Ⅲ—3
約束をしていた日曜日、司は高速バスで地元に帰り、市バスを乗り継いで美央の家に向かった。美央は前日から実家に帰っている。美央の家には高校生の頃、一、二回行ったことがあるくらいだ。しかも家族が留守の時だったので、美央の祖母や妹は勿論、両親にも会ったことがない。
家までの道は覚えている。司は直前まで友達の家に行く程度の軽い気持ちでいたのだが、いざ家の前まで来ると途端に緊張した。インターホンを鳴らす前に、美央に電話を掛けた。
『もしもしー?』
「俺。今、家の前なんだけど」
『じゃあ、インターホン鳴らしてよ』
インターホンを鳴らして電話を切った。暫くして出迎えたのは美央だ。
「いらっしゃい」
「みんないるの?」
「お父さん以外はね。お父さんもいなきゃって言ったんだけど、恥ずかしいみたいで、出掛けちゃった。ごめんね」
むしろ助かったと思った。「失礼します」と上がると、次に出てきたのが美央の母だった。初めて会ったが、いつもより小奇麗にしているのが分かる。美央と違って随分と小柄で、優しそうというより頼りなさそうな印象だった。「ようこそいらっしゃいました」と、まるで偉人でも来たかのように丁重に接客された。続いて居間でも待ち構えていた祖母が同じように挨拶をする。八十を過ぎたとは思えないほど整った身なりをしていた。きちんとブローされた白髪に、赤い口紅が若々しい。
お決まりの挨拶をするが、緊張して上手く自己紹介が出来なかった。手土産の焼き菓子を渡すタイミングも遅れた。
「おじいちゃんは?」
「庭で植木の手入れしてるんじゃないかしら。呼んで来てくれない?」
美央は母方の祖父母と二世帯で同居している。過去に来たことがあると言っても、美央の部屋しか知らない。おそらくここは祖父母の暮らす部屋なのだろう。綺麗に片づけられた広いリビングに、大きなソファ。促されてそこに腰を下ろし、紅茶とケーキが出される。自分はそんなに大それた客人なのかと思う。
祖母へのプレゼントにと、焼き菓子とは別に用意しておいた気持ち程度の花束を渡した。
「お誕生日と伺っていたので」
「まあ! 気を遣っていただいて、すみません。どうもありがとう」
笑うと目じりに皺が寄り、そこはやはり年寄りらしかった。
「美央とは高校の頃からの付き合いなんですって? 美央にお付き合いしてる男性がいるなんて知らなくて驚いたのよ。知っていたのは母親だけ。もっと早くに知らせてくれれば良かったのに」
「お母さんだって司に会うのは今日が初めてなのよ」
キッチンから母親が声を張った。
「この子、とてもお喋りだし、我儘でしょう。ご迷惑かけてないかしら」
「いえ、僕が喋らないので、たくさん話してくれると助かるんです。一緒にいて楽しいですよ」
既にケーキと紅茶が出されているのに、母親は「たくさん食べてね」と、フルーツの盛り合わせやらクッキーやらチョコレートやらを沢山入れた菓子器まで持ってくる。そんなに食べられない。
「就職活動してるんでしょ? 大変なの?」
「そうですね、今年は難しいみたいで」
「地元に帰ってくる予定はないの?」
「特に……業種で探してるので……」
「美央にはこっちに帰って来たらって言ってるんだけどね。やっぱりわたしとしては帰って来て欲しいし。でも司くんが地元に帰らないとしたら、美央も帰って来ないかもしれないわね」
祖母がすかさず言う。
「余所で就職が決まったら、一緒に住めばいいじゃない」
なぜそういう話になるのか理解し難い。美央は司の様子を見ながら、時々慌ててフォローを入れてくれた。話をしているうちに緊張はなくなったが、母親と祖母はやや暴走気味のように見えた。座って話しているだけなのに、なぜだかとても疲れる。
司の気疲れを感じ取ったのか、一時間もしないうちに美央に自室へ促された。
「お母さんとおばあちゃんが変な話してごめんね」
「別にいいよ。お母さんもおばあちゃんも、地元に帰って来て欲しいんだな」
「ああ……うん」
「こっちでも就活してるの?」
「……少しだけね」
あまり触れて欲しくなさそうだったので、司はそれについて何も聞かないことにした。
手洗いに行くと言って美央が部屋を出て、司は一人残された。勝手に部屋の中を見るわけにもいかず、ベッドに腰掛けてキョロキョロと見渡す。本棚の上に小さなぬいぐるみのセットが飾られている。高校の頃、学校帰りに寄ったゲームセンターのクレーンゲームで、美央がどうしても欲しいとねだるので司が苦労して落としたものだ。一回百円のはずが結局千円かかった気がする。日に焼けて少し変色しているが、未だに持っていてくれているのは素直に嬉しい。
ドアがノックされ、美央が戻ってきたのだと思ったら、入ってきたのは美央に似た、幼さの残る女の子だった。妹だろう。盆に冷茶を二つ載せている。
「お腹いっぱいだろうけど、母がどうしても持って行けって言うから」
「ありがとう」
司が盆を受け取ると、妹は立ち去るどころか部屋に入って来る。学習椅子に座り、司をしげしげと眺めた。美央とはあまり似ていないな、と思った時、出し抜けに聞かれた。
「お姉ちゃんのどこが好き?」
「すごい、いきなり」
「結婚するんでしょ?」
「話が見えないんだけど」
司は小さい子どもをあしらうように笑って言った。
「結婚前提で付き合ってるから、ウチに来たんじゃないの? てっきりそうだと思ってた。お母さんたちも、みんなそう思ってるよ」
「そう……なの?」
妹は、美央に持ってきたはずの冷茶を数口飲み、グラスを置くのと同時に「お姉ちゃんはね」と話しだす。
「笠原さんのこと、すごい好きだよ」
「なんで分かるの?」
「姉妹だもん。笠原さんの話たまに聞くけど、嬉しそうに話すのよ。すごく好きなんだよ。結婚したいの、お姉ちゃんはね」
「……」
「ああ見えて小心者だから、自分から結婚したいとか、ほのめかすようなことは言わないと思うの。だからわたしが言ってあげる。お姉ちゃんと付き合うなら結婚するつもりでいてね」
「え……はい」
妹は「脅迫しちゃったかな」と舌を出して笑った。
「でも最後に決めるのは笠原さんだから。ただ、いい加減な付き合いはしないでねって言いたいだけ。わたし、お姉ちゃん好きだからさ」
タイミングよく美央が戻ってきた。
「真央。なんでここにいるの」
「だって、さっきリビングでみんないた時、わたしだけいなかったんだもん。ちょっと見たいなーって」
「変なこと言ってないでしょうね」
「お姉ちゃんの気持ちを代弁しておいたよ」
「なにそれ」
「なんでも。笠原さん、またね!」
司は不自然な微笑しか返せなかった。
午後三時を回り、バスの時間を気にして家を出た。バス停までは美央が見送りに付いてくる。美央はいつも通り取り留めのない話をしているが、一方で司は妹に言われたことを気にしていた。長く付き合っていて、成人にもなると結婚の話が出てもおかしくはないし、それを意識して付き合うことは当然だ。美央がなぜ自分を実家に招いたのか、母親と祖母がなぜ就職を気にしていたのか、理由は妹が全て答えた。というよりも、本当は気付いていたが気付かないようにしていたのかもしれない。そういう話になったところで司は美央との付き合いをやめるわけではないが、決断を迫られると気が少し重い。それより松岡のことを思って心苦しくなった。
「わたしはあと一泊してから戻るから、また明後日だね」
「うん、また明後日」
バスに乗り、発車するまで少し時間がかかった。窓際の席だった司は、両手をこすりながらハーッと息を吐く彼女を見守った。機能性よりも見た目やデザインにこだわる美央は、冬でも薄着だ。短いスカートから伸びた白い足は寒さで桃色になり、長いマフラーを風になびかせている。バスが出ると、美央は司の姿が見えなくなるまで手を振った。
美央の無邪気な笑顔に胸が痛む。犯罪者のような気分だった。松岡が男であることに油断していたが、相手が男だろうが女だろうが、二心をもっていることに変わりはないのだ。
鼠色の雲が空を覆い、ところどころに青空が見える。かろうじて太陽の光が洩れていたが、やがて風に流された雲に完全に光が遮断され、薄暗い冬空になる。そのうちに雪が舞った。初雪だった。
⇒
家までの道は覚えている。司は直前まで友達の家に行く程度の軽い気持ちでいたのだが、いざ家の前まで来ると途端に緊張した。インターホンを鳴らす前に、美央に電話を掛けた。
『もしもしー?』
「俺。今、家の前なんだけど」
『じゃあ、インターホン鳴らしてよ』
インターホンを鳴らして電話を切った。暫くして出迎えたのは美央だ。
「いらっしゃい」
「みんないるの?」
「お父さん以外はね。お父さんもいなきゃって言ったんだけど、恥ずかしいみたいで、出掛けちゃった。ごめんね」
むしろ助かったと思った。「失礼します」と上がると、次に出てきたのが美央の母だった。初めて会ったが、いつもより小奇麗にしているのが分かる。美央と違って随分と小柄で、優しそうというより頼りなさそうな印象だった。「ようこそいらっしゃいました」と、まるで偉人でも来たかのように丁重に接客された。続いて居間でも待ち構えていた祖母が同じように挨拶をする。八十を過ぎたとは思えないほど整った身なりをしていた。きちんとブローされた白髪に、赤い口紅が若々しい。
お決まりの挨拶をするが、緊張して上手く自己紹介が出来なかった。手土産の焼き菓子を渡すタイミングも遅れた。
「おじいちゃんは?」
「庭で植木の手入れしてるんじゃないかしら。呼んで来てくれない?」
美央は母方の祖父母と二世帯で同居している。過去に来たことがあると言っても、美央の部屋しか知らない。おそらくここは祖父母の暮らす部屋なのだろう。綺麗に片づけられた広いリビングに、大きなソファ。促されてそこに腰を下ろし、紅茶とケーキが出される。自分はそんなに大それた客人なのかと思う。
祖母へのプレゼントにと、焼き菓子とは別に用意しておいた気持ち程度の花束を渡した。
「お誕生日と伺っていたので」
「まあ! 気を遣っていただいて、すみません。どうもありがとう」
笑うと目じりに皺が寄り、そこはやはり年寄りらしかった。
「美央とは高校の頃からの付き合いなんですって? 美央にお付き合いしてる男性がいるなんて知らなくて驚いたのよ。知っていたのは母親だけ。もっと早くに知らせてくれれば良かったのに」
「お母さんだって司に会うのは今日が初めてなのよ」
キッチンから母親が声を張った。
「この子、とてもお喋りだし、我儘でしょう。ご迷惑かけてないかしら」
「いえ、僕が喋らないので、たくさん話してくれると助かるんです。一緒にいて楽しいですよ」
既にケーキと紅茶が出されているのに、母親は「たくさん食べてね」と、フルーツの盛り合わせやらクッキーやらチョコレートやらを沢山入れた菓子器まで持ってくる。そんなに食べられない。
「就職活動してるんでしょ? 大変なの?」
「そうですね、今年は難しいみたいで」
「地元に帰ってくる予定はないの?」
「特に……業種で探してるので……」
「美央にはこっちに帰って来たらって言ってるんだけどね。やっぱりわたしとしては帰って来て欲しいし。でも司くんが地元に帰らないとしたら、美央も帰って来ないかもしれないわね」
祖母がすかさず言う。
「余所で就職が決まったら、一緒に住めばいいじゃない」
なぜそういう話になるのか理解し難い。美央は司の様子を見ながら、時々慌ててフォローを入れてくれた。話をしているうちに緊張はなくなったが、母親と祖母はやや暴走気味のように見えた。座って話しているだけなのに、なぜだかとても疲れる。
司の気疲れを感じ取ったのか、一時間もしないうちに美央に自室へ促された。
「お母さんとおばあちゃんが変な話してごめんね」
「別にいいよ。お母さんもおばあちゃんも、地元に帰って来て欲しいんだな」
「ああ……うん」
「こっちでも就活してるの?」
「……少しだけね」
あまり触れて欲しくなさそうだったので、司はそれについて何も聞かないことにした。
手洗いに行くと言って美央が部屋を出て、司は一人残された。勝手に部屋の中を見るわけにもいかず、ベッドに腰掛けてキョロキョロと見渡す。本棚の上に小さなぬいぐるみのセットが飾られている。高校の頃、学校帰りに寄ったゲームセンターのクレーンゲームで、美央がどうしても欲しいとねだるので司が苦労して落としたものだ。一回百円のはずが結局千円かかった気がする。日に焼けて少し変色しているが、未だに持っていてくれているのは素直に嬉しい。
ドアがノックされ、美央が戻ってきたのだと思ったら、入ってきたのは美央に似た、幼さの残る女の子だった。妹だろう。盆に冷茶を二つ載せている。
「お腹いっぱいだろうけど、母がどうしても持って行けって言うから」
「ありがとう」
司が盆を受け取ると、妹は立ち去るどころか部屋に入って来る。学習椅子に座り、司をしげしげと眺めた。美央とはあまり似ていないな、と思った時、出し抜けに聞かれた。
「お姉ちゃんのどこが好き?」
「すごい、いきなり」
「結婚するんでしょ?」
「話が見えないんだけど」
司は小さい子どもをあしらうように笑って言った。
「結婚前提で付き合ってるから、ウチに来たんじゃないの? てっきりそうだと思ってた。お母さんたちも、みんなそう思ってるよ」
「そう……なの?」
妹は、美央に持ってきたはずの冷茶を数口飲み、グラスを置くのと同時に「お姉ちゃんはね」と話しだす。
「笠原さんのこと、すごい好きだよ」
「なんで分かるの?」
「姉妹だもん。笠原さんの話たまに聞くけど、嬉しそうに話すのよ。すごく好きなんだよ。結婚したいの、お姉ちゃんはね」
「……」
「ああ見えて小心者だから、自分から結婚したいとか、ほのめかすようなことは言わないと思うの。だからわたしが言ってあげる。お姉ちゃんと付き合うなら結婚するつもりでいてね」
「え……はい」
妹は「脅迫しちゃったかな」と舌を出して笑った。
「でも最後に決めるのは笠原さんだから。ただ、いい加減な付き合いはしないでねって言いたいだけ。わたし、お姉ちゃん好きだからさ」
タイミングよく美央が戻ってきた。
「真央。なんでここにいるの」
「だって、さっきリビングでみんないた時、わたしだけいなかったんだもん。ちょっと見たいなーって」
「変なこと言ってないでしょうね」
「お姉ちゃんの気持ちを代弁しておいたよ」
「なにそれ」
「なんでも。笠原さん、またね!」
司は不自然な微笑しか返せなかった。
午後三時を回り、バスの時間を気にして家を出た。バス停までは美央が見送りに付いてくる。美央はいつも通り取り留めのない話をしているが、一方で司は妹に言われたことを気にしていた。長く付き合っていて、成人にもなると結婚の話が出てもおかしくはないし、それを意識して付き合うことは当然だ。美央がなぜ自分を実家に招いたのか、母親と祖母がなぜ就職を気にしていたのか、理由は妹が全て答えた。というよりも、本当は気付いていたが気付かないようにしていたのかもしれない。そういう話になったところで司は美央との付き合いをやめるわけではないが、決断を迫られると気が少し重い。それより松岡のことを思って心苦しくなった。
「わたしはあと一泊してから戻るから、また明後日だね」
「うん、また明後日」
バスに乗り、発車するまで少し時間がかかった。窓際の席だった司は、両手をこすりながらハーッと息を吐く彼女を見守った。機能性よりも見た目やデザインにこだわる美央は、冬でも薄着だ。短いスカートから伸びた白い足は寒さで桃色になり、長いマフラーを風になびかせている。バスが出ると、美央は司の姿が見えなくなるまで手を振った。
美央の無邪気な笑顔に胸が痛む。犯罪者のような気分だった。松岡が男であることに油断していたが、相手が男だろうが女だろうが、二心をもっていることに変わりはないのだ。
鼠色の雲が空を覆い、ところどころに青空が見える。かろうじて太陽の光が洩れていたが、やがて風に流された雲に完全に光が遮断され、薄暗い冬空になる。そのうちに雪が舞った。初雪だった。
⇒
スポンサーサイト