20
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汗だくの身体のまま抱き合って眠り、カーテン越しの日差しで寝覚めた。目を開けると気持ち良さそうに眠る川原くんがいる。夢から覚めても夢の中にいるような心地だった。
一緒にシャワーをして綺麗になったあと、残りひとつだったころころパイを半分にして、温かい紅茶を淹れる。ブレックファーストには質素すぎるが、それもまた味がある。
「だるくない?」
「ちょっと、……でも平気です」
「ホテルを出たら、海まであと一時間くらいだから行こうか。せっかくいい天気だし」
川原くんのほっとしたように笑うのが引っ掛かった。僕はころころパイに手を付ける前に、そろそろ本題に迫った。
「何か悩み事があるの?」
「え……」
「なんだか浮かない顔だから」
「ご、ごめんなさい。あの……」
ティーバッグで淹れた紅茶を啜る。熱すぎてあまり飲めなかった。湯気で眼鏡が曇った時、川原くんが言った。
「俺、大学辞めるんです」
眼鏡にかかった靄が取れて、冴えない表情の川原くんが映った。まったく予想もしなかった話に戸惑って、カップをきちんとソーサーの真ん中に置けなかった。
「どうして……」
「父が、漁師だって前にお話したと思うんですけど、その父が、先日体を悪くして漁ができなくなったんです。以前から身体のあちこちが痛いって言ってたんで、限界だったみたいです。生活にたちまち困るわけじゃないんですけど、もともと裕福じゃないんで……美大はお金かかるし、これ以上我儘も言えないから……」
「そ、そう。それは大変だね……。お父さん、おいくつ?」
「五十二です」
僕とひと回りしか違わない。どう体が悪いのかまでは聞けなかったが、まだまだ若いし、働き盛りなのに気の毒なことだ。確か川原くんにきょうだいはいない。お父さんが臥せったあと、お母さんが主体となって家庭を支えるとしたら、看病のことなどを考えると川原くんもさすがに心配だろうし、仲が良いとか悪いとか言っている場合ではない。
「……じゃあ、地元に、帰るんだね」
暫く間があり、重たげに「はい」と絞り出した。
「……もしかしてそのバックパック、本当は実家に帰ってたの?」
「……は、い。最初は罵られました。二年ぶりの帰省だったから。高い学費払って大学に行かせてやってるのに、なんで一度も帰省しないんだって。……そのあと、頼むから帰って来てくれって言われて」
「そうだよね。……僕が川原くんでも、帰ると思う」
川原くんには美術の道をまっとうして欲しいと思っていた僕としては残念だが、仕方のないことだ。地元に帰ると言っても、今の時代、車でも新幹線でも飛行機でも使えばいつだって会いに行ける。それなのに僕たちが青い顔をしているのは、ただでさえ取り巻く環境も年齢も違うのに、離れたらもっと脆い繋がりになるのではと不安があるからだ。
僕は……大丈夫だ。離れていても川原くんを好きな気持ちは変わらない自信はある。僕の方が金銭的にも余裕があるのだから、僕が川原くんのところへ通ってもいい。一度足を踏み入れた関係だ。やすやすと手放す気にはなれない。川原くんが心配そうに訊ねる。
「大学辞めたら働くし……、ふ、福島さん、……俺が帰っても、会ってくれますよね……? 電話とかラインとか……してくれますよね……」
勿論だよ、――と、すぐそこまで来ているのに、声に出せなかった。無駄に人生経験を積んだ故の客観的思考が脳内を巡る。
川原くんが好きだ。男だろうが若かろうが、それは胸を張って言える。毎日電話やメッセージのやり取りをして、多少遠くても休みの日には会いに行きたい。ずっと付き合っていけるなら、そのくらいの労力はなんでもない。「僕はきみを好きだから」と安心させたい。せめて川原くんが僕を好きだと言ってくれているあいだは、彼を一番大事にしたい。
でも本当にそれでいいのだろうか。
川原くんは僕のような平凡な中年と違って、若くて、才能もあって、美しい。今は僕といるから周りが見えていないだけで、離れてみて少し目線を変えれば、他にもっと良い人がいると気付くだろう。環境の違いの厳しさだって理解しているはずだ。公にするのが困難で、理解を得られにくい付き合いを、離れてまで川原くんにさせていいのだろうか。
手放したくない独占欲と、今ならまだやり直せるという理性がせめぎ合う。
――そして、僕の保守的な性格が、ここで前に出てしまった。
「ここで……やめとこうか……」
「え?」
「川原くんは、本来の道に戻りなさい」
川原くんから絶望の色を感じた。
「きみのような、これからいくらでも未来のある子が、僕みたいな男のために時間を無駄にするなんて、やっぱり良くない。地元に帰ったら親御さんが近くにいて、同級生もいて、新しい縁もまた出来ていくはず。僕なんかと付き合ってるなんて知られたら……何を言われるか……」
「俺は福島さんがいいっ」
「……ありがとう。でも僕より大事なものが、きみにはたくさんある」
「そんなのないです。俺は福島さんと付き合っていきたい」
「でも正直、僕には自信がないよ。今は頻繁に会えるから好きでいてくれているけど、離れてもずっと僕を好きでいてもらえる自信がない。周りに認めてもらえる自信も」
「俺はずっと福島さんだけ好きでいる! 認めてもらえなくても……」
「恋愛にしろ仕事にしろ、『認めてもらえない』って辛いよ。川原くん、大学で個性がないって言われ続けてるって落ち込んでただろ。自分の作品を認めてもらえなくて辛かっただろ? ああいう想いを一生できる?」
「で、でも……福島さんがいるから……」
「絵に関しては僕がいることで立ち直れたかもしれない。でも僕との恋愛は別だよ。……川原くんは、女の子と付き合って結婚して家庭を持てるんだ。わざわざ茨の道を行くことない」
「な、なんで……? 福島さんが好きなのに……ふ、福島さんは、俺のこと好きじゃないの……?」
流れる涙を何度も袖で拭っている。震える涙声に胸が痛む。
「……本当はね、前からずっと考えてたんだよ。いつまで続けられるんだろうかって。川原くんと一緒にいて幸せだし、できればずっといたいけれど、いつかこういう形で別れなくちゃいけないだろうなと覚悟はしてた」
それが今だったということだ。
僕が全部、間違っていたのだ。自分の欲求を抑えられなくて中途半端に気持ちを伝えてしまったから、一度突き放しておきながら寂しさに耐え切れずに電話をしてしまったから、僕を受け入れてくれたことに浮かれて、当然のように肌を合わせてしまったから。
最初から声を掛けなければよかった。そうすれば罪悪感と幸福感の狭間で苦しむこともなかったのだ。
「川原くんはこれから色んな経験をするべきだよ。大学は残念だったけど、またどこかで絵の勉強ができるかもしれないし、他のことをやってるかもしれない。新しい出会いもたくさんある。……僕もできれば離れたくないけど、やっぱり冷静に考えて、純粋に川原くんのファンとしても、明るい未来があるなら潰したくないかな」
「……もし、もしそれでも福島さんが好きだったら、どうしたらいい?」
川原くんが一人前の大人になった時、僕はきっと今より勢いのない男になっているだろう。それでももし、彼が僕を覚えていてくれたら、
「その時はもう一度会おう。……僕もきみの隣を堂々と歩ける男になるように努力する」
「……じゃあ、完全にお別れじゃないですよね?」
「そうだね」
「電話してもいい?」
「……どうしても辛いことがあったら、しておいで」
川原くんは小さな子どものように泣きじゃくっていた。僕たちを嫌味なほど明るく照らす日溜まりの窓際。半分ずつのころころパイと、ほとんど飲まれていない紅茶が虚しくそこにある。
その半分だけのころころパイは、食べたかどうか定かでない。
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汗だくの身体のまま抱き合って眠り、カーテン越しの日差しで寝覚めた。目を開けると気持ち良さそうに眠る川原くんがいる。夢から覚めても夢の中にいるような心地だった。
一緒にシャワーをして綺麗になったあと、残りひとつだったころころパイを半分にして、温かい紅茶を淹れる。ブレックファーストには質素すぎるが、それもまた味がある。
「だるくない?」
「ちょっと、……でも平気です」
「ホテルを出たら、海まであと一時間くらいだから行こうか。せっかくいい天気だし」
川原くんのほっとしたように笑うのが引っ掛かった。僕はころころパイに手を付ける前に、そろそろ本題に迫った。
「何か悩み事があるの?」
「え……」
「なんだか浮かない顔だから」
「ご、ごめんなさい。あの……」
ティーバッグで淹れた紅茶を啜る。熱すぎてあまり飲めなかった。湯気で眼鏡が曇った時、川原くんが言った。
「俺、大学辞めるんです」
眼鏡にかかった靄が取れて、冴えない表情の川原くんが映った。まったく予想もしなかった話に戸惑って、カップをきちんとソーサーの真ん中に置けなかった。
「どうして……」
「父が、漁師だって前にお話したと思うんですけど、その父が、先日体を悪くして漁ができなくなったんです。以前から身体のあちこちが痛いって言ってたんで、限界だったみたいです。生活にたちまち困るわけじゃないんですけど、もともと裕福じゃないんで……美大はお金かかるし、これ以上我儘も言えないから……」
「そ、そう。それは大変だね……。お父さん、おいくつ?」
「五十二です」
僕とひと回りしか違わない。どう体が悪いのかまでは聞けなかったが、まだまだ若いし、働き盛りなのに気の毒なことだ。確か川原くんにきょうだいはいない。お父さんが臥せったあと、お母さんが主体となって家庭を支えるとしたら、看病のことなどを考えると川原くんもさすがに心配だろうし、仲が良いとか悪いとか言っている場合ではない。
「……じゃあ、地元に、帰るんだね」
暫く間があり、重たげに「はい」と絞り出した。
「……もしかしてそのバックパック、本当は実家に帰ってたの?」
「……は、い。最初は罵られました。二年ぶりの帰省だったから。高い学費払って大学に行かせてやってるのに、なんで一度も帰省しないんだって。……そのあと、頼むから帰って来てくれって言われて」
「そうだよね。……僕が川原くんでも、帰ると思う」
川原くんには美術の道をまっとうして欲しいと思っていた僕としては残念だが、仕方のないことだ。地元に帰ると言っても、今の時代、車でも新幹線でも飛行機でも使えばいつだって会いに行ける。それなのに僕たちが青い顔をしているのは、ただでさえ取り巻く環境も年齢も違うのに、離れたらもっと脆い繋がりになるのではと不安があるからだ。
僕は……大丈夫だ。離れていても川原くんを好きな気持ちは変わらない自信はある。僕の方が金銭的にも余裕があるのだから、僕が川原くんのところへ通ってもいい。一度足を踏み入れた関係だ。やすやすと手放す気にはなれない。川原くんが心配そうに訊ねる。
「大学辞めたら働くし……、ふ、福島さん、……俺が帰っても、会ってくれますよね……? 電話とかラインとか……してくれますよね……」
勿論だよ、――と、すぐそこまで来ているのに、声に出せなかった。無駄に人生経験を積んだ故の客観的思考が脳内を巡る。
川原くんが好きだ。男だろうが若かろうが、それは胸を張って言える。毎日電話やメッセージのやり取りをして、多少遠くても休みの日には会いに行きたい。ずっと付き合っていけるなら、そのくらいの労力はなんでもない。「僕はきみを好きだから」と安心させたい。せめて川原くんが僕を好きだと言ってくれているあいだは、彼を一番大事にしたい。
でも本当にそれでいいのだろうか。
川原くんは僕のような平凡な中年と違って、若くて、才能もあって、美しい。今は僕といるから周りが見えていないだけで、離れてみて少し目線を変えれば、他にもっと良い人がいると気付くだろう。環境の違いの厳しさだって理解しているはずだ。公にするのが困難で、理解を得られにくい付き合いを、離れてまで川原くんにさせていいのだろうか。
手放したくない独占欲と、今ならまだやり直せるという理性がせめぎ合う。
――そして、僕の保守的な性格が、ここで前に出てしまった。
「ここで……やめとこうか……」
「え?」
「川原くんは、本来の道に戻りなさい」
川原くんから絶望の色を感じた。
「きみのような、これからいくらでも未来のある子が、僕みたいな男のために時間を無駄にするなんて、やっぱり良くない。地元に帰ったら親御さんが近くにいて、同級生もいて、新しい縁もまた出来ていくはず。僕なんかと付き合ってるなんて知られたら……何を言われるか……」
「俺は福島さんがいいっ」
「……ありがとう。でも僕より大事なものが、きみにはたくさんある」
「そんなのないです。俺は福島さんと付き合っていきたい」
「でも正直、僕には自信がないよ。今は頻繁に会えるから好きでいてくれているけど、離れてもずっと僕を好きでいてもらえる自信がない。周りに認めてもらえる自信も」
「俺はずっと福島さんだけ好きでいる! 認めてもらえなくても……」
「恋愛にしろ仕事にしろ、『認めてもらえない』って辛いよ。川原くん、大学で個性がないって言われ続けてるって落ち込んでただろ。自分の作品を認めてもらえなくて辛かっただろ? ああいう想いを一生できる?」
「で、でも……福島さんがいるから……」
「絵に関しては僕がいることで立ち直れたかもしれない。でも僕との恋愛は別だよ。……川原くんは、女の子と付き合って結婚して家庭を持てるんだ。わざわざ茨の道を行くことない」
「な、なんで……? 福島さんが好きなのに……ふ、福島さんは、俺のこと好きじゃないの……?」
流れる涙を何度も袖で拭っている。震える涙声に胸が痛む。
「……本当はね、前からずっと考えてたんだよ。いつまで続けられるんだろうかって。川原くんと一緒にいて幸せだし、できればずっといたいけれど、いつかこういう形で別れなくちゃいけないだろうなと覚悟はしてた」
それが今だったということだ。
僕が全部、間違っていたのだ。自分の欲求を抑えられなくて中途半端に気持ちを伝えてしまったから、一度突き放しておきながら寂しさに耐え切れずに電話をしてしまったから、僕を受け入れてくれたことに浮かれて、当然のように肌を合わせてしまったから。
最初から声を掛けなければよかった。そうすれば罪悪感と幸福感の狭間で苦しむこともなかったのだ。
「川原くんはこれから色んな経験をするべきだよ。大学は残念だったけど、またどこかで絵の勉強ができるかもしれないし、他のことをやってるかもしれない。新しい出会いもたくさんある。……僕もできれば離れたくないけど、やっぱり冷静に考えて、純粋に川原くんのファンとしても、明るい未来があるなら潰したくないかな」
「……もし、もしそれでも福島さんが好きだったら、どうしたらいい?」
川原くんが一人前の大人になった時、僕はきっと今より勢いのない男になっているだろう。それでももし、彼が僕を覚えていてくれたら、
「その時はもう一度会おう。……僕もきみの隣を堂々と歩ける男になるように努力する」
「……じゃあ、完全にお別れじゃないですよね?」
「そうだね」
「電話してもいい?」
「……どうしても辛いことがあったら、しておいで」
川原くんは小さな子どものように泣きじゃくっていた。僕たちを嫌味なほど明るく照らす日溜まりの窓際。半分ずつのころころパイと、ほとんど飲まれていない紅茶が虚しくそこにある。
その半分だけのころころパイは、食べたかどうか定かでない。
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- Posted in: ★ひとりぼっちにさよなら
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