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 雨は止んで、いつの間にか太陽が現れた。蒸し暑さとともに木漏れ日が境内の石畳を彩る。雨が降ると薄気味悪い神社も、陽に照らされると神秘的な光景に変わる。僕たちは特に何かを注視するわけでもなく、ふたりで賽銭箱に背中を預けて肩を寄せ合ってぐったりしていた。

「……今、何時かな」

「さあ……」

「もう行く?」

「……どこに?」

 川原くんは僕の肩に頭を乗せたまま気のない返事をする。

「ここを立ったら、福島さんはまた俺を置いて行くんですか。……ひとりになりたくない」

「行かないよ」

「福島さんはいつも、すぐ傍まで来たと思ったら離れていく。あんなに愛し合ったのに、離れたら連絡のひとつもくれなかった。薄情ですよね……俺は離れたくないって言ったのに、福島さんはひとりで勝手に決めて二人で相談することも許してくれなかった。世間知らずの子どもだと思ってたんですよね。俺はそんなにガキでしたか」

 川原くんにそんな風に責められると胸が痛い。だけどそうなのだ、僕はいつも勝手に近付いておきながら、川原くんのためと言って勝手に突き放す。川原くんの意志を無視して。彼をガキだと思ったことはないけど、年齢や見た目で無意識に子ども扱いをしていたかもしれない。川原くんが腹を立てて当然だ。

「僕の身勝手に振り回して本当に済まなかった。……嫌われても仕方ないことなのに、覚えていてくれてありがとう」

「俺が聞きたいのは、『ありがとう』でも『ごめん』でもないです」

 僕は川原くんの怒気を含んだ声に戸惑いながら、答えをひとつずつ探っていった。

「きみと別れてからも、きみ以上の人はいなかったよ」

「何人と付き合ったんですか?」

「……二人かな」

「俺も二人です」

 そこは問い詰めたい気もしたが、人のことは言えないので我慢した。

「付き合った人はいたけど、やっぱり川原くんを忘れられなかった」

「知ってます」

「一日も忘れたことがない」

「俺もです」

「会いたかったよ」

「俺も会いたかった」

「こんな歳にもなって頼りない男だけど、また付き合ってくれるかな」

「……それで?」

「きみが好きだよ。愛しているよ、心から」

 さっきまでの雨が嘘だったように晴れ渡っている。濡れた地面から水分が蒸発していくせいで、蒸し暑さが倍増しだ。けだるい体を起こしてようやく神社をあとにして港に向かった。そこら中で見かける猫に、川原くんはチチチと舌を鳴らしてみたり、無防備に寝ている猫の腹を撫でたり、かまってやる。

「猫、好きなの?」

「はい。昔より少なくなったけど、小さい頃から身近に猫がいるのが普通だったから、友達みたいなものです」

「さっき、猫の島にようこそって書いたポスター見たよ。でも僕はそれより芸術祭のポスターのほうが気になったな。綺麗な水彩画だった。誰が描いたんだろう」

「俺です」

 合いの手のようにさらりと言うので聞き逃しそうになった。そうなんだ、と驚きはしたものの、やっぱりか、という納得もあった。あの絵を見た時、初めて川原くんの絵を見た時のような温かさがあったからだ。

「パンフレットや地元タウン誌の挿絵を描いたりしてるんです。あのポスターは公募で通って採用されました」

「やっぱり僕の目に狂いはなかった。きみはアーティストになるべき人だったんだよ」

「やめて下さいよ、地元の人間しか分からないような仕事しかないし」

「それでも胸を張っていいことだよ。もっと自信持たなくちゃ」

 僕の二、三歩先を歩いていた川原くんは伸びをしながら「福島さんもね」と返した。

「福島さんはすぐ『僕なんか』とか『もうこんな歳』とか言う。福島さんこそ自分に自信持って欲しい。福島さんが自分を卑下するのを聞くの、けっこう悲しいんですよ」

 立ち止まったと思ったら僕と向き合い、全身を頭の先から足の先まで眺められた。自信を持てと言われても、やっぱり「老けたな」なんて思われるんじゃないかと卑屈になるのは当然のことで。せめてあと十歳近ければな、と叶わないことを願う。

「眼鏡、やめたんですね」

「ないほうが楽だからね」

「身体も、ちょっと……大きくなった? さっき抱き合った時、そう感じました」

「たるまないように頑張ってるんだよ、これでも。川原くんの隣にいて恥ずかしくない身体でいたいからね」

「ドキドキした」

 老人が乗ったスクーターが傍を通り過ぎた。なんだか怪訝な視線を向けられた気がしたが川原くんはそんなことはおかまいなしといった態度で、堂々と僕に唇を重ねた。

 港に下りるとちょうど夕陽が沈むところだった。赤みを帯びた太陽が海面に反射し、並んだ漁船の影が長く伸びている。橙というより金色に染まるこの風景を知っている。昔、川原くんがグループ展で描いていた油絵と同じ光景だった。それを口にしたら驚かれた。

「よく覚えてますね、そんなの」

「きみのことなら大抵覚えてるよ」

 海へ突き出ている防波堤を進み、一番端まで来たところで腰を下ろした。ベンチも何もない地べたで、大人の男二人が膝を抱えて並んで海を見ている姿はなかなか奇妙だ。船の行き交いが多いし、釣りを楽しむ人もいる。周りが僕らを見たらどう思うかな、と気後れもあるが、案外誰もこちらのことなど見向きもしない。そんなものかもしれない。

「太平洋」、と川原くんが呟いた。

「あの日、結局太平洋に行けなかったから、海を見る度にやっぱり行けばよかったなって後悔しました」

「あの日は、そんな空気じゃなかったからね」

「港で夕日を見れば油絵を褒めてくれた時の福島さんを思い出すし、美術館に行けば福島さんが来ないかなって思っちゃうし、コーヒーを見ても思い出すし、忘れられるわけないじゃないですか。それでも吹っ切らなくちゃと思って同級生の女の子と付き合ったこともある。……だけどいざセックスとなると駄目だった。彼女のことは好きだったのに、全然気持ちが高ぶらない。……俺はもう福島さんじゃないとセックスもできない」

「僕もだよ。自分は川原くんにまっとうに進んで欲しいと言っておきながら、そうなることを想像したら妬けてどうにかなりそうだった。僕は本当に我儘な人間なんだ」

「一度だけ約束がキャンセルになったことあるの覚えてますか?」

 確かあれは離婚直前でさくらが九州から戻って来た日だ。急きょ別の日にしてくれと僕かキャンセルした。

「あの日、実は福島さんちのすぐ近くまで行ってたんです。でも門の前で娘さんがいて慌てて引き返しました。いくら別れてると言っても福島さんには家族がいるんだと思い知って、けっこうダメージ食らいました。福島さんだって普通の男なんだから、いずれ再婚するだろうとか、娘に頼まれたら離婚を思い止まるんじゃないかとか。そうなった時に自分がいたら福島さんに迷惑かかるだろうなとか。……本当は分かってたのに、別れたくなくて無理言って、それで福島さんのせいにした。ごめんなさい……」

 僕が今朝乗ったものと同じ海上タクシーが、水しぶきを上げながら港から離れていく。確かあれがこの日最後の便だったと思う。乗らなきゃいけない、と思うのに体は動かない。本当は乗りたくないからだ。

 別れなきゃいけないと分かっていても別れたくなかった。だけど不本意に別れたから余計に執着してしまった。一緒にいても苦しいかもしれないけど、一緒にいないほうがもっと苦しい。嫌と言うほど身に染みている。どちらにしても苦しいなら一緒にいる苦しみのほうが耐え甲斐もあるだろう。僕は川原くんの頭を抱き寄せた。

「これから二人で何かできること探そうか」

「福島さんは何がしたいですか?」

「水彩画、教えてよ。描いた絵にはその人の深層心理が現れるんだよね。一緒に絵を描いて、描いた絵を見て心の中が分かれば、たぶん早く深くお互いのことが知れるだろ。数年後には不安も孤独もない、同じ絵を描いてるはずだ。楽しみじゃない?」

 まん丸の夕日が空も海も赤く染めながらいよいよ海に沈む。海上タクシーの姿はもう見えなくなった。引き返せなくなった、と同時に、言いようのない幸福感に包まれた。これからは酒とジャンクフードで寒い夜をやり過さずに済む。もう僕はひとりぼっちじゃない。

「俺、ひとつだけまだ知らないことがあります。すごく大事なこと」

「なに?」

「福島さんの名前」

「和瑞(かずい)だよ」

「……和瑞……」

 紫と橙のグラデーションの空に、もう夕日はない。風向きが変わったのか、一瞬だけ風が止んだ。波もなく、音もない、凪の暮。やがてまた緩やかに風が吹き始め、仄暗い海の上で静かなさざ波に耳を傾ける。この駘蕩な瞬間を共にして、僕たちは今やっと、同じ世界にいる。



(了)


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