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2019・04・16(MON)00:00 Category 未分類
結局、太平洋には行きませんでした。寝不足もあったし、彼もすっかり乗り気でなく、「帰ろうか」と聞くと「はい」と返ってきたので、ホテルを出たあと、元来た道を戻りました。
そして、いつもの駅前広場のロータリーで彼を下ろして、「さようなら」と、彼は去っていきました。元気でね、とか、頑張ってね、とか、僕も言えたらよかったのでしょうが、何を言っても上辺だけの言葉にしかならない気がして、何も言えませんでした。
電話が掛かってきたのは一度だけ。「これから実家に帰ります」と、日曜日の午前中だったかな。外にいるみたいだったので長話はできなくて、「気を付けて帰ってね」とは言いました。思い続けていればまた会おうとは言ったものの、やっぱりお互いに「もう会えないだろうな」という諦めのようなものが伝わっていたと思います。会話が続かなくて、「それじゃあ」という彼の言葉を最後に、僕たちの関係は終わりました。
「やめよう」なんて言うんじゃなかったと何度も後悔しました。夜が来るたびに寂しくて、スマートフォンを手にしては「やっぱり戻って来て」と懇願しそうになりました。
だけど彼の将来を思って決断したことなのだから、今は辛くてもこれでいいのだと言い聞かせるしかありませんでした。間違って馬鹿なことを言わないようにと、SNSも退会したし、連絡先も消して、繋がりを絶ちました。
いくら悲しんでも腹は減るし、眠くなるし、仕事をしなくちゃいけない。それだけが救いだったかもしれない。日常的な欲求を満たすことで気を紛らわせ、淡々と、ただ淡々と生きました。
そして知らず知らずに溜まったやり場のない想いが溢れたら、一晩中酒を飲んで、孤独にのたうち回って、夢の中だけでも彼をたくさん愛しました。朝が来たら、また感情を殺して淡々と生きる。そんな生活が続きました。
この十年のあいだでひとつも縁談がなかったわけじゃありません。上司の薦めや、親戚の伝手で、何人かの女性とお見合いをして、付き合ったこともあります。けれども、あの頃のように身も心も焦がれるような想いはしなかったし、彼のように夢中になれる相手とは出会えませんでした。どれだけ月日が流れても、僕は彼を忘れることができなかったのです。
今、どこで、何をしているのだろう。きっと素敵なパートナーを見つけているだろう。
もしかしたら子どももいるかもしれない。僕が三十前には、娘がいたのだから。
僕たちを繋げるものはもうないから、どこで何を叫ぼうと届かないかもしれないけど、せめてこの場を借りて最後にひと言、彼に言いたい。
きみが幸せにしているなら、どうかそのままでいてほしい。
僕はきみから本当に幸せな日々を貰ったから、きみが僕以上に幸せになってくれたら嬉しい。
僕を好きになってくれてありがとう。
僕は今でもきみを愛している。
***
待ち合わせ五分前に、駅の改札に着いた。ちょうど到着したらしい列車から、大量の人の波が溢れ出る。その中から長いストレートの黒髪を靡かせて、懐かしい子が駆け寄って来た。
「お父さん!」
ロングスカートが足に引っ掛かりそうで、見ているほうがヒヤヒヤする。すっかり女性らしく成長した娘のさくらが僕の目の前に立った。
「久しぶり、元気にしてたの?」
「元気だよ。さくらは元気だったか」
「まあね。それより、来週引っ越すんでしょ? 荷造り済んだの? 手伝ってあげるから」
「悪いなぁ」
思春期の頃は頼りなかったさくらも、二十五にもなるとさすがにしっかりした大人だ。
さくらとは、かなえと離婚してからも一、二年に一度は会うようにしていた。さくらがこちらに来ることもあれば、僕が九州に行くこともあった。会う度に成長する娘の姿に驚かされ、年々かなえに似ていくことに少し戸惑いもする。
九州に越したあとのさくらは、普通科の高校に進み、大学も美術とは無関係の公立大学に進んだ。卒業後は東京の広告代理店に二年ほど勤め、そして職場で知り合った男性と先日、婚約した。今日は結婚式の招待状を持って行くからと、はるばる東京から来てくれたのだ。
一方、僕は変わらず銀行に勤め、大体三年ごとに支店を変わっている。いつも近場の支店だったのだが、先週、ついに県外の支店に支店長として赴任することが決まった。さすがに自宅からは通えない距離なので、引っ越しに伴い、二十年住んだ家を手放すことにしたのである。
僕とさくらは駅のパン屋で昼食を買ってから、車に乗り込んだ。助手席にいるさくらがしげしげと僕の顔や腕を見ている。
「お父さん、雰囲気が違うと思ったら眼鏡がないのね」
「レーシックしたんだ。老眼のレンズも入れてもらってる。視力って本当に大事だよね。視界が綺麗だと、なんかイキイキ生活できる気がする」
「うん、あと、体格良くなった? トレーニング続けてるの? 肌も焼けてるし」
「トレーニングは続けてる。焼けてるのはただのゴルフ焼け」
僕は五年前からトレーニング教室に通いだし、体を鍛え始めた。職場の健康診断で数値が悪かったのが始めたきっかけだが、正直言うと健康面はどうでもいい。要注意項目の多さに、「川原くんの隣を堂々と歩けるよう努力する」と言ったことを思い出して、これでは合わせる顔がないと自分を𠮟咤し、果たされるかどうかも分からない約束のために続けている。
「いいじゃない! 昔より今のほうが若そうに見えるわ」
「そこは、どっちも素敵だよって言うところじゃないの?」
「はぁ~? ナニソレ図々しい!」
こんな軽口を叩いて笑い合うなんて昔は想像もできなかったな、とハンドルを切りながら考えた。あの頃は僕もさくらも親子として未熟で、お互いにどこまで干渉していいのか判断できなかったし、「ただ同じ空間にいる」ことに安心しきっていたから、会話も少なかったのかもしれない。今はどちらかが動かないと会えないので、会った時はここぞとばかりに報告し合う。だから離れて暮らしていてもお互いのことは大抵、知っている。さくらに辛い想いはさせたけど、それがあったから、今の良好な関係ができたのだと僕は思っている。
家の中は山積みの段ボールで足を踏み入れる場所もない。さくらは「お父さんってこんなにズボラだっけ!?」と憤りながらテキパキと片付けてくれた。さくらの小さかった頃の服やおもちゃが未だクローゼットの奥に眠っている。
「まーだ、こんなのあったんだ」
「孫が着たりしないかな」
「こんな古いデザインの服、着せたくないわ」
自分ではなかなか捨てられなかったものを、潔くゴミ袋に放り込んでいくのを見ると、ホッとしたような切ないような気になった。荷造りをしながら、僕は今まで聞きたくても聞けなかったことを聞いてみた。
「お父さんとは仲良くやってる?」
さくらが高校二年生の頃にかなえが再婚して、さくらには継父がいる。とても良い人で、一緒に暮らすことも嫌ではなかったそうだ。ただ、僕に気を遣っているらしく、さくらから積極的に継父の話はしない。僕もそんなに聞きたいわけじゃないが、二ヵ月後のさくらの結婚式に招待されているので、その返事を含めて思い切って話を振ったのだ。
さくらは手を休めず、段ボールにガムテープを貼り付けながら、僕に背を向けたまま「うん」と答えた。
「結婚式にはお父さんも来るんだろ?」
「そうだけど、わたしは『お父さん』にも来てもらいたいの。来てくれる?」
「僕もさくらの花嫁姿は見たいけどね。申し訳ないけど、やめておくよ」
「お母さんにも、あっちのお父さんにも話してあるのよ」
「うん、でもきっと色々一番、気を遣うのはさくらだろうし、めでたい日に余計な心配はさせたくないから。あ、写真は必ず送ってね」
さくらはやや不貞腐れた面持ちでこちらに向き直り、「お父さんならそう言うと思ったけど」と使い切ったガムテープを僕に放り投げた。
「わたしね、お父さんにも幸せになってもらいたいのよ」
「充分、幸せだよ。娘の結婚なんて、これ以上最高な話はないだろう」
「そういう綺麗ごといいからさ」
新しいガムテープをさくらに投げる。ぱしっとガムテープを受け取ったさくらが単刀直入に聞く。
「いい人、いないの?」
「……いないねぇ」
「本当? わたし、お父さんが体鍛えたり、見た目を気にしたりするのって、好きな人がいるんだとずっと思ってたわ。今のお父さん、すごくいいと思う。もし再婚する気があるなら、すればいいのに」
「はは、ありがとう」
「また笑って誤魔化す。今のままじゃ心配でお嫁に行けないわ」
「心配してくれてありがとう。でもお父さんは再婚する気はないよ」
「……好きな人とも……?」
僕はそれには含み笑いをしたまま答えなかった。さくらはまだ納得いかない様子だ。続けざまに駄目だしを食らった。
「お父さんって、溜め込むタイプでしょ。昔、わたしに進路のことで怒鳴ったことあったよね。本当はわたしのこと叱りたいのに我慢して、だけど堪え切れなくなって爆発。今になって分かったんだけどさ、お母さんと価値観が合わなくなったのだって、いちいち言い合いになるのが面倒だから我慢すればいいやって、不満を飲み込んできたんだよね。それで離婚の話になるまでもつれてさ。あの時、お父さんは『これ以上無駄だ』って逃げたように思うの。……あ、離婚を責めてるんじゃないのよ。ただ、限界まで抱え込んで爆発して、最後に『どうしようもない』って諦める姿が、見てて心配なの」
「……耳が痛いね」
「そうでしょ?」
段ボールの上で足組みをして説教をするさくらの前で、僕は縮こまって正座している。どっちが親か分からない。
「……わたし、お父さんには不満や悩みとかを上手に取り出してくれる人が必要だと思う。今もそうやってはぐらかして笑ってるけど、そのうち溜め込んだものがまた爆発したら、どうなっちゃうんだろうって怖いわ」
それは僕自身も分からなくて怖い。
僕は安定志向なんじゃない。面倒なことや予測不能な事態に陥ると逃げるだけだ。そして取り返しがつかなくなったら、何かと理由を付けてまた逃げる。娘からも、妻からも、そして川原くんからも。過去を振り返れば確かにさくらの言う通りなのだ。さくらに怒鳴ったのも、かなえと離婚したのも、すべて溜め込んで我慢した結果だ。川原くんとも、彼の将来のためだなんて体(てい)のいいことを言って、世間の風当たりがどれほどきついのか予測できなかったから逃げただけ。そのくせ未練たらしく忘れられなくて、独りで打ち明けられない想いを溜め込んでは、自慰や想い出に浸ることで乗り切ってきた。そんな生活に限界を感じているのもまた図星だ。
「もしさ、本当に好きな人がいて、望みがあるなら再婚、考えてみたら?」
「……そうだね」
部屋の片づけをほとんど済ませたあと、さくらは引っ越しまでの数日間の食事まで用意してくれた。車で駅まで見送り、さくらは別れ際に、
「お父さんの好きな人なら、どんな人だって応援するからね」
と、残した。まるで僕の好きな人が誰なのかを見越しているように。
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結局、太平洋には行きませんでした。寝不足もあったし、彼もすっかり乗り気でなく、「帰ろうか」と聞くと「はい」と返ってきたので、ホテルを出たあと、元来た道を戻りました。
そして、いつもの駅前広場のロータリーで彼を下ろして、「さようなら」と、彼は去っていきました。元気でね、とか、頑張ってね、とか、僕も言えたらよかったのでしょうが、何を言っても上辺だけの言葉にしかならない気がして、何も言えませんでした。
電話が掛かってきたのは一度だけ。「これから実家に帰ります」と、日曜日の午前中だったかな。外にいるみたいだったので長話はできなくて、「気を付けて帰ってね」とは言いました。思い続けていればまた会おうとは言ったものの、やっぱりお互いに「もう会えないだろうな」という諦めのようなものが伝わっていたと思います。会話が続かなくて、「それじゃあ」という彼の言葉を最後に、僕たちの関係は終わりました。
「やめよう」なんて言うんじゃなかったと何度も後悔しました。夜が来るたびに寂しくて、スマートフォンを手にしては「やっぱり戻って来て」と懇願しそうになりました。
だけど彼の将来を思って決断したことなのだから、今は辛くてもこれでいいのだと言い聞かせるしかありませんでした。間違って馬鹿なことを言わないようにと、SNSも退会したし、連絡先も消して、繋がりを絶ちました。
いくら悲しんでも腹は減るし、眠くなるし、仕事をしなくちゃいけない。それだけが救いだったかもしれない。日常的な欲求を満たすことで気を紛らわせ、淡々と、ただ淡々と生きました。
そして知らず知らずに溜まったやり場のない想いが溢れたら、一晩中酒を飲んで、孤独にのたうち回って、夢の中だけでも彼をたくさん愛しました。朝が来たら、また感情を殺して淡々と生きる。そんな生活が続きました。
この十年のあいだでひとつも縁談がなかったわけじゃありません。上司の薦めや、親戚の伝手で、何人かの女性とお見合いをして、付き合ったこともあります。けれども、あの頃のように身も心も焦がれるような想いはしなかったし、彼のように夢中になれる相手とは出会えませんでした。どれだけ月日が流れても、僕は彼を忘れることができなかったのです。
今、どこで、何をしているのだろう。きっと素敵なパートナーを見つけているだろう。
もしかしたら子どももいるかもしれない。僕が三十前には、娘がいたのだから。
僕たちを繋げるものはもうないから、どこで何を叫ぼうと届かないかもしれないけど、せめてこの場を借りて最後にひと言、彼に言いたい。
きみが幸せにしているなら、どうかそのままでいてほしい。
僕はきみから本当に幸せな日々を貰ったから、きみが僕以上に幸せになってくれたら嬉しい。
僕を好きになってくれてありがとう。
僕は今でもきみを愛している。
***
待ち合わせ五分前に、駅の改札に着いた。ちょうど到着したらしい列車から、大量の人の波が溢れ出る。その中から長いストレートの黒髪を靡かせて、懐かしい子が駆け寄って来た。
「お父さん!」
ロングスカートが足に引っ掛かりそうで、見ているほうがヒヤヒヤする。すっかり女性らしく成長した娘のさくらが僕の目の前に立った。
「久しぶり、元気にしてたの?」
「元気だよ。さくらは元気だったか」
「まあね。それより、来週引っ越すんでしょ? 荷造り済んだの? 手伝ってあげるから」
「悪いなぁ」
思春期の頃は頼りなかったさくらも、二十五にもなるとさすがにしっかりした大人だ。
さくらとは、かなえと離婚してからも一、二年に一度は会うようにしていた。さくらがこちらに来ることもあれば、僕が九州に行くこともあった。会う度に成長する娘の姿に驚かされ、年々かなえに似ていくことに少し戸惑いもする。
九州に越したあとのさくらは、普通科の高校に進み、大学も美術とは無関係の公立大学に進んだ。卒業後は東京の広告代理店に二年ほど勤め、そして職場で知り合った男性と先日、婚約した。今日は結婚式の招待状を持って行くからと、はるばる東京から来てくれたのだ。
一方、僕は変わらず銀行に勤め、大体三年ごとに支店を変わっている。いつも近場の支店だったのだが、先週、ついに県外の支店に支店長として赴任することが決まった。さすがに自宅からは通えない距離なので、引っ越しに伴い、二十年住んだ家を手放すことにしたのである。
僕とさくらは駅のパン屋で昼食を買ってから、車に乗り込んだ。助手席にいるさくらがしげしげと僕の顔や腕を見ている。
「お父さん、雰囲気が違うと思ったら眼鏡がないのね」
「レーシックしたんだ。老眼のレンズも入れてもらってる。視力って本当に大事だよね。視界が綺麗だと、なんかイキイキ生活できる気がする」
「うん、あと、体格良くなった? トレーニング続けてるの? 肌も焼けてるし」
「トレーニングは続けてる。焼けてるのはただのゴルフ焼け」
僕は五年前からトレーニング教室に通いだし、体を鍛え始めた。職場の健康診断で数値が悪かったのが始めたきっかけだが、正直言うと健康面はどうでもいい。要注意項目の多さに、「川原くんの隣を堂々と歩けるよう努力する」と言ったことを思い出して、これでは合わせる顔がないと自分を𠮟咤し、果たされるかどうかも分からない約束のために続けている。
「いいじゃない! 昔より今のほうが若そうに見えるわ」
「そこは、どっちも素敵だよって言うところじゃないの?」
「はぁ~? ナニソレ図々しい!」
こんな軽口を叩いて笑い合うなんて昔は想像もできなかったな、とハンドルを切りながら考えた。あの頃は僕もさくらも親子として未熟で、お互いにどこまで干渉していいのか判断できなかったし、「ただ同じ空間にいる」ことに安心しきっていたから、会話も少なかったのかもしれない。今はどちらかが動かないと会えないので、会った時はここぞとばかりに報告し合う。だから離れて暮らしていてもお互いのことは大抵、知っている。さくらに辛い想いはさせたけど、それがあったから、今の良好な関係ができたのだと僕は思っている。
家の中は山積みの段ボールで足を踏み入れる場所もない。さくらは「お父さんってこんなにズボラだっけ!?」と憤りながらテキパキと片付けてくれた。さくらの小さかった頃の服やおもちゃが未だクローゼットの奥に眠っている。
「まーだ、こんなのあったんだ」
「孫が着たりしないかな」
「こんな古いデザインの服、着せたくないわ」
自分ではなかなか捨てられなかったものを、潔くゴミ袋に放り込んでいくのを見ると、ホッとしたような切ないような気になった。荷造りをしながら、僕は今まで聞きたくても聞けなかったことを聞いてみた。
「お父さんとは仲良くやってる?」
さくらが高校二年生の頃にかなえが再婚して、さくらには継父がいる。とても良い人で、一緒に暮らすことも嫌ではなかったそうだ。ただ、僕に気を遣っているらしく、さくらから積極的に継父の話はしない。僕もそんなに聞きたいわけじゃないが、二ヵ月後のさくらの結婚式に招待されているので、その返事を含めて思い切って話を振ったのだ。
さくらは手を休めず、段ボールにガムテープを貼り付けながら、僕に背を向けたまま「うん」と答えた。
「結婚式にはお父さんも来るんだろ?」
「そうだけど、わたしは『お父さん』にも来てもらいたいの。来てくれる?」
「僕もさくらの花嫁姿は見たいけどね。申し訳ないけど、やめておくよ」
「お母さんにも、あっちのお父さんにも話してあるのよ」
「うん、でもきっと色々一番、気を遣うのはさくらだろうし、めでたい日に余計な心配はさせたくないから。あ、写真は必ず送ってね」
さくらはやや不貞腐れた面持ちでこちらに向き直り、「お父さんならそう言うと思ったけど」と使い切ったガムテープを僕に放り投げた。
「わたしね、お父さんにも幸せになってもらいたいのよ」
「充分、幸せだよ。娘の結婚なんて、これ以上最高な話はないだろう」
「そういう綺麗ごといいからさ」
新しいガムテープをさくらに投げる。ぱしっとガムテープを受け取ったさくらが単刀直入に聞く。
「いい人、いないの?」
「……いないねぇ」
「本当? わたし、お父さんが体鍛えたり、見た目を気にしたりするのって、好きな人がいるんだとずっと思ってたわ。今のお父さん、すごくいいと思う。もし再婚する気があるなら、すればいいのに」
「はは、ありがとう」
「また笑って誤魔化す。今のままじゃ心配でお嫁に行けないわ」
「心配してくれてありがとう。でもお父さんは再婚する気はないよ」
「……好きな人とも……?」
僕はそれには含み笑いをしたまま答えなかった。さくらはまだ納得いかない様子だ。続けざまに駄目だしを食らった。
「お父さんって、溜め込むタイプでしょ。昔、わたしに進路のことで怒鳴ったことあったよね。本当はわたしのこと叱りたいのに我慢して、だけど堪え切れなくなって爆発。今になって分かったんだけどさ、お母さんと価値観が合わなくなったのだって、いちいち言い合いになるのが面倒だから我慢すればいいやって、不満を飲み込んできたんだよね。それで離婚の話になるまでもつれてさ。あの時、お父さんは『これ以上無駄だ』って逃げたように思うの。……あ、離婚を責めてるんじゃないのよ。ただ、限界まで抱え込んで爆発して、最後に『どうしようもない』って諦める姿が、見てて心配なの」
「……耳が痛いね」
「そうでしょ?」
段ボールの上で足組みをして説教をするさくらの前で、僕は縮こまって正座している。どっちが親か分からない。
「……わたし、お父さんには不満や悩みとかを上手に取り出してくれる人が必要だと思う。今もそうやってはぐらかして笑ってるけど、そのうち溜め込んだものがまた爆発したら、どうなっちゃうんだろうって怖いわ」
それは僕自身も分からなくて怖い。
僕は安定志向なんじゃない。面倒なことや予測不能な事態に陥ると逃げるだけだ。そして取り返しがつかなくなったら、何かと理由を付けてまた逃げる。娘からも、妻からも、そして川原くんからも。過去を振り返れば確かにさくらの言う通りなのだ。さくらに怒鳴ったのも、かなえと離婚したのも、すべて溜め込んで我慢した結果だ。川原くんとも、彼の将来のためだなんて体(てい)のいいことを言って、世間の風当たりがどれほどきついのか予測できなかったから逃げただけ。そのくせ未練たらしく忘れられなくて、独りで打ち明けられない想いを溜め込んでは、自慰や想い出に浸ることで乗り切ってきた。そんな生活に限界を感じているのもまた図星だ。
「もしさ、本当に好きな人がいて、望みがあるなら再婚、考えてみたら?」
「……そうだね」
部屋の片づけをほとんど済ませたあと、さくらは引っ越しまでの数日間の食事まで用意してくれた。車で駅まで見送り、さくらは別れ際に、
「お父さんの好きな人なら、どんな人だって応援するからね」
と、残した。まるで僕の好きな人が誰なのかを見越しているように。
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- Posted in: ★ひとりぼっちにさよなら
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