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Ⅰ-1

 彼女の美央からふいにされた過去の恋愛についての質問は、司にとって答えにくいものだった。
 美央とは高校三年の頃から付き合い始めて三年になる。彼女は司のプライベートには干渉しないし、嫉妬を剥き出しにすることもなく、それでいて司への愛情表現は忘れない、出来た彼女だった。過去の恋愛事情についてもこれまで一切聞かれたことがなく、興味がないのだろうと思っていたので「今までどんな人を好きになったの」と聞かれて驚いた。

 初恋は小学生の頃で、それ以降は全くないと答えた。美央は半信半疑だったが、付き合ったことがあるのは美央が初めてだと言ったら満足したようで、それ以上は追求されずに済んだ。

 初恋が小学生だったのは事実だが、本当はもう一人好きになった人がいる。
 むろん、特別な関係にあったわけではないし、ただの片思いで終わったものだ。言ったところで差支えはないだろうが、どんな人かと問われると面倒な相手だった。

 あれからもう何年経っただろう。忘れていたつもりだったのに、当時の記憶を鮮明に思い出すようになったのは、美央のその些細な質問がきっかけだった。


 ***

 大学三回生になると授業はほとんど入らないので、期末試験は楽に済んだ。
 地元を出て県外の同じ大学に通っている司と美央は、いつも長期休みに入ると一緒に帰省することになっている。ただ、司は経済学部に所属しているが、美央は教育学部に所属していて試験科目も試験日もバラバラだ。ラクロス部に入っている美央は、今回、試験が終わったらそのまま合宿に参加する予定になっている。司は地元で友人と会う約束もあったので、一足先に帰省することになった。 

 地元までは高速バスで三時間もあれば着く。午前中にバスに乗り、昼過ぎに地元のバス停に着いた。バスを降りると友人の祐太が迎えに来ていた。  

「久しぶりだな」

「悪いな、祐太。待っただろ」

「全然。さっき着いたとこなんだ。それに車で来てるから」

 祐太はそう言って、自慢げに車のキーをチャラチャラと指先で回してみせた。

「車買ったの?」

「いや、親父の」

 祐太は司の中学時代からの親友だ。高校も同じだったが、大学は別に行った。普段は連絡も滅多に取らないが、互いが地元に帰ってくる時は必ず会っている。
 助手席に乗り、ハンドルを握る祐太の横顔を見て、また雰囲気が変わったなと司は考えた。中学、高校と丸刈りだった祐太は、その反動か大学に入ると髪を伸ばし始めた。祐太は三年間のあいだでパーマを当てたり、髪を結ったり、ヘアスタイルを自由に楽しんでいる。今回はずっと黒かった髪を金色に染めており、長さも丁度いいくらいに落ち着いた。グリーンの一本線が入った白いポロシャツという爽やかな服装のせいでもあるのか、ここにきて急に垢抜けた気がした。
 一方、司は自分も一度くらいは髪を染めてみたいと思っているが、黒髪がいいと美央に念を押されてイメージチェンジの機会を逃している。

「井下は元気か?」

 美央のことを言っている。

「元気だよ。今回は合宿に行くらしいから、先に帰って来たんだ」

「しかし、高校三年からよくもってるよな。大学が同じだからってのもあるんだろうけど。そんなに長く付き合える相手がいて羨ましいよ」

「お前、春に会った時は彼女が出来たって言ってたじゃないか」

「もう別れたよ。俺よりいい大学の奴に取られちゃった」

 そのあと、ちゃっかり「いい子がいたら紹介してくれ」と付け足した。
 二人のいつもの行動パターンは、たいていボーリングやカラオケ、ゲームセンターで夜まで散々遊んだ後、居酒屋に行く。今回も同じようなパターンだろうと思っていたら、祐太が別のプランを提案した。

「中学行ってみねぇ?」

「いいけど、突然なんで」

「こないだ、たまたま同じ中学の後輩に会ったんだ。野球部の。そいつ、今でも中学のグラウンドに顔出してるらしいんだけど、今度少しでいいから来てくれないかって言われてさ。そんなに時間取らせないから、いいか?」

「いいよ」

 祐太の運転で母校に着くと、夏休みだというのに賑やかな校内だった。音楽室からの吹奏楽部の演奏や、グラウンドや体育館からの運動部の掛け声が校門まで届く。それぞれの部活動の活気が混ざり合う、この雰囲気がとても懐かしい。

「ごめんな、司。付き合わせて。今日しか行ける日がなくてよ」

「いいって」

 司は野球部とは縁がないが、とりあえず祐太に付いてグラウンドまで行った。直前まで「面倒だ」と洩らしていた祐太も、いざ顔を出すと楽しそうにはしゃいだ。後輩たちとの再会を喜ぶ祐太の姿が微笑ましく、またそういう場所があるのを羨ましくも思う。
 自分が傍にいることでかえって気を遣わせるかもしれないと思い、祐太に『体育館にいる』とメッセージを入れてその場を離れた。

 司は中学でバスケ部、高校ではテニス部だった。どちらももそこそこにこなしたが、成績はどれも中途半端で、バスケ部ではレギュラーになったりならなかったり、テニス部ではベスト16入りがいいところだった。青春を部活にかけるほどの情熱がなかったせいか、卒業してから一度も部に顔を出したことはない。

 体育館に行ったところで顔も名前も知らない後輩たちと会っても肩身がせまいだけだが、もし顧問が代わらずいるなら挨拶だけでも、という気持ちで体育館に向かった。

グラウンドから体育館までは近いようで遠い。校内を走っている運動部とすれ違っては、中学生はあんなに幼かったかと考えた。
 こうして歩いていると蓋をしたはずの記憶が溢れてくる。感情すら生々しく蘇ってしまう。目を閉じればはっきり浮かぶ「あの人」とすれ違いそうな気さえした。

 体育館に着き、ドアを開けようとしたら、中から先に誰かが開けた。出てきた人物は「失礼しました」と挨拶をして、こちらに振り返る。向かい合う形になり、謝るつもりで顔を上げたら、思いも寄らない人物がいた。

「……松岡先輩」

「笠原?」

 細身だが均整の取れた、スタイルのいい青年。平均身長の司が目線を上げるほどの長身だ。

「あ……お久しぶりです。こんなところで会うなんて偶然ですね」

「本当だな、びっくりしたよ。バスケ部見にきたのか?」

「はい」

「そうなんだ。俺もさっきまでいたんだ。顧問も変わってないから、会ってみるといい。喜ぶよ。なんなら、一緒に行くか?」

「え!? いや、結構です! 帰ります」

「なんで。せっかく来たんだろ」

「いや、友達の用事に付き合ってここに来ただけで、それが終わるまでの暇つぶしのつもりだったから、別にいいんです」

 タイミングよく、司のスマートフォンが鳴った。

「もう友達の用事が終わったみたいなんで、俺はもう帰ります。じゃあ、失礼します」

 身を翻して去ろうとすると、松岡は司の手首を掴んだ。

「お前、番号変えただろう」

「昔、海で携帯を落としたんです。データも全部なくなって。だから新しいのに変えたんです」

「もう一度、教えてよ」

「……小野田に聞いてください。すみません、急ぐんで」

 無理矢理に松岡の手をほどき、グラウンドまで全力で走った。ちょうど祐太が野球部をあとにするところだ。

「走ってくることなかったのに」

「いや、まあ……丁度いい運動だし……」

「変な奴だな。悪かったな、付き合わせて。今日の晩飯は俺がおごってやるよ」

「いいのに。……早く行こうぜ」

 動揺を祐太に気付かれていないか気になった。幸い、体育館と駐車場は反対方向だ。司は車に乗るまでのあいだ、どうか松岡と鉢合わせないよう祈った。
 まさかこんなところで会うとは思わなかった。せっかく想い出になりかけていたのに。それとも美央のあの質問は前触れだったのだろうか。

 車に乗り、祐太がエンジンをかけると司は目を瞑った。

「司、疲れた?」

「ちょっと眠いだけ。五分だけ寝かせてくれ」

 目を閉じると松岡の姿が浮かぶ。つり気味の目なのに表情は柔らかい。焦げ茶色の髪は陽に透けると眩しかった。
 罪悪感を抱きながらも、胸がざわついて熱くなる。それが少し落ち着いた頃、司は美央を思い出して彼女に済まなく思った。


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