Ⅲ—1
いつもは秋になると金木犀の香りが漂うのを楽しみにしていた司だが、今年はなぜか金木犀の香りに気付くことがなく十一月も後半を迎えた。もう汗ばむこともなく、上着がないと寒い。だがコートを着るほどでもなく、日によっては薄いジャケットで間に合う暖かい日もある。妙な天候ながらも、頬に当たる風は日に日に冷たくなり、確実に冬に向かっていた。
このところ美央は部活や授業の課題に追われ、休日は休日で先送りにしていた友達との予定が詰まっているらしい。大学でも外でも会えない日が続いた。時々授業中に美央から暇つぶしのメールが入る。ちょっとした近況報告はメールで、夜は必ず電話で話をする。毎日声は聞いていると言っても、実際に会わないと物足りなく思った。もし就職後に遠距離になったら、こういうことなのかと実感する。
そうなると自然に松岡との時間が増えた。ここ最近は毎週のように会っている。車でどこかに出かける日もあれば、何もすることがなくて家で過ごす日もある。本を読んだりDVDを観て他愛のない会話をするだけだ。時々手が触れたり、戯れのようなキスをする。子どもっぽい付き合いだ。手放しで喜べない関係なのは承知している。美央のことを考えると複雑な気持ちにもなる。それでも絶対に成就するはずがないと思っていた片思いが六年越しに実現したことに、嬉しさを噛みしめないわけにはいかなかった。
———
予定していた部活がなくなったからと、大学の帰りに美央が久しぶりに司の家を訪ねてきた。よほど嬉しいのか、美央は部屋に入るなり飛びついてきたが、司はそれを大袈裟に返さずに受け止めた。勿論、そんな彼女を可愛いとは思っている。自分があまりそういったスキンシップをするたちではないだけだ。
司は冷蔵庫からペットボトルの紅茶をコップに注ぎ、ローテーブルの前に腰を下ろした美央に差し出した。美央はコップを両手で包むように持ち、暫く飲まずに紅茶を覗きこむように見つめていた。
「暫く会ってないあいだ、司は寂しくなかったみたいね」
「どうしてそう思うの」
「久しぶりに二人で会ってるのに、あんまり嬉しそうじゃないわ」
「そんなわけないだろ」
テンション高めに現れたくせに、いきなり機嫌を損ねている。早々に不満があったらしい。美央はむくれたまま続けた。
「今更だけど、司って本当に喋らないよね」
「本当に今更だな、それ」
「電話でもメールでもそうだけど、必要最低限っていうか。わたしはどうでもいい話でも喋るけど、司はそういうのないよね」
「そもそも、男ってそういうもんだと思うけど」
「司は特にだわ。今日だって、わたしばっかり浮かれちゃってさ」
美央は人間関係での嫉妬や束縛をするようなことはしないのだが、司が必要以上に話をしないことや、感情表現の幅が狭いことに怒ることがままある。司は意識して黙っているわけじゃなく、もともと寡黙なせいか喜怒哀楽を言葉で表現するのが下手なだけだ。美央が喋り好きなぶん、余計に彼女に甘えている部分もあるかもしれない。美央の機嫌がいきなり斜めになったのは、会った瞬間の司の対応がまずかったからだと気付いた。もう少しオーバーに喜ぶべきだった。
「ごめん、いつも反応が薄くて。俺がこういう性格なのはもう知ってるからと思って甘えてた。俺だって会えないのは寂しかったし、来てくれて嬉しいと思ってるよ」
「ほんと?」
「それに、喋りたくないわけじゃないんだよ。俺は話すより、聞くほうがいいな。美央の話」
「わたしだって無限に話すわけじゃないわ」
「だからさ……美央が一息ついたところで話そうと思っても、そういう風に怒られたんじゃ、話すにも話せないだろ」
「……そっか」
「OK?」
「あ、そうだ。先週の日曜日、大阪に行ったんでしょ? 何しに行ったの?」
美央は一変して、無邪気な笑顔を向ける。同時に、司はその質問にぐっと飲み込んだ。
「舞台を見に行ってたんだ。今、CMでやってるやつ」
「司って、舞台とか好きだったっけ? 初めて聞いたわ」
「先輩の知り合いがチケットと席取ってくれたからって、誘われたんだ」
「先輩って松岡さん?」
「………そう」
「松岡さんと本当に仲が良いのね。その前の週も会ってなかった?」
「……昔も仲良かったし……ね」
「ふーん、舞台、面白かった?」
「面白かったよ。席が良かったから、迫力もあって」
「いいなぁ、今度、わたしも連れて行ってよ。次に面白いのあったらさ。……それと」
美央はひと呼吸置いて、唇をきゅっと噛みしめたあと、お願いをするように言った。
「再来週の日曜日、覚えてる?」
「美央のおばあちゃんの誕生日だろ。美央の実家に行くってやつ。覚えてるよ」
「みんな楽しみにしてるの。妹なんか特に」
「妹? なんで」
「珍しいんじゃない。今、高校生なんだけどね。口達者で馴れ馴れしいから、気をつけてね」
「美央とそっくりなんだな」
「どういう意味よ」
「別に」
司は口元に笑いを含める。美央は約束の確認ができて安心したのか、満足そうに司の肩に寄り掛かった。
司の美央に対する気持ちは依然として変わりはないが、一緒にいながら心のどこかでふと松岡のことを考える。美央に話したことは全部嘘ではないけれど、やましい気持ちがあるだけに、やはり心のどこかで罪悪感を覚えるのだった。
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このところ美央は部活や授業の課題に追われ、休日は休日で先送りにしていた友達との予定が詰まっているらしい。大学でも外でも会えない日が続いた。時々授業中に美央から暇つぶしのメールが入る。ちょっとした近況報告はメールで、夜は必ず電話で話をする。毎日声は聞いていると言っても、実際に会わないと物足りなく思った。もし就職後に遠距離になったら、こういうことなのかと実感する。
そうなると自然に松岡との時間が増えた。ここ最近は毎週のように会っている。車でどこかに出かける日もあれば、何もすることがなくて家で過ごす日もある。本を読んだりDVDを観て他愛のない会話をするだけだ。時々手が触れたり、戯れのようなキスをする。子どもっぽい付き合いだ。手放しで喜べない関係なのは承知している。美央のことを考えると複雑な気持ちにもなる。それでも絶対に成就するはずがないと思っていた片思いが六年越しに実現したことに、嬉しさを噛みしめないわけにはいかなかった。
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予定していた部活がなくなったからと、大学の帰りに美央が久しぶりに司の家を訪ねてきた。よほど嬉しいのか、美央は部屋に入るなり飛びついてきたが、司はそれを大袈裟に返さずに受け止めた。勿論、そんな彼女を可愛いとは思っている。自分があまりそういったスキンシップをするたちではないだけだ。
司は冷蔵庫からペットボトルの紅茶をコップに注ぎ、ローテーブルの前に腰を下ろした美央に差し出した。美央はコップを両手で包むように持ち、暫く飲まずに紅茶を覗きこむように見つめていた。
「暫く会ってないあいだ、司は寂しくなかったみたいね」
「どうしてそう思うの」
「久しぶりに二人で会ってるのに、あんまり嬉しそうじゃないわ」
「そんなわけないだろ」
テンション高めに現れたくせに、いきなり機嫌を損ねている。早々に不満があったらしい。美央はむくれたまま続けた。
「今更だけど、司って本当に喋らないよね」
「本当に今更だな、それ」
「電話でもメールでもそうだけど、必要最低限っていうか。わたしはどうでもいい話でも喋るけど、司はそういうのないよね」
「そもそも、男ってそういうもんだと思うけど」
「司は特にだわ。今日だって、わたしばっかり浮かれちゃってさ」
美央は人間関係での嫉妬や束縛をするようなことはしないのだが、司が必要以上に話をしないことや、感情表現の幅が狭いことに怒ることがままある。司は意識して黙っているわけじゃなく、もともと寡黙なせいか喜怒哀楽を言葉で表現するのが下手なだけだ。美央が喋り好きなぶん、余計に彼女に甘えている部分もあるかもしれない。美央の機嫌がいきなり斜めになったのは、会った瞬間の司の対応がまずかったからだと気付いた。もう少しオーバーに喜ぶべきだった。
「ごめん、いつも反応が薄くて。俺がこういう性格なのはもう知ってるからと思って甘えてた。俺だって会えないのは寂しかったし、来てくれて嬉しいと思ってるよ」
「ほんと?」
「それに、喋りたくないわけじゃないんだよ。俺は話すより、聞くほうがいいな。美央の話」
「わたしだって無限に話すわけじゃないわ」
「だからさ……美央が一息ついたところで話そうと思っても、そういう風に怒られたんじゃ、話すにも話せないだろ」
「……そっか」
「OK?」
「あ、そうだ。先週の日曜日、大阪に行ったんでしょ? 何しに行ったの?」
美央は一変して、無邪気な笑顔を向ける。同時に、司はその質問にぐっと飲み込んだ。
「舞台を見に行ってたんだ。今、CMでやってるやつ」
「司って、舞台とか好きだったっけ? 初めて聞いたわ」
「先輩の知り合いがチケットと席取ってくれたからって、誘われたんだ」
「先輩って松岡さん?」
「………そう」
「松岡さんと本当に仲が良いのね。その前の週も会ってなかった?」
「……昔も仲良かったし……ね」
「ふーん、舞台、面白かった?」
「面白かったよ。席が良かったから、迫力もあって」
「いいなぁ、今度、わたしも連れて行ってよ。次に面白いのあったらさ。……それと」
美央はひと呼吸置いて、唇をきゅっと噛みしめたあと、お願いをするように言った。
「再来週の日曜日、覚えてる?」
「美央のおばあちゃんの誕生日だろ。美央の実家に行くってやつ。覚えてるよ」
「みんな楽しみにしてるの。妹なんか特に」
「妹? なんで」
「珍しいんじゃない。今、高校生なんだけどね。口達者で馴れ馴れしいから、気をつけてね」
「美央とそっくりなんだな」
「どういう意味よ」
「別に」
司は口元に笑いを含める。美央は約束の確認ができて安心したのか、満足そうに司の肩に寄り掛かった。
司の美央に対する気持ちは依然として変わりはないが、一緒にいながら心のどこかでふと松岡のことを考える。美央に話したことは全部嘘ではないけれど、やましい気持ちがあるだけに、やはり心のどこかで罪悪感を覚えるのだった。
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