勘違いしてるだけです」
「だったら、お前はどうなんだ。彼女がいながら、男の俺を好きだと言ってるじゃないか」
「……違う、こんなの馬鹿げてる。俺も先輩も、男同士だという後ろめたさに舞い上がってるだけなんです」
「いいや、俺はお前のことが好きだから触れたいし、キスだってしたい。……それ以上のことも。お前も一緒のはずだ」
「それだけは駄目です。いい加減、目を覚ましましょうよ……!」
「頼むよ」
松岡はすがるように司の首筋に唇を当て、そして声を絞り出した。
「お前がいないと駄目なんだ」
消え入りそうなその声から、怒りがなくなっていた。
松岡は孤独なのかもしれない。いつも毅然としていても、本当は誰よりも寂しいのかもしれない。手首を握っている松岡の手が震えている。振り払わなければと思うのに体が言うことを聞かない。流されたら負けだと分かっていても、この哀れな人を分かってやれるのは自分しかいないと自惚れたくなる。
握られた手首から、力が抜けた。
松岡の手がゆっくりシャツの中にすべり込んでくる。いよいよ肌に触れた。腹、腰、胸と這ってくる。躊躇いを残しながら手探りで体を弄られた。触れられることに違和感がなかった。嫌悪なんか以ての外だ。むしろこの瞬間を待ち侘びていたのだとすら思った。彼の手によって浸食されていると思うと気を失いそうだ。
呼吸が乱れていく。松岡の手が自身に辿り着くと、全身が一気に紅潮した。松岡の息遣いを間近で感じながら一番敏感な部分を愛でられては、もう冷静でいられない。
結局自分に負けた。一番避けるべき事態なのに、どこか喜びに似た安堵があることに気付くと嫌気が差した。美央の顔を思い出して理性を取り戻そうとしても、美央の顔がどうしても思い浮かばない。引き返せなくなったと悟った時、司は限界を超えた。
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