Ⅳ-1
三月に入ると全体的に寒さが和らいだようだが、真冬のように寒い日や上着が不要なほど暖かい日の繰り返しだった。花も勘違いをするのか、三月の後半に薄着で十分なぐらいの日があり、まだ蕾の状態が多い希薄な存在だった桜の木は、その日に一気に開花させた。満開には遠いが、やはり自然に目がいくもので、近所の並木道や道路の植木に目をやる機会が増えた。満開になったら、花見に行こうと美央に誘われている。はりきって弁当を作ると言っていた。彼女のことだから司の好物ばかりを詰めてきてくれるのだろうと考えると、それだけで微笑ましくなった。
就職活動を一緒にするようになってから、彼女との距離も縮まったように思う。就職が決まったら、実家に美央を連れて行こうとも。今まで結婚なんて考えたこともなかったが、いずれするなら美央としたいし、彼女のそのつもりでいてくれるなら早く親に会わせたいと思うようになった。
一方、松岡は年末からずっと仕事が忙しいらしく、休日ですら疲れているのか連絡がない。
本当は淡路で「もう付き合うのはやめよう」と言うつもりだった。だが、あの時は松岡の弟の命日で、態度には出さないがとても情緒不安定のように見えたので、言い出せなかったのだ。松岡とはあの日以来、会っていない。
顔を見ることも声を聞くこともなくなると、次第に松岡のことを考える時間が減っていった。一刻も早く縁を切らなければと思っていたが、今ではその必要もないのではと考えている。このまま距離を置いて「普通の先輩と後輩」としての関係を続けるうちに、お互いに好きだという感情は愛情でなく友情のようなものだと気付くかもしれないと期待した。むしろ、そうならなくてはいけない。
春休みが終わるギリギリまで地元に帰っていた司は、神戸に戻る前日に祐太に誘われた。今回は美央がいないので、二人がよく行く焼き鳥屋で待ち合わせた。
「司、久しぶり!」
「久しぶり。また髪型変わってるな」
「あれ? ずっと黒髪だったけど」
「夏休みは金髪だったじゃないか」
「ああ、あのあとすぐ、黒に変えたんだ。就活あるしな。冬休みは会えなかったな」
「そういえば、そうだな」
二人はカウンターに並んで座り、司は梅酒、祐太はビールを注文する。さらに品書きを碌に見ずに祐太はさくさくと料理の注文も追加した。行き慣れている店とはいえ、この迷いのなさが見ていて気持ちいい。
「就活、どう? やってる?」
「うん。来週、こっちで面接あるんだ」
「うそ、どこ?」
「決まったら言うよ」
「なんだよ、もったいぶって。俺、書類選考で落ちてばっかだぜ。やっぱ、今になって大学って大事だなーと思うよ。受験勉強、真面目にすれば良かった。その点、司はいい大学で成績も優秀みたいだし?」
後半は、からかうようにチラリと司を見る。
「まあ、授業も真面目に受けてるからな、俺は」
「憎たらしい! 謙遜しろよ」
笑ったところで、梅酒とビールが出てきた。軽く乾杯をして、祐太は一気に半分呑んだ。口の周りに泡をつけて、それを少し舌で舐める。
「俺、彼女出来たのよ」
「え、うそ。どんな子?」
「友達の紹介で、T女子の子なんだけど」
「可愛いんだろ」
祐太は昔から面食いで、特に気が強い、派手なタイプが好みだった。祐太の歴代の彼女を思い返すと、彼のタイプは一発で分かる。今回も同じ系統を想像した。
「それがさ、地味なんだ。お前、たぶんビックリするぜ」
「写真ないの?」
祐太はポケットから携帯を出し、彼女の写真を司に見せた。確かに想像とはまったく違う、地味で素朴な女の子だ。決して美人とは言えないが、写真の彼女は満面の笑みで、可愛らしい顔をしている。
「でも、可愛いんじゃない」
「可愛く撮れてこれよ」
「何、不満なの」
「じゃなくてさ、不思議だよな。本当の好みと違うの好きになるって。俺、一番好きかも」
「後半はいつも言ってるぜ」
「いやいや、マジで。確かに美人ではないけど、すげーいい子なんだ。だから俺、こいつと結婚するよ」
あまりの唐突な告白に思わず梅酒を噴き出した。
「早くないか? いつから付き合ってんの」
「秋。でも、もうお互いの家に紹介してるし。就職して仕事に慣れたら結婚する」
珍しく真面目だ。酔ってはいないようだ。
「……そっか。結婚式には呼んでくれよ」
「司は?」
「何が」
「井下といつ結婚すんの?」
「そこまでいってないよ。漠然と結婚できたらいいなーと思ってるだけ」
「井下の親に会ったんだろ?」
「なんで知ってるの」
「昨日、駅で井下に偶然会ったんだ。ロッペリアでちょっと一緒に話したんだけど、その時聞いた」
「他になんて言ってた?」と聞きたいが、聞けなかった。しかし、祐太はそれを察したかのように話を続けた。
「井下には言わないでって言われたんだけど、井下はお前と早く結婚したいって」
「なんで?」
「好きだからだろ。就職決まって会えなくなったら不安だし、司は大丈夫って言ってるけど、心配なんだってよ。あんまり寂しい思いさせるなよ。ボヤボヤしてっと他の男にさっさと取られちゃうぞ。井下、美人なんだから」
「分かってるよ。ご忠告どうも」
注文した焼き鳥が次々と運ばれる。テーブルの網焼き機に置かれ、ジュウという音とともに香ばしい匂いに包まれる。猫舌の司は、いったん皿に置いて少し冷めるまで待つが、祐太は出来たてをハフハフと豪快に口に含む。肉を飲み込む前に更にビールを口に含み、一緒に飲み込む。そして幸せそうに「美味いな」と微笑むのだ。司は肉を一切れづつ、歯で串から抜いていく。美央と焼き鳥を食べに行ったことはないが、きっと美央なら箸で串から肉を落としたあと食べるのだろう、とふと思った。
松岡はどうだろう、とも考えた。松岡が焼き鳥を食べる姿を想像するより、いつも食事の前にタオルで拭く手を思い出した。長くて骨ばった、あの綺麗な手をありありと思い出せる。その手で司の頬に触れる。その感触まで鮮明だ。忘れているつもりでも、やはりふとした瞬間によぎっては、心臓が苦しくなる。もう食べている焼き鳥の味など分からない。これで普通の先輩と後輩の関係に戻れるわけがなかった。
店を出て、酔い覚ましに港に行った。夜はやはり寒い。昼間は比較的暖かかったので薄着で出てきたのが間違っていた。酒の効果で顔は風が当たって涼しいが、体は震えていた。祐太はなんともないようで、むしろ「涼しくて気持ちいい」と上着を片手に抱えていた。
夜の海より怖いものはないと司は思う。昼間はあんなに明るく青いのに、夜になると全てが黒く、何も見えなくなる。波があっても、昼間なら癒されるのに、夜になるとそれに巻き込まれでもしたら命はないのだろうと、そういうことばかり考えた。そんな司の隣で、祐太はとりとめのない話を揚々と喋り続ける。司は半分聞き流しながら適度に返していた。
「そういえば、神戸で松岡先輩に会ってるんだろ」
それまでと変わらない調子で思いがけない質問をされ、つい立ち止まった。目を見開いて驚いている司を、祐太はまるで不審に感じていない。
「井下が、松岡先輩と偶然会った話をしてて、司がしょっちゅう先輩と会ってるってのも言ってたから。本当、仲良いんだな」
「あ、ああ……。お互い神戸にいるって知って、暇な時に誘われるんだ」
「そうなんだ。でもさ、井下ともちゃんと会えよ?」
「会ってるよ。っていうか、大学でもしょっちゅう会うし」
「そうじゃなくて、デートしろってこと」
「してるけど……なんか、さっきからやたら美央の心配するんだな」
「そりゃー、友達だもん。いい子だと思うよ。そんな子が親友と上手くいって、結婚できたらどんなにいいだろうって思うよ。俺はな、井下よりお前の心配してるんだよ。お前、しっかりしてるようで、強いわけじゃないと思うんだ。せっかくいい彼女がいるんだから、彼女を頼れよ。女って、男から頼られると意外に喜ぶもんなんだぜ」
「……そうか」
「俺が司の近くにいてやれたらなぁ」
独り言のように言って、背伸びをしながら歩いて行った。最後の言葉の意味がよく分からなかった。相変わらず不思議な友人だった。
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就職活動を一緒にするようになってから、彼女との距離も縮まったように思う。就職が決まったら、実家に美央を連れて行こうとも。今まで結婚なんて考えたこともなかったが、いずれするなら美央としたいし、彼女のそのつもりでいてくれるなら早く親に会わせたいと思うようになった。
一方、松岡は年末からずっと仕事が忙しいらしく、休日ですら疲れているのか連絡がない。
本当は淡路で「もう付き合うのはやめよう」と言うつもりだった。だが、あの時は松岡の弟の命日で、態度には出さないがとても情緒不安定のように見えたので、言い出せなかったのだ。松岡とはあの日以来、会っていない。
顔を見ることも声を聞くこともなくなると、次第に松岡のことを考える時間が減っていった。一刻も早く縁を切らなければと思っていたが、今ではその必要もないのではと考えている。このまま距離を置いて「普通の先輩と後輩」としての関係を続けるうちに、お互いに好きだという感情は愛情でなく友情のようなものだと気付くかもしれないと期待した。むしろ、そうならなくてはいけない。
春休みが終わるギリギリまで地元に帰っていた司は、神戸に戻る前日に祐太に誘われた。今回は美央がいないので、二人がよく行く焼き鳥屋で待ち合わせた。
「司、久しぶり!」
「久しぶり。また髪型変わってるな」
「あれ? ずっと黒髪だったけど」
「夏休みは金髪だったじゃないか」
「ああ、あのあとすぐ、黒に変えたんだ。就活あるしな。冬休みは会えなかったな」
「そういえば、そうだな」
二人はカウンターに並んで座り、司は梅酒、祐太はビールを注文する。さらに品書きを碌に見ずに祐太はさくさくと料理の注文も追加した。行き慣れている店とはいえ、この迷いのなさが見ていて気持ちいい。
「就活、どう? やってる?」
「うん。来週、こっちで面接あるんだ」
「うそ、どこ?」
「決まったら言うよ」
「なんだよ、もったいぶって。俺、書類選考で落ちてばっかだぜ。やっぱ、今になって大学って大事だなーと思うよ。受験勉強、真面目にすれば良かった。その点、司はいい大学で成績も優秀みたいだし?」
後半は、からかうようにチラリと司を見る。
「まあ、授業も真面目に受けてるからな、俺は」
「憎たらしい! 謙遜しろよ」
笑ったところで、梅酒とビールが出てきた。軽く乾杯をして、祐太は一気に半分呑んだ。口の周りに泡をつけて、それを少し舌で舐める。
「俺、彼女出来たのよ」
「え、うそ。どんな子?」
「友達の紹介で、T女子の子なんだけど」
「可愛いんだろ」
祐太は昔から面食いで、特に気が強い、派手なタイプが好みだった。祐太の歴代の彼女を思い返すと、彼のタイプは一発で分かる。今回も同じ系統を想像した。
「それがさ、地味なんだ。お前、たぶんビックリするぜ」
「写真ないの?」
祐太はポケットから携帯を出し、彼女の写真を司に見せた。確かに想像とはまったく違う、地味で素朴な女の子だ。決して美人とは言えないが、写真の彼女は満面の笑みで、可愛らしい顔をしている。
「でも、可愛いんじゃない」
「可愛く撮れてこれよ」
「何、不満なの」
「じゃなくてさ、不思議だよな。本当の好みと違うの好きになるって。俺、一番好きかも」
「後半はいつも言ってるぜ」
「いやいや、マジで。確かに美人ではないけど、すげーいい子なんだ。だから俺、こいつと結婚するよ」
あまりの唐突な告白に思わず梅酒を噴き出した。
「早くないか? いつから付き合ってんの」
「秋。でも、もうお互いの家に紹介してるし。就職して仕事に慣れたら結婚する」
珍しく真面目だ。酔ってはいないようだ。
「……そっか。結婚式には呼んでくれよ」
「司は?」
「何が」
「井下といつ結婚すんの?」
「そこまでいってないよ。漠然と結婚できたらいいなーと思ってるだけ」
「井下の親に会ったんだろ?」
「なんで知ってるの」
「昨日、駅で井下に偶然会ったんだ。ロッペリアでちょっと一緒に話したんだけど、その時聞いた」
「他になんて言ってた?」と聞きたいが、聞けなかった。しかし、祐太はそれを察したかのように話を続けた。
「井下には言わないでって言われたんだけど、井下はお前と早く結婚したいって」
「なんで?」
「好きだからだろ。就職決まって会えなくなったら不安だし、司は大丈夫って言ってるけど、心配なんだってよ。あんまり寂しい思いさせるなよ。ボヤボヤしてっと他の男にさっさと取られちゃうぞ。井下、美人なんだから」
「分かってるよ。ご忠告どうも」
注文した焼き鳥が次々と運ばれる。テーブルの網焼き機に置かれ、ジュウという音とともに香ばしい匂いに包まれる。猫舌の司は、いったん皿に置いて少し冷めるまで待つが、祐太は出来たてをハフハフと豪快に口に含む。肉を飲み込む前に更にビールを口に含み、一緒に飲み込む。そして幸せそうに「美味いな」と微笑むのだ。司は肉を一切れづつ、歯で串から抜いていく。美央と焼き鳥を食べに行ったことはないが、きっと美央なら箸で串から肉を落としたあと食べるのだろう、とふと思った。
松岡はどうだろう、とも考えた。松岡が焼き鳥を食べる姿を想像するより、いつも食事の前にタオルで拭く手を思い出した。長くて骨ばった、あの綺麗な手をありありと思い出せる。その手で司の頬に触れる。その感触まで鮮明だ。忘れているつもりでも、やはりふとした瞬間によぎっては、心臓が苦しくなる。もう食べている焼き鳥の味など分からない。これで普通の先輩と後輩の関係に戻れるわけがなかった。
店を出て、酔い覚ましに港に行った。夜はやはり寒い。昼間は比較的暖かかったので薄着で出てきたのが間違っていた。酒の効果で顔は風が当たって涼しいが、体は震えていた。祐太はなんともないようで、むしろ「涼しくて気持ちいい」と上着を片手に抱えていた。
夜の海より怖いものはないと司は思う。昼間はあんなに明るく青いのに、夜になると全てが黒く、何も見えなくなる。波があっても、昼間なら癒されるのに、夜になるとそれに巻き込まれでもしたら命はないのだろうと、そういうことばかり考えた。そんな司の隣で、祐太はとりとめのない話を揚々と喋り続ける。司は半分聞き流しながら適度に返していた。
「そういえば、神戸で松岡先輩に会ってるんだろ」
それまでと変わらない調子で思いがけない質問をされ、つい立ち止まった。目を見開いて驚いている司を、祐太はまるで不審に感じていない。
「井下が、松岡先輩と偶然会った話をしてて、司がしょっちゅう先輩と会ってるってのも言ってたから。本当、仲良いんだな」
「あ、ああ……。お互い神戸にいるって知って、暇な時に誘われるんだ」
「そうなんだ。でもさ、井下ともちゃんと会えよ?」
「会ってるよ。っていうか、大学でもしょっちゅう会うし」
「そうじゃなくて、デートしろってこと」
「してるけど……なんか、さっきからやたら美央の心配するんだな」
「そりゃー、友達だもん。いい子だと思うよ。そんな子が親友と上手くいって、結婚できたらどんなにいいだろうって思うよ。俺はな、井下よりお前の心配してるんだよ。お前、しっかりしてるようで、強いわけじゃないと思うんだ。せっかくいい彼女がいるんだから、彼女を頼れよ。女って、男から頼られると意外に喜ぶもんなんだぜ」
「……そうか」
「俺が司の近くにいてやれたらなぁ」
独り言のように言って、背伸びをしながら歩いて行った。最後の言葉の意味がよく分からなかった。相変わらず不思議な友人だった。
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