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 外回りに出ていて、街中でウィンドブレーカーを着た中学生の集団とすれ違った。突としてさくらのことを思い出す。
かなえとさくらが九州に帰ってから二週間が経つが、連絡らしい連絡はない。唯一、サインされた離婚届とともに「荷物は改めて取りに行きます。学校の手続きはしておきます」という手紙が一通届いただけだ。春休みは確か四月上旬までで、あと五日もすれば終わる。一度家に戻って来るとすればこの数日のあいだだろう。それまでに離婚届にサインはしておき、最後にかなえとさくらとちゃんと話をしてから、役所に行くつもりだった。

「離婚届」という文字に多少の動揺はあったが、僕自身も決めたことだし、悔いはない。離れていても僕がさくらの父親であることは一生変わらないし、さくらには幸せになって欲しい。ただ、娘の安定した幸せを願う一方で、娘と年の変わらない男の子に身も心も溺れている自分はどうなんだろう。僕が彼に夢中になる度に、ひとりの青年の自由を拘束して、本来進むべき未来を潰しているんじゃないだろうかと、そんな罪意識に時々、囚われる。

 土曜の朝だった。川原くんからの「今日、空いてますか?」というメッセージの通知音で目が覚めた。既に正午を回っていたので、一時に駅前広場で待ち合わせの約束を取り付けた。髭を剃り、髪を整え、余所行きのニットに腕を通していざ玄関の戸を開けた時、思いがけず出くわした人物に時が止まった。

「お父さん」

「さ、さくら」

 パーカーとデニム、マフラー、片手には小さなボストンバッグを持ったさくらが、ひとりで家に戻って来たのだ。

「どうしたんだ。お母さんは?」

「明日、荷物を取りに来るの。あたしだけ先に……来たんだけど」

 すると、さくらはボロボロと泣きだした。

「お願い、別れないでよぉ~」

 女の子の涙、とりわけ娘の涙に困惑しがちの僕は、慌てて宥めながら家の中に入れた。ソファに座らせ、インスタントコーヒーを出す。「コーヒーは嫌い」と拒否された。
 川原くんには、申し訳ないが日を改めて欲しいと、急いでメッセージを入れておいた。

「……なんにもいらないから、お願いだから離婚しないで」

 ものすごく胸が痛む頼み事だ。娘のお願いはできることなら聞いてやりたいが、今回ばかりは無理だった。僕はさくらの隣に座って、ひと言「ごめんな」と言うことだけで精一杯だった。

「九州に行く前、お父さんとお母さんが喧嘩してるの、聞いちゃったの。……ごめんなさい、あたしがあんまり生意気で言うこと聞かなくて我儘だったから、お父さんも嫌になったんでしょ?」

 さくらがすべて自分のせいだと思い込んでいることにショックを受け、僕はそれは違うと強く否定した。

「でも、何も話してくれないからって言ってた」

「確かに、話し掛けても返事がなくて、学校の出来事もちゃんと聞けなかったのは寂しいとは思ったよ。でも自分から積極的に聞かなかったお父さんも悪いんだ。さくらのせいじゃないよ。嫌なことを聞かせてしまってごめんね」

「じゃあ、お母さんとも仲直りしてくれる?」

「……ごめんね、それは無理なんだ」

「なんで!?」

「お父さんとお母さんは、ずっと前からすれ違ってたんだ。お互い、不満を溜めすぎて、何から伝えればいいのか分からなくなって、いざ伝えたら傷つけ合うことしかできなくなった。もっとこまめに話し合えばよかったのに、それをしなかったから駄目になってしまったんだよ。お母さんのことは嫌いじゃないよ。お母さんもさくらも、お父さんにとって大事な人であることに変わりはないんだ」

「……お母さんも同じこと言ってたけど、嫌いじゃないなら離婚までしなくてもいいじゃん」

 その意識はかなえも同じだったのだな、と、ここにきて意見が合ったことが、嬉しくもあり、悲しくもある。

「家族って言ってもやっぱり人間だからね。お互いに認めて尊敬することが大事だとお父さんは思うんだよ。どれだけ喧嘩をしても、相手にひとつでも尊敬できるところがあれば寄り添え合えるんだ。でも何もなければ『どうして一緒いるんだろう』って疑問を抱いてくる。お父さんとお母さんはお互いに嫌いじゃないけど、たぶん尊敬とか思いやりとか、そういうのがなくなってたんだと思う。そんな状態で一緒にいても、お互いストレスになるだけなんだ。本当にごめんね、勝手な両親で。さくらには申し訳ないと思ってる」

 さくらが小さい頃、可愛い声で「お父さん、お願い」と言われれば、ぬいぐるみでもお菓子でもなんでも買ってあげていた。甘やかしすぎだとかなえに怒られるほどだった。そんな僕が「お願い」と言われても首を縦に振らないのだから、さくらも本当に無理なのだと理解し始めている。しくしくとすすり泣くばかりだ。

「九州で、高校、いいところあった?」

「……ん」

「ごめんな、K高行きたかったんだろ」

「どうせ行かせたくなかったくせに」

 それには苦笑いを返した。

「あたしだって、分かってたよ。彼氏のために志望校変えるとか馬鹿だなって。言ったら反対されるのも分かってた」

「知ってるよ」

「だからお父さんが、お母さんに『大人にとっては下らなくても、さくらにとっては下らなくない』って言ってくれて嬉しかったよ」

「ありがとう」

「でもどうせ彼氏とは別れたし安心して」

 今までの心配はなんだったのかという気抜けに笑ってしまった。

「でも、絵を勉強してみたかったのも本当だからね。お父さんからあの絵、見せられた時、ショックだった。あたしには無理なんだと思った」

「あれはお父さんも狡かったかもしれない」

「ぐちゃぐちゃにしてごめんなさい。……お父さんの好きな絵描きさんなんでしょ?」

 かなえとの話を聞いていたのなら、川原くんのことも聞いているだろう。娘にこんなことを話すのは残酷な気もするが、僕は正直に話した。

「さくらのSNS見てK高に行きたい理由を知った時、お父さんも下らないって思ったよ。しかもたった十四歳で彼氏なんか作ってって、腹も立った」

「……」

「でも、その絵描きさんに会って、さくらのことを相談した時に気付いたんだ。好きな人の好みを知りたい、合わせたい、なるべく近いところにいたいって思うのは、悪いことじゃないよなって」

「お父さんも、その絵描きさんのこともっと知りたいと思った……?」

 僕は含み笑いをして、迷いながら、心から済まなく想いながら、そして自信を持って頷いた。

「さくらが彼氏と同じ志望校に行きたかった気持ちは今なら分かるよ。……まあ、でもお前はまだまだこれからだから、いろんな出会いがたくさんあるから、そんな時からひとつに絞る必要はないんじゃないかな。……って、あの時怒鳴らずに言えたら良かったね」

 また泣きだすさくらの頭を抱える。サラサラの黒い、長い髪だ。

「あの絵を見せて、お前の絵に対する興味を潰してしまって悪かった。本当に習いたいなら諦めないでやりなさい。始めるのが遅いとか、才能とか関係ないから。あの絵描きさんもね、厳しい環境の中で悩みながら描いてるよ。真面目に誠実に取り組んでいたら、努力は報われる」

「……うん、でも色々考えてみる。あと一年あるし。もっとお父さんに早く相談してればよかった」

「連絡はいつでも取れるんだから、何かあったら言いなさい」

「そうする。……本当に離婚はしちゃうんだね」

「うん」

「お父さん、お母さんと知り合った時も、知りたいとか一緒にいたいとか思った?」

「当たり前じゃないか。思わないと結婚しなかったよ。ちょっとすれ違っただけだよ」

「そう。……あたしもあの人の絵、好きだよ」

 それを聞いて、今度は僕が泣けてきた。「なんでお父さんが泣くの」とさくらに笑われながら。

 かなえは翌日の午前中に来て、本当に必要最低限のものだけを段ボールに詰め込んだ。互いに顔を合わせても動じることなく普通に接することはできた。けれども再び寄り添い合うという選択肢はやはりなく、話をしていても壁を一枚隔てたように、他人行儀ではあった。そんな僕らを見て悲しそうにするさくらを見るのは辛かった。ただ、罵り合って終わるような、そんな別れ方じゃなかったことだけは、せめてもの救いだったと思う。僕が離婚届を役所に出したのは、その三日後のことだった。


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