18
約束の埋め合わせをさせて欲しいと川原くんに連絡をしたら、暫く時間が取れないから都合がついたら知らせると言われた。会えないのは残念なことだが、就寝前の電話やメッセージのやり取りだけはなるべく欠かさない。何もできなかった時はSNSを覗きに行く。更新があれば「イイネ」をつけて、なければ同じ画面をボーッと眺めて終わる。
以前は画面越しに近況を知るだけで充分だったのに、今ではそれだけは足らず、声を聞きたいと思うし、顔を見たいし、触りたいし、できれば離れたくない。人間は本当に欲深い生き物だ。そして想うだけで満足できない時は彼の匂いや肌の感触を思い出しながら、自身を慰めて夜を越した。
「だいてください」
「え!?」
仕事中に職場でなんてことを言うんだ、と、動揺してずれた眼鏡を直してピントを合わせた。一瞬、川原くんの顔に見えたその子は、若い女の子だった。
「……代手、下さい。大原課長が今、不在なので。いない時は福島課長にお願いするよう言われました」
「ああ、はいはい、代手ね」
僕は意味もなく眼鏡をくい、くい、と上げながら、赤くなった顔を誤魔化した。隣を通りかかった女子行員が「ふふ」と笑っている。いったん眼鏡を外して両手で顔を擦った。仕事中まで色ボケるなんて、僕は相当川原くんに参っているらしい。現に三週間は会ってない。今度はそろそろ「飽きられたんじゃないだろうか」という不安に変わりそうだ。僕は溜息をつきながら呟いた。
「………会いたいなァ」
夕方、外回りに出てそのまま直帰することになった僕は『ふるーら』へ車を走らせた。今日が最後の営業日だからだ。明日からは完全に店を閉めてしまう。最後にころころパイと、フィナンシェを買えるだけ買うつもりだ。
さすがに最終日は混んでいる。店の前の黒板に「閉店セール」と書かれた文字を見ると寂しくなった。ぞろぞろと出て行く客と入れ違いで、僕はなるべく明るくいようと笑顔で店に入った。奥さんが変わらない笑顔で迎えてくれる。
「お久しぶりね、福島さん。来てくれて嬉しいわ」
「ころころパイ、まだあります?」
「ごめんなさいね、売り切れちゃったの」
ショーケースの中のケーキは、ころころパイだけでなく、ほとんどのケーキが売り切れだ。焼き菓子コーナーを見てみても、僕の好きなフィナンシェはなかった。残念だが、それだけ僕以外にも好きな人がたくさんいたということだ。何を買おうかと見ていたら、奥さんが背後から忍び寄り、包みを渡してくれた。
「もしかしたら来てくれるんじゃないかと思って、取っておいたの。持って帰って。お金はいらないわ」
「でも」
「今までのお礼よ」
ころころパイが三つ入っている。家族分、と思って入れてくれたのだろう。その数に胸が痛んだ。さすがに申し訳ないので、やっぱり払うと申し出た。
「いいってば」
「違うんです。……実は僕、先日離婚して……」
奥さんは、皺で瞼が垂れて小さくなった目を大きくして言葉を失った。そして、
「それは、あなたへのお礼なんだから」
「……」
じきに閉店時間だ。奥のカフェからも客が出て行き、僕は最後のひとりが会計を終えるまで傍らで見ていた。僕以外の客がいなくなった店内は、いつもよりも静かで仄暗い。寂しくなった棚には焼き菓子が入っていたであろうバスケットが乱雑に散らばっていて、客が奪い合うようにして買っていったのだなと想像できる。奥さんがおもむろに口を開いた。
「人生は色々あるからねぇ。結婚して十年経たないと分からないこともあるのよね」
「本当に。でも嫌な終わり方じゃなかったので、それほどダメージはありません」
「福島さんなら、またすぐにいい人が見つかるわよ」
頭の片隅にぼんやり川原くんを描く。僕は彼を好きで、有難いことに彼も僕を好きだと言ってくれているが、手放しで喜べない関係だし、一生一緒にいられる相手ではないだろう。僕がそうしたいと望んでも。そんな複雑な想いが反映されてか、わけありげに微笑を浮かべる僕に、奥さんは勘付いた。
「ふふ、いるんじゃない、一緒に食べる人が」
と、ころころパイが入った包みを指した。
「あ――……、はは。なんというか、……はい」
「遠慮しなくていいのよ。別れたばっかりで、なんて思わないから。あなたが選んだのだから、素敵な方なのでしょ」
「……素敵な人です。ただ、僕にはあまりにも勿体ないし、僕といることで確実に明るい世界を歩いては行けないので」
「明るい世界って? どうしてあなただと駄目なの」
「……それは、……僕は、バツイチですし、けっこう年が離れてるんです。一緒に並んで歩くにはあまりにもアンバランスで」
奥さんは「何をそんなことを」と、笑った。
「年の差、いいじゃない。そんな若い子の心を掴んだあなたって素敵よ。バツイチは今時ステータスなくらいよ。自信持って!」
それでも僕は心から「ありがとうございます」とは言えなかった。
「わたしには言えない関門があるのでしょうけど、もし今は駄目だとしても、本当に縁があれば必ず一緒になるわ」
そして奥さんは改めて僕に向き直る。
「だから、それ。その人と一緒に食べてちょうだい」
僕はころころパイの入った包みをしっかりと抱く。僕と川原くんでひとつずつ食べて、残りのひとつは半分こにして食べようか。
今日、この店を出たら『ふるーら』の奥さんとは、もう会うことはないだろう。僕はしっかりと握手をして、どうかいつまでも元気で、と願った。
「その人と幸せになったら、きっとわたしに知らせてちょうだいね」
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以前は画面越しに近況を知るだけで充分だったのに、今ではそれだけは足らず、声を聞きたいと思うし、顔を見たいし、触りたいし、できれば離れたくない。人間は本当に欲深い生き物だ。そして想うだけで満足できない時は彼の匂いや肌の感触を思い出しながら、自身を慰めて夜を越した。
「だいてください」
「え!?」
仕事中に職場でなんてことを言うんだ、と、動揺してずれた眼鏡を直してピントを合わせた。一瞬、川原くんの顔に見えたその子は、若い女の子だった。
「……代手、下さい。大原課長が今、不在なので。いない時は福島課長にお願いするよう言われました」
「ああ、はいはい、代手ね」
僕は意味もなく眼鏡をくい、くい、と上げながら、赤くなった顔を誤魔化した。隣を通りかかった女子行員が「ふふ」と笑っている。いったん眼鏡を外して両手で顔を擦った。仕事中まで色ボケるなんて、僕は相当川原くんに参っているらしい。現に三週間は会ってない。今度はそろそろ「飽きられたんじゃないだろうか」という不安に変わりそうだ。僕は溜息をつきながら呟いた。
「………会いたいなァ」
夕方、外回りに出てそのまま直帰することになった僕は『ふるーら』へ車を走らせた。今日が最後の営業日だからだ。明日からは完全に店を閉めてしまう。最後にころころパイと、フィナンシェを買えるだけ買うつもりだ。
さすがに最終日は混んでいる。店の前の黒板に「閉店セール」と書かれた文字を見ると寂しくなった。ぞろぞろと出て行く客と入れ違いで、僕はなるべく明るくいようと笑顔で店に入った。奥さんが変わらない笑顔で迎えてくれる。
「お久しぶりね、福島さん。来てくれて嬉しいわ」
「ころころパイ、まだあります?」
「ごめんなさいね、売り切れちゃったの」
ショーケースの中のケーキは、ころころパイだけでなく、ほとんどのケーキが売り切れだ。焼き菓子コーナーを見てみても、僕の好きなフィナンシェはなかった。残念だが、それだけ僕以外にも好きな人がたくさんいたということだ。何を買おうかと見ていたら、奥さんが背後から忍び寄り、包みを渡してくれた。
「もしかしたら来てくれるんじゃないかと思って、取っておいたの。持って帰って。お金はいらないわ」
「でも」
「今までのお礼よ」
ころころパイが三つ入っている。家族分、と思って入れてくれたのだろう。その数に胸が痛んだ。さすがに申し訳ないので、やっぱり払うと申し出た。
「いいってば」
「違うんです。……実は僕、先日離婚して……」
奥さんは、皺で瞼が垂れて小さくなった目を大きくして言葉を失った。そして、
「それは、あなたへのお礼なんだから」
「……」
じきに閉店時間だ。奥のカフェからも客が出て行き、僕は最後のひとりが会計を終えるまで傍らで見ていた。僕以外の客がいなくなった店内は、いつもよりも静かで仄暗い。寂しくなった棚には焼き菓子が入っていたであろうバスケットが乱雑に散らばっていて、客が奪い合うようにして買っていったのだなと想像できる。奥さんがおもむろに口を開いた。
「人生は色々あるからねぇ。結婚して十年経たないと分からないこともあるのよね」
「本当に。でも嫌な終わり方じゃなかったので、それほどダメージはありません」
「福島さんなら、またすぐにいい人が見つかるわよ」
頭の片隅にぼんやり川原くんを描く。僕は彼を好きで、有難いことに彼も僕を好きだと言ってくれているが、手放しで喜べない関係だし、一生一緒にいられる相手ではないだろう。僕がそうしたいと望んでも。そんな複雑な想いが反映されてか、わけありげに微笑を浮かべる僕に、奥さんは勘付いた。
「ふふ、いるんじゃない、一緒に食べる人が」
と、ころころパイが入った包みを指した。
「あ――……、はは。なんというか、……はい」
「遠慮しなくていいのよ。別れたばっかりで、なんて思わないから。あなたが選んだのだから、素敵な方なのでしょ」
「……素敵な人です。ただ、僕にはあまりにも勿体ないし、僕といることで確実に明るい世界を歩いては行けないので」
「明るい世界って? どうしてあなただと駄目なの」
「……それは、……僕は、バツイチですし、けっこう年が離れてるんです。一緒に並んで歩くにはあまりにもアンバランスで」
奥さんは「何をそんなことを」と、笑った。
「年の差、いいじゃない。そんな若い子の心を掴んだあなたって素敵よ。バツイチは今時ステータスなくらいよ。自信持って!」
それでも僕は心から「ありがとうございます」とは言えなかった。
「わたしには言えない関門があるのでしょうけど、もし今は駄目だとしても、本当に縁があれば必ず一緒になるわ」
そして奥さんは改めて僕に向き直る。
「だから、それ。その人と一緒に食べてちょうだい」
僕はころころパイの入った包みをしっかりと抱く。僕と川原くんでひとつずつ食べて、残りのひとつは半分こにして食べようか。
今日、この店を出たら『ふるーら』の奥さんとは、もう会うことはないだろう。僕はしっかりと握手をして、どうかいつまでも元気で、と願った。
「その人と幸せになったら、きっとわたしに知らせてちょうだいね」
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- Posted in: ★ひとりぼっちにさよなら
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