14
―――
離婚話をしたあとなら、さぞ気まずいだろうと思っていたのだが、悲しいことにそのあとの僕らの生活に、ほとんど変化がなかった。朝起きて、挨拶だけをして、無言で朝食を摂って各自仕事に出掛ける。今までとなんら変わりない。それほど、僕とかなえは希薄な夫婦だったということだ。娘という細い細い糸でやっと繋がっているだけの、ギリギリ夫婦だったのだ。
さくらはそんな僕らの機微に勘付いたのかもしれない。いつもより多弁だったり、向こうから挨拶してくることが増えた。こんな思春期の娘に気を使わせて申し訳ないとは思うのだけど、僕にできることは、なるべくさくらの前では笑顔でいることだけだった。そして一週間後、春休みに入ったさくらを連れて、かなえは名残惜しさを微塵も感じさせずに九州へ帰った。
三十の時、ローンを組んで立てた一戸建て。北欧風がいいの、とはしゃぐ妻の意見を尊重して、白を基調にした。日当たりのいいリビング、玄関が鬼門にならないようにと方角まで調べて、すべてかなえの希望通りに建てた。
カウンターの上の多肉植物や、ショーケースの中の食器、部屋の至るところに妻と娘の好みが残ったこの広い家で、僕はとうとうひとりぼっちになった。長すぎる沈黙を僅かに助けてくれるのは、エアコンの風と時計の針の音くらい。テレビを点けて楽しそうなバラエティで無理やり笑おうとしても、脳内をすり抜けていくだけで虚しくなるばかり。
床下に収納しておいた缶ビールを全部冷蔵庫に詰め込み、近くのスーパーであえて体に悪そうなジャンキーなつまみばかりを買って来て、それを肴に一晩中酒を飲んだ。シングルベッドが二台並んだ寝室に入りたくなくて、薄い毛布だけでソファで寝落ちる毎日。それでも変わらず朝はやって来て、仕事に向かわなければならない。
ストックしてあった酒を飲み切って、いよいよすることがなくなった時、僕は酔いの回った頭で思い出したようにスーツのポケットを漁った。やっぱり捨てていない。我ながら未練たらしい男だ。川原くんから渡された紙切れに書かれた番号に、僕は電話を掛けた。
「………あ、もしもしぃ? 川原くん~? 僕だよ、僕」
電話の向こうの川原くんは戸惑ったように「福島さん?」と訊ねた。外にいるのか、電車が通過する音が聞こえた。
「そう福島だよ。幸薄いのに『福』なんて大層な字が付いたふくしまだよ」
ソファに寝転び、テーブルの上にある空になったビールの缶を振る。
『……酔ってるんですか?』
「うん、そぉ。酔ってるんだぁ。久しぶりに浴びるようにお酒ばっかり飲んでる。美味しいねぇ、お酒って」
『どうかしたんですか……?』
「声が聞きたくなっただけだよー……。何してるの?」
『え……、あ、大学で課題の絵を描いてて、今、帰りです』
「えぇ~? もう十時だよぉ、遅すぎるよ~。大変なんだねぇ、美大生って」
後ろの方で「留衣」と呼ぶ声がした。女の子の声だった。こんな夜遅くまで、女の子と一緒に課題をしてたら、いい雰囲気になるだろうな。彼女を作れと言ったのは僕なのに、本当にそんな事態を目の当たりにするとひどく妬けた。
「ごめんね、邪魔して……。いきなり電話掛けちゃって……」
『福島さん、何かあったんですか?』
「ないよ、なんにも。僕は……僕には何も残ってない……」
『今、どこにいるんです?』
「ん~家だよ。みゆき通り分かる? そこにね~真っ白な家建てたの。『みゆき通り』の『福島』さんなんて、どんな幸せ者だよって感じだよね。実際は寂しいひとりぼっちのオヤジだよ……。妻と娘は出て行くし、やってられないよね……ごめんね、もう切ります」
一方的に喋って醜態をさらした挙句、通話を切ったあとは一瞬で眠りに落ちた。その後、何度か掛かってきた電話に気付かずに。
――……さん、福島さん。
電話の川原くんの声も、聞き心地の良い声だった。まわりのノイズなんてまったく気にならないくらい、クリアで。声を聞いた瞬間に目がとろん、として眠たくなって、僕にとって彼は精神安定剤のようなものかもしれない。
――福島さん。
夢の中でもえらくリアルな声だ。真っ暗な闇の中で、川原くんの声だけが聞こえる。目が覚めたら、この声も聞けなくなるのかと思うと起きるのが惜しい。
「福島さん」
肩を揺すられて、強制的に眠りから引き戻された。人は唐突に目覚めると記憶が飛ぶらしい。ここはどこなのか、僕は何をしていたのか、今何時なのかが分からず、暫く目を泳がせた。僕の顔を覗き込んだ意外な人物に、眠気も酔いも吹き飛んだ。
「か、川原くん?」
「すみません、夜分に。『みゆき通りの福島さん』、というのを頼りに探し回って、やっと辿り着きました。迷惑だとは分かってるんですけど、福島さんの様子がおかしいのがどうしても心配で。人の気配はないし、電話しても繋がらなくて……。そこの窓から福島さんがひとりなのを見て、鍵も開いてたし、勝手に入っちゃいました。ごめんなさい」
そう言って、リビングの掃き出し窓を指した。
「……ほんもの?」
「まぼろしじゃないですよ。良かった、寝てるだけで。倒れてるんじゃないかと焦りました」
僕は腕を伸ばして川原くんのもみあげあたりに触れた。甲で頬をひと撫でする。すべすべした柔らかい、餅のような肌だ。
「……だめだよ、こんなところに来ちゃ……」
「ごめんなさい。無事だと分かったんで、帰ります」
駄目だよと言っておきながら、立ち上がった川原くんの手首をしっかり握って引き止めた。
「ここにいて欲しい」
勿論、川原くんは驚いたが、「分かりました」と僕の目の前にしゃがむ。川原くんの前なのに気を引き締めることも格好もつけられず、ボロ雑巾のように横たわったまま動けなかった。よほどひどい有様なのか、川原くんはそんな僕の頭を、慰めるように撫でてくれた。これじゃあ、どっちが子どもか分からない。けれどもとても気持ちが良い。頭を撫でられるなんて、下手したら小学生ぶりだ。川原くんの背後にあるテーブルの上は、ビールの缶やつまみのビニールなどが散乱していてあまりに汚い。その横に広げっぱなしの川原くんの絵がある。僕の視線を追った川原くんが、絵を取った。皺だらけの絵を見てどう思うだろうか。こんなことならちゃんと仕舞っておけばよかった。
「ごめんね、せっかく描いてくれた絵なのに、そんな皺くちゃで……」
「まだ持っててくれてたんですか」
「当たり前だよ、僕の宝物だからね。……僕はきみに嘘をついたんだ……」
やっと上半身を起こしたが、体も頭も重くてうなだれる。
「川原くんに娘のことでアドバイスをもらった日、言われた通り怒らないでおこうと思ったんだよ。途中までは落ち着いて話せたんだけど、なかなか話が通じなくて結局怒鳴ったんだよね。今まで怒鳴ったことなんかなかったのに。きみの絵を見せて、お前の行こうとしている道は厳しいよって伝えようとしたんだけど、ぐちゃぐちゃにされちゃって……。だからそんなに、皺だらけなんだけど。……伸ばしても伸ばして綺麗にならなくて……」
心底情けなくて涙が出てくる。俯いているから、一度涙が滲むとあっという間に零れる。眼鏡に水滴が乗ったせいで視界がぼやけて、今度は笑えてきた。
「娘のSNSを妻に黙ってたことを責められて、そこから夫婦喧嘩。今までの溜まりに溜まった鬱憤をぶつけ合ったよ。あーお互いに、もう情なんてものはないんだなって……。それでアッサリ『別れましょう』って。先週、出てったんだ。ふふっ、張り合いがないんだって。僕といてもつまらないって。なんで結婚したんだろうね」
昔から道を間違えないように真面目に生きてきた。羽目を外してみたいと思うこともあったけど、やったあとで後悔したくないから結局無難なほうを選ぶ。勇気がなかったとも言えるけど。保守的で何が悪い。人間、最後に笑うのは誠実に生きている奴だ。張り合いってなんだ。テレビの芸人のように面白い漫才でもやってれば笑ってくれるのか。言いたいことを好きなだけ言えば、毎日喧嘩になってスリリングで刺激的だろうけど。そうなったらそうなったで、きみは文句を言うんだろ?
だけど、僕にも非はあった。かなえの言う通り、話を聞きたいなら自分から積極的に向かえばよかったのだ。話してくれないから、返事をしないから、それを言い訳にして傷付くのが怖くて逃げた。家族と溝ができたのを、妻と娘のせいにしたのだ。
「長所もない、特技もない、野心もない。そんな僕が結婚できただけでも奇跡なんだ。それなのに、家族がいるのに他の人に惹かれた僕が馬鹿だったんだ……出て行って当然だ……」
川原くんは慰めようとしてくれているのか、僕の手を軽く握った。だが、細くて瑞々しい指を、僕は握り返せなかった。
「福島さんは、素敵です」
「……」
「優しくて思いやりがあって、一緒にいると自分も優しくなれるような気がします。何かを企んでいるとか、下心があるわけじゃないのに、人をそういう気分にさせてくれるって才能だと思うんです」
「下心なんて、ありまくりだよ。今だってそうだ。家族と離れて寂しいからって、川原くんに冷たいことを言っておきながらこうやって電話して、傍にいてもらってる。……できれば抱き締めたいとも思う。僕が今まで何をしてきたか分かる? 何度も夢の中できみを抱いてきたんだよ。……僕には家族がいるのにって、そんな後ろめたさにすら興奮したよ。最低だろう。こんな気味の悪い僕に優しくしてくれなくていいよ」
ようやく頭が冴えてきた。いつまでも川原くんを引き止めておくわけにいかない。僕は自分勝手な真似をして悪かった、と詫びて彼の手から逃れた。しかし川原くんはさっきよりも強く僕の手を握る。
「福島さんが好きです」
思いも寄らない告白に川原くんを見据えた。最も嬉しい言葉だが、最も聞いてはいけない言葉でもある。
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離婚話をしたあとなら、さぞ気まずいだろうと思っていたのだが、悲しいことにそのあとの僕らの生活に、ほとんど変化がなかった。朝起きて、挨拶だけをして、無言で朝食を摂って各自仕事に出掛ける。今までとなんら変わりない。それほど、僕とかなえは希薄な夫婦だったということだ。娘という細い細い糸でやっと繋がっているだけの、ギリギリ夫婦だったのだ。
さくらはそんな僕らの機微に勘付いたのかもしれない。いつもより多弁だったり、向こうから挨拶してくることが増えた。こんな思春期の娘に気を使わせて申し訳ないとは思うのだけど、僕にできることは、なるべくさくらの前では笑顔でいることだけだった。そして一週間後、春休みに入ったさくらを連れて、かなえは名残惜しさを微塵も感じさせずに九州へ帰った。
三十の時、ローンを組んで立てた一戸建て。北欧風がいいの、とはしゃぐ妻の意見を尊重して、白を基調にした。日当たりのいいリビング、玄関が鬼門にならないようにと方角まで調べて、すべてかなえの希望通りに建てた。
カウンターの上の多肉植物や、ショーケースの中の食器、部屋の至るところに妻と娘の好みが残ったこの広い家で、僕はとうとうひとりぼっちになった。長すぎる沈黙を僅かに助けてくれるのは、エアコンの風と時計の針の音くらい。テレビを点けて楽しそうなバラエティで無理やり笑おうとしても、脳内をすり抜けていくだけで虚しくなるばかり。
床下に収納しておいた缶ビールを全部冷蔵庫に詰め込み、近くのスーパーであえて体に悪そうなジャンキーなつまみばかりを買って来て、それを肴に一晩中酒を飲んだ。シングルベッドが二台並んだ寝室に入りたくなくて、薄い毛布だけでソファで寝落ちる毎日。それでも変わらず朝はやって来て、仕事に向かわなければならない。
ストックしてあった酒を飲み切って、いよいよすることがなくなった時、僕は酔いの回った頭で思い出したようにスーツのポケットを漁った。やっぱり捨てていない。我ながら未練たらしい男だ。川原くんから渡された紙切れに書かれた番号に、僕は電話を掛けた。
「………あ、もしもしぃ? 川原くん~? 僕だよ、僕」
電話の向こうの川原くんは戸惑ったように「福島さん?」と訊ねた。外にいるのか、電車が通過する音が聞こえた。
「そう福島だよ。幸薄いのに『福』なんて大層な字が付いたふくしまだよ」
ソファに寝転び、テーブルの上にある空になったビールの缶を振る。
『……酔ってるんですか?』
「うん、そぉ。酔ってるんだぁ。久しぶりに浴びるようにお酒ばっかり飲んでる。美味しいねぇ、お酒って」
『どうかしたんですか……?』
「声が聞きたくなっただけだよー……。何してるの?」
『え……、あ、大学で課題の絵を描いてて、今、帰りです』
「えぇ~? もう十時だよぉ、遅すぎるよ~。大変なんだねぇ、美大生って」
後ろの方で「留衣」と呼ぶ声がした。女の子の声だった。こんな夜遅くまで、女の子と一緒に課題をしてたら、いい雰囲気になるだろうな。彼女を作れと言ったのは僕なのに、本当にそんな事態を目の当たりにするとひどく妬けた。
「ごめんね、邪魔して……。いきなり電話掛けちゃって……」
『福島さん、何かあったんですか?』
「ないよ、なんにも。僕は……僕には何も残ってない……」
『今、どこにいるんです?』
「ん~家だよ。みゆき通り分かる? そこにね~真っ白な家建てたの。『みゆき通り』の『福島』さんなんて、どんな幸せ者だよって感じだよね。実際は寂しいひとりぼっちのオヤジだよ……。妻と娘は出て行くし、やってられないよね……ごめんね、もう切ります」
一方的に喋って醜態をさらした挙句、通話を切ったあとは一瞬で眠りに落ちた。その後、何度か掛かってきた電話に気付かずに。
――……さん、福島さん。
電話の川原くんの声も、聞き心地の良い声だった。まわりのノイズなんてまったく気にならないくらい、クリアで。声を聞いた瞬間に目がとろん、として眠たくなって、僕にとって彼は精神安定剤のようなものかもしれない。
――福島さん。
夢の中でもえらくリアルな声だ。真っ暗な闇の中で、川原くんの声だけが聞こえる。目が覚めたら、この声も聞けなくなるのかと思うと起きるのが惜しい。
「福島さん」
肩を揺すられて、強制的に眠りから引き戻された。人は唐突に目覚めると記憶が飛ぶらしい。ここはどこなのか、僕は何をしていたのか、今何時なのかが分からず、暫く目を泳がせた。僕の顔を覗き込んだ意外な人物に、眠気も酔いも吹き飛んだ。
「か、川原くん?」
「すみません、夜分に。『みゆき通りの福島さん』、というのを頼りに探し回って、やっと辿り着きました。迷惑だとは分かってるんですけど、福島さんの様子がおかしいのがどうしても心配で。人の気配はないし、電話しても繋がらなくて……。そこの窓から福島さんがひとりなのを見て、鍵も開いてたし、勝手に入っちゃいました。ごめんなさい」
そう言って、リビングの掃き出し窓を指した。
「……ほんもの?」
「まぼろしじゃないですよ。良かった、寝てるだけで。倒れてるんじゃないかと焦りました」
僕は腕を伸ばして川原くんのもみあげあたりに触れた。甲で頬をひと撫でする。すべすべした柔らかい、餅のような肌だ。
「……だめだよ、こんなところに来ちゃ……」
「ごめんなさい。無事だと分かったんで、帰ります」
駄目だよと言っておきながら、立ち上がった川原くんの手首をしっかり握って引き止めた。
「ここにいて欲しい」
勿論、川原くんは驚いたが、「分かりました」と僕の目の前にしゃがむ。川原くんの前なのに気を引き締めることも格好もつけられず、ボロ雑巾のように横たわったまま動けなかった。よほどひどい有様なのか、川原くんはそんな僕の頭を、慰めるように撫でてくれた。これじゃあ、どっちが子どもか分からない。けれどもとても気持ちが良い。頭を撫でられるなんて、下手したら小学生ぶりだ。川原くんの背後にあるテーブルの上は、ビールの缶やつまみのビニールなどが散乱していてあまりに汚い。その横に広げっぱなしの川原くんの絵がある。僕の視線を追った川原くんが、絵を取った。皺だらけの絵を見てどう思うだろうか。こんなことならちゃんと仕舞っておけばよかった。
「ごめんね、せっかく描いてくれた絵なのに、そんな皺くちゃで……」
「まだ持っててくれてたんですか」
「当たり前だよ、僕の宝物だからね。……僕はきみに嘘をついたんだ……」
やっと上半身を起こしたが、体も頭も重くてうなだれる。
「川原くんに娘のことでアドバイスをもらった日、言われた通り怒らないでおこうと思ったんだよ。途中までは落ち着いて話せたんだけど、なかなか話が通じなくて結局怒鳴ったんだよね。今まで怒鳴ったことなんかなかったのに。きみの絵を見せて、お前の行こうとしている道は厳しいよって伝えようとしたんだけど、ぐちゃぐちゃにされちゃって……。だからそんなに、皺だらけなんだけど。……伸ばしても伸ばして綺麗にならなくて……」
心底情けなくて涙が出てくる。俯いているから、一度涙が滲むとあっという間に零れる。眼鏡に水滴が乗ったせいで視界がぼやけて、今度は笑えてきた。
「娘のSNSを妻に黙ってたことを責められて、そこから夫婦喧嘩。今までの溜まりに溜まった鬱憤をぶつけ合ったよ。あーお互いに、もう情なんてものはないんだなって……。それでアッサリ『別れましょう』って。先週、出てったんだ。ふふっ、張り合いがないんだって。僕といてもつまらないって。なんで結婚したんだろうね」
昔から道を間違えないように真面目に生きてきた。羽目を外してみたいと思うこともあったけど、やったあとで後悔したくないから結局無難なほうを選ぶ。勇気がなかったとも言えるけど。保守的で何が悪い。人間、最後に笑うのは誠実に生きている奴だ。張り合いってなんだ。テレビの芸人のように面白い漫才でもやってれば笑ってくれるのか。言いたいことを好きなだけ言えば、毎日喧嘩になってスリリングで刺激的だろうけど。そうなったらそうなったで、きみは文句を言うんだろ?
だけど、僕にも非はあった。かなえの言う通り、話を聞きたいなら自分から積極的に向かえばよかったのだ。話してくれないから、返事をしないから、それを言い訳にして傷付くのが怖くて逃げた。家族と溝ができたのを、妻と娘のせいにしたのだ。
「長所もない、特技もない、野心もない。そんな僕が結婚できただけでも奇跡なんだ。それなのに、家族がいるのに他の人に惹かれた僕が馬鹿だったんだ……出て行って当然だ……」
川原くんは慰めようとしてくれているのか、僕の手を軽く握った。だが、細くて瑞々しい指を、僕は握り返せなかった。
「福島さんは、素敵です」
「……」
「優しくて思いやりがあって、一緒にいると自分も優しくなれるような気がします。何かを企んでいるとか、下心があるわけじゃないのに、人をそういう気分にさせてくれるって才能だと思うんです」
「下心なんて、ありまくりだよ。今だってそうだ。家族と離れて寂しいからって、川原くんに冷たいことを言っておきながらこうやって電話して、傍にいてもらってる。……できれば抱き締めたいとも思う。僕が今まで何をしてきたか分かる? 何度も夢の中できみを抱いてきたんだよ。……僕には家族がいるのにって、そんな後ろめたさにすら興奮したよ。最低だろう。こんな気味の悪い僕に優しくしてくれなくていいよ」
ようやく頭が冴えてきた。いつまでも川原くんを引き止めておくわけにいかない。僕は自分勝手な真似をして悪かった、と詫びて彼の手から逃れた。しかし川原くんはさっきよりも強く僕の手を握る。
「福島さんが好きです」
思いも寄らない告白に川原くんを見据えた。最も嬉しい言葉だが、最も聞いてはいけない言葉でもある。
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