すれ違いの恋 1
この大きな会社で、本社だけで何百という人数がいる中で、綺麗な女性社員もたくさんいるというのに、毎日あの人のことばかり見てしまうのは、幾度となく視線が合うから。そして視線が合う度に、あの人は優しく微笑みかけてくれる。
幸せ……。だけど、いまだ信じられない。
僕が男性を好きになるなんて。
***
僕が入社と同時に係長に昇任した高室良彦さんは、社内男性人気ナンバーワンだと聞いた。顔良し、頭良し、性格良し、スタイル良し、そして会社の中枢である財務本部の経理課で主体となってバリバリ働く頼もしい姿は、老若男女問わずに高い評価を得ている。同じく経理課に配属されて高室さんの近くで仕事をしている僕は、みんなとまったく同じ感想を抱き、いつか僕も高室さんのようになりたいと憧れたものだ。
――そんな人と恋人同士になれるなんて……。
「佐伯、鼻毛出てないか?」
毎朝トイレで高室さんと会うと、必ず身だしなみをチェックさせられる。と、いうのも、先日僕が高室さんに、鼻毛が出ているとかズボンのチャックが開いているとか生意気にも指摘してしまったからだ。やはりプライドを傷付けてしまったのだろう。最近の高室さんは鼻毛やチャックどころか、寝癖ひとつ付けてこない。完璧に決まっている高室さんはかっこいい。かっこいいけど……、
「こら、サエキング」
「あ、はい。すみません。大丈夫ですよ」
「今日は社長も入れて会議だからなぁ、眠くならないように栄養ドリンク飲んどくか」
「本決算終わったのに、忙しいんですね」
「本決算のせいで月次決算が遅れてたからな。まあ月次決算は屁みたいなもんだ」
「すごいなぁ」
「他人事みたいに言うな。来月からお前が東北地方の担当するんだからな」
「本当ですか!?」
「川田にしっかり引き継ぎしてもらえ」
「はいっ」
高室さんはキョロキョロと辺りを見渡し、誰もいないのをいいことにキスをした。不意うちのソフトキスだ。
「た、高室さん」
「ちょっとくらい、いいだろ」
最後にもう一度、額にキスして高室さんは先にトイレを出て行った。鏡の中の自分は耳まで真っ赤になっている。僕は誤魔化すように両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
――どうしよう。……好きすぎる。
―――
僕はもともと男が好きなわけじゃない。学生時代は彼女もいたし、デートは勿論、情事でもリードする側だった。綺麗な女性を見ると見惚れることだってある。本来はノーマルなのだ。そんな僕がどうして、同性の高室さんを好きになったのか。
入社してまだ二ヵ月くらいの時だ。いつも身なりを整えている高室さんが、時々寝癖を付けてくるようになった。その頃は本決算真っ只中で経理課は多忙を極めていた。高室さんをはじめ、全員が早朝から深夜まで昼食も碌に摂らずにデスクに張り付いていた。身なりを整える暇などなかっただろう。僕は寝癖を付けてくる高室さんを、「忙しいんだな」と他人事のように見ていただけだった。
ある日、鼻毛を出してきた。いや、出してきた、というのは語弊がある。出ているのに気付いていない。鏡を見る暇もないくらい忙しいのだろう。みんな気付いているのかいないのか、誰も高室さんに指摘しない。高室さんは鼻毛に気付かないまま昼休憩を迎え、手洗いから戻ってきたと思ったら今度はズボンのチャックを開けてきた。……開けてきた、というのは違う。開いているのに気付いていない。もはや服装を整える暇も惜しいくらい忙しいのだろう。僕はそんな彼に指摘していいのかいけないのか分からず、ちらちらと様子を伺うしかなかった。
そのうちに僕の視線に気付いた高室さんが、怪訝な顔つきでこっちを見てくるようになった。やはり怪しまれたのだ。帰り際に高室さんに不自然に声を掛けられた。
「佐伯は今日の飲み会行くのか?」
「はい。高室さんは?」
「行くよ」
「行けそうですか?」
「遅れると思うけど。山場は越したから、今日は早く帰るつもりだ」
「そうですか……」
凛々しい表情、きりっとした眉と目、筋のある高い鼻、そして鼻毛。目を落とすと開放的な下半身。僕は指摘するどころか笑いを堪えるのに必死だった。なんて失礼な部下なんだろう。僕は結局、最後まで何も言えなかった。
そのうち気付くだろう。誰かが言うだろう。そして、気付けば僕は今朝からずっと高室さんのことばかり考えていた。
いつもきちんとしてる人が寝癖を付けてたり、鼻毛を出してたり、チャックを開けてたり、そんなちょっとした失敗が、なんだかとても可愛く思えた。年上の男性に「可愛い」はおかしいかもしれないけれど、確かに僕はあの日高室さんに、愛しさのようなものを感じたのだ。
こんなの絶対におかしい。これはただ親近感のようなものであって、恋愛感情なはずがない。だいいち、僕も高室さんも男だ。それなのにまさか、
――ゲイじゃないけど佐伯が好きだ。――
そんなことを言ってもらえるなんて。たぶん今まで言われた「好き」の中で、一番嬉しかったと思う。できれば少しでも長く高室さんと一緒にいたい。
だけど、やっぱり思うんだ。高室さんは、そのうち僕に飽きるだろう……。
⇒
幸せ……。だけど、いまだ信じられない。
僕が男性を好きになるなんて。
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僕が入社と同時に係長に昇任した高室良彦さんは、社内男性人気ナンバーワンだと聞いた。顔良し、頭良し、性格良し、スタイル良し、そして会社の中枢である財務本部の経理課で主体となってバリバリ働く頼もしい姿は、老若男女問わずに高い評価を得ている。同じく経理課に配属されて高室さんの近くで仕事をしている僕は、みんなとまったく同じ感想を抱き、いつか僕も高室さんのようになりたいと憧れたものだ。
――そんな人と恋人同士になれるなんて……。
「佐伯、鼻毛出てないか?」
毎朝トイレで高室さんと会うと、必ず身だしなみをチェックさせられる。と、いうのも、先日僕が高室さんに、鼻毛が出ているとかズボンのチャックが開いているとか生意気にも指摘してしまったからだ。やはりプライドを傷付けてしまったのだろう。最近の高室さんは鼻毛やチャックどころか、寝癖ひとつ付けてこない。完璧に決まっている高室さんはかっこいい。かっこいいけど……、
「こら、サエキング」
「あ、はい。すみません。大丈夫ですよ」
「今日は社長も入れて会議だからなぁ、眠くならないように栄養ドリンク飲んどくか」
「本決算終わったのに、忙しいんですね」
「本決算のせいで月次決算が遅れてたからな。まあ月次決算は屁みたいなもんだ」
「すごいなぁ」
「他人事みたいに言うな。来月からお前が東北地方の担当するんだからな」
「本当ですか!?」
「川田にしっかり引き継ぎしてもらえ」
「はいっ」
高室さんはキョロキョロと辺りを見渡し、誰もいないのをいいことにキスをした。不意うちのソフトキスだ。
「た、高室さん」
「ちょっとくらい、いいだろ」
最後にもう一度、額にキスして高室さんは先にトイレを出て行った。鏡の中の自分は耳まで真っ赤になっている。僕は誤魔化すように両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
――どうしよう。……好きすぎる。
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僕はもともと男が好きなわけじゃない。学生時代は彼女もいたし、デートは勿論、情事でもリードする側だった。綺麗な女性を見ると見惚れることだってある。本来はノーマルなのだ。そんな僕がどうして、同性の高室さんを好きになったのか。
入社してまだ二ヵ月くらいの時だ。いつも身なりを整えている高室さんが、時々寝癖を付けてくるようになった。その頃は本決算真っ只中で経理課は多忙を極めていた。高室さんをはじめ、全員が早朝から深夜まで昼食も碌に摂らずにデスクに張り付いていた。身なりを整える暇などなかっただろう。僕は寝癖を付けてくる高室さんを、「忙しいんだな」と他人事のように見ていただけだった。
ある日、鼻毛を出してきた。いや、出してきた、というのは語弊がある。出ているのに気付いていない。鏡を見る暇もないくらい忙しいのだろう。みんな気付いているのかいないのか、誰も高室さんに指摘しない。高室さんは鼻毛に気付かないまま昼休憩を迎え、手洗いから戻ってきたと思ったら今度はズボンのチャックを開けてきた。……開けてきた、というのは違う。開いているのに気付いていない。もはや服装を整える暇も惜しいくらい忙しいのだろう。僕はそんな彼に指摘していいのかいけないのか分からず、ちらちらと様子を伺うしかなかった。
そのうちに僕の視線に気付いた高室さんが、怪訝な顔つきでこっちを見てくるようになった。やはり怪しまれたのだ。帰り際に高室さんに不自然に声を掛けられた。
「佐伯は今日の飲み会行くのか?」
「はい。高室さんは?」
「行くよ」
「行けそうですか?」
「遅れると思うけど。山場は越したから、今日は早く帰るつもりだ」
「そうですか……」
凛々しい表情、きりっとした眉と目、筋のある高い鼻、そして鼻毛。目を落とすと開放的な下半身。僕は指摘するどころか笑いを堪えるのに必死だった。なんて失礼な部下なんだろう。僕は結局、最後まで何も言えなかった。
そのうち気付くだろう。誰かが言うだろう。そして、気付けば僕は今朝からずっと高室さんのことばかり考えていた。
いつもきちんとしてる人が寝癖を付けてたり、鼻毛を出してたり、チャックを開けてたり、そんなちょっとした失敗が、なんだかとても可愛く思えた。年上の男性に「可愛い」はおかしいかもしれないけれど、確かに僕はあの日高室さんに、愛しさのようなものを感じたのだ。
こんなの絶対におかしい。これはただ親近感のようなものであって、恋愛感情なはずがない。だいいち、僕も高室さんも男だ。それなのにまさか、
――ゲイじゃないけど佐伯が好きだ。――
そんなことを言ってもらえるなんて。たぶん今まで言われた「好き」の中で、一番嬉しかったと思う。できれば少しでも長く高室さんと一緒にいたい。
だけど、やっぱり思うんだ。高室さんは、そのうち僕に飽きるだろう……。
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