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Ⅲ—2

 ***

 その週の水曜日は企業の説明会で大阪に行くため、授業を一日休んだ。そのことを松岡に伝えると、帰りに待ち合わせて食事に行こうと誘われた。
 説明会は午後一時から四時までの予定だったが、説明会が終わったあとにエントリーシートを書かされて一次面接が予告なしに行われた。なんの準備もできていなかったので、案の定その場で落とされた。
 松岡とは三宮駅で五時半の約束だ。すべて終わって時計を見ると、六時を回っていた。

「もしもし、先輩」

『どうしたんだ』

「すみません、説明会でいきなり面接があって、今終わったんです。今から電車に乗るんですけど、一番早いので二十分後の普通列車なんです。三宮に着くまでかなり時間がかかりそうだから、食事はまた今度でもいいですか。すみません」

『着くまで、どこかで時間を潰せるけど』

「先輩も明日仕事だし、なんだか悪いから……」

『……そうか、分かった。じゃあ、気をつけて帰れよ』

 自分で断わっておきながら、せっかく約束したのに、と残念に思いながら電話を切り、くわえて今日の散々な説明会に肩を落としながらの帰宅となった。
 陽が落ちると風がより冷たくなり、吐く息にも白く色が付き始めた。松岡と電話を切ってから、およそ一時間後に最寄りの駅に着いた。もともと大きな駅ではないので、司と同時に電車を下りた人も少なく、駅を出るとほとんど人気はない。そのわりに駅前はやたら広く、ポツポツと並んでいる街頭が虚しく点灯していた。こういう時に限って音楽を聴くためのイヤホンを忘れる。寒さに歯を噛みしめ、ポケットに入れた左手の拳を握りしめ、風が吹くと小刻みに震えた。暗い夜道を歩くのは司だけで、自分の足音だけが響いた。
 アパートの前に着き、入口の前で人影を見た。暗い色の服を着ているので、夜の闇に紛れてよく見えなかった。人影は、司に気付くと歯を見せて笑い、手を軽く上げる。松岡だった。

「……先輩、どうしたんですか」

「やっぱり、一人で家に帰るのはどうもつまらなくてね。待ってたんだ」

「いつから?」

「電話を切って、暫くしてから」

「……あ、俺、自分の分の弁当しか持ってないです」

「そう思って、買ってきた」

 松岡はコンビニの弁当が入ったビニール袋を見せた。持っていた手は冷えて、赤くなっているのに気付いた。

「すみません、寒いのに。入ってください」

 そう言って少し近寄ったところを、松岡はなんの躊躇いもなく司を抱き寄せた。以前、駅のホームでキスをされた時もそうだったが、松岡は人目をあまり気にしない。気にしているかもしれないが、それを感じさせないほど行動がよどみない。その柔軟さに戸惑いながらも、そこが惹かれる要因でもある。

「……冷たいな」

 松岡は体を離し、何もなかったかのように「入れてくれよ」とロビーに向かった。司はいつも、少しだけ取り残される。

 リクルートスーツから部屋着に着替えた司は、松岡がスーツのままでいるのが気になって何か着られるものはないかと探した。
松岡は司より身長がある。なるべく大きめの服を探したが、冬服はあまり持っていない。暖房が効いているので半袖でいいと言われ、丁度、この夏に買ったTシャツでほとんど着ていないものがあったので、それを貸した。デザインが好きで買ったものの、司には予想外に大きかったので、着たくても着られずにいたものだ。
 Tシャツはまるで司が松岡のために買ったかのように似合っていた。悔しさよりも胸が高鳴った。一瞬、見惚れていたところに目が合い、司は慌てて視線を変えた。まともに目を合わすのはやっぱり気恥ずかしい。
 くつろいでいたところに松岡はおもむろに鞄を手に取って司に本を二冊渡した。就職活動用の参考書である。

「俺が読んでた本。前に言ってただろう。役に立つかは分からないけど、やるよ」

「ありがとうございます」

 本の角はよれて色が変わり、問題集には松岡が書き入れた解答がチラホラとあった。少し右肩あがりの斜め字で、そういえばこんな字を書く人だったなと懐かしく思った。

「今日、面接があったんだって?」

「ああ、いきなりだったから、びっくりして。自分が何を答えたか覚えてないくらいです」

「うちの銀行は受けないのか」

「え?」

「受けるなら、人事の同僚に言っておいてやるけど」

「いえ、いいです。もともと、そういうのは好きじゃない。自分の力だけで行きたいから。要領よく、色んな手を使うのもアリだと思うけど、なんとなく自分が納得出来ないから」

「損な性格だな」

「よく言われます」

 司が本を机の上に置くと、松岡はその手首をゆっくりと引き、キスをした。長くもなく、短くもなく、いつも体が正直になる前に唇を放す。今度は頬でも唇でもない微妙なところにキスをされる。そして最後に強く抱き締められた。ピッタリと松岡の胸に耳を押し当てられている。思ったよりも松岡の鼓動が激しく波打っていた。

 松岡はいつもそれ以上は何もしない。物足りないと思うことはある。自分から抱きついて押し倒してしまおうかと思う時もある。だが、拒否されたらと思うと怖気づくし、仮に先に進んだとしても「男の体」は未知すぎて拒むかもしれない。それは松岡にとっても同じかもしれなかった。
 暫く無言でそうしたのち、松岡は司を解放して、残っていた缶ビールを飲み干した。そして何事もなかったかのように問う。

「再来週の日曜日、空いてるか?」

「その日はちょっと用事があって……」

「何があるんだ?」

「……彼女の実家に呼ばれてて……」

 なんとなく言いにくかった。松岡もそれには反応が遅れた。

「……そうか」

 松岡は特にその話題に触れるでもなく、笑顔で交わす。こういうところも大人だと司は思った。仕事で揉まれた社会人の産物かもしれないが、司はこういう場合にすぐに切り替えが出来るかと言われれば自信がない。松岡のそこに助かっているが、逆に松岡が何を考えているのか、やはり分からない。

「煙草、吸わないんですか。昔は吸ってましたよね」

「大学を卒業してから止めた。ずっと同じ銘柄吸ってると飽きてね」

「マイルドセブン」

「よく覚えてるな」

「煙草は吸ったことはないけど、そんなに簡単に止められたんですか」

「俺はどうってことはなかった。ちょっと口寂しいときに間に合わせるくらいだから。ガムと一緒だ」

「……ふうん……」

 松岡は司の頭を撫で、「お前は吸うなよ」と言った。

「どうしてですか」

「お前に煙草は似合わない」


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