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2019・04・09(MON)00:00 Category 未分類
言うまでもありませんが、これまで僕は同性をそういう対象で見たことがありませんでした。
今思えば彼が僕に優しかったのは、僕が彼の数少ないファンだったからだと思います。
勿論、僕も最初は純粋に彼の絵に惹かれただけでした。けれどもあまりに私生活に満たされなかったから、少し優しくもらえただけで、彼も僕に好意的であると勘違いをしていたのでしょう。彼の親切がファンに対する気遣いだと早く気付くべきだったのに、僕は自分に優しくしてくれる存在に浮かれ、ファンを拗らせた。
僕は妻と娘がいながら、男である彼に、完全に恋をしてしまったのです。
***
その後、余計なことを考える暇もないくらい仕事が忙しくなったのは良かった。
締め切りがあったり急ぎの仕事が大量にあるわけではないのだけど、大きな案件が立て続けに入ったので気が休まる時がなかった。仕事で神経を使ったあとは接待で飲みに行くことも多々あり、帰宅するのはかなえとさくらが寝てからになる。疲れていると朝もギリギリまで寝たいので、朝食は摂らずに出勤時間直前に起きる。だから家族とはすれ違いの生活だった。
寝て、起きて、仕事をして、合間に食事をして、帰ったらすぐに寝る。飲み会がなくても帰りが遅くなる日は外で夕食を済ませるようにしているので、温かい料理どころか妻の手料理すら食べられない日が続いた。まるで独身に戻ったような気分だが、川原くんを記憶の彼方へ追いやるには都合の良い期間だった。忙しいのが過ぎた頃には彼のことも気の迷いだったと整理がつくだろうし、今度こそちゃんと家族との時間を大事にしたい。
そう決めた矢先のことだった。
「福島課長、もしかして携帯持ってないんですか?」
「え?」
部下に言われてスーツのすべてのポケットを叩き、鞄の中も見てみたけれど、スマートフォンがない。
「家に忘れたかな。仕事用の携帯なら持ってるから、今日はそっちに掛けてくれる?」
「分かりました」
僕は普段、スマートフォンと仕事用のガラパゴス携帯を持っている。スケジュールの管理はスマートフォン、急ぎの連絡は携帯電話でやり取りする。スケジュールの管理と言っても、それもまた別に手帳を持ち歩いているので、仕事中にスマートフォンは滅多に使わない。だからスマートフォンがなくてもそれほど慌てないのだ。想定外の事態を除いては。
久しぶりに早めに仕事を終え、今日は家で夕飯を摂れるなと、内心わくわくしながら午後八時頃に職場を出た。
「ただいま」
少し明るめの声で帰宅する。珍しくリビングから顔を出したかなえだが、どういうわけか顔をしかめていた。
「おかえりなさい。今日は早いのね」
「……? 仕事が落ち着いたからね」
ネクタイを解きながらリビングに入ると、食卓には僕一人分だけの食事があった。なんだか手をつけてはいけないような気がした。着替える暇もなく「話があるの」とかなえが持ち掛けてくる。ただならぬ空気を感じてワイシャツの第一ボタンを外しただけで、手も洗えずにダイニングテーブルに着席した。向かいに座ったかなえがおもむろに僕にスマートフォンを出す。
「あ、やっぱり家にあったのか」
「ベッドの下に落ちてたわ」
「ありがとう」
取ろうとしたら、スッと避けられた。
「あなた、さくらがK高志望した理由はさくらのSNSで知ったんですってね」
「……そうだけど」
「わたしはしたことないから知らないんだけど、あれって、ユーザー登録してないと見られないんでしょ? さくらがね、お父さんはSNSとか疎そうなのに、なんで始めたんだろうって不思議がってたの」
「さくらがのめり込んでるようで心配だったから、悪いとは思ったけど登録して検索した」
「本当にそれだけ?」
「何が知りたいんだ」
「川原留衣って、誰?」
喉から心臓が飛び出るかと思った。かなえの口から川原くんの名前を出されると、他の人が言うより何倍も違和感があった。やっと忘れかけていたのに、どうしてここに来て、しかも妻から蒸し返されなきゃならないのだ。僕はヒヤヒヤしながらどう説明しようかと考えに考えた。
「アーティストだよ。絵描きさん。よく駅や街の路上で描いてる人いるだろう? 興味本位で一度描いてもらったら、それから親しくなった。それだけ」
もしかなえが僕のページを見たとしても、変なやりとりはしていないはずだ。「素敵ですね」とか「頑張って下さい」とかその程度だ。だが、僕は自分のページはフォロワーしか見られないように閲覧制限をしているので、普通に検索しただけでは見られないはずだ。まさか、と予想は当たった。
「検索しても出てこないから、スマートフォン見せてもらったんだけど」
「勝手に見たのか」
「だって、昔からわたしがあなたのスマートフォンを触ろうが見ようが、何も言わなかったじゃない」
何も言わないから許可している、という認識は僕にはない。少し苛立った。
「フォローしてるのは川原って子だけで、その子としかやり取りしてないようだけど……。本当に何もないの?」
「ないよ」
「でもダイレクトメールや、普通のメールでもやり取りしてるわよね。わたしとさくらが実家に帰ってる日、休日出勤だからって家を出た日、その子と会ってたんでしょ?」
メールもSNSも、ログイン状態にしていれば誰でも見ることができる。ログアウトする作業を怠ったのは完全に僕のミスだが、まさかメールも見られていたとは思わなかった。しかもかなえがなんの悪びれもなく言うことに不信感を抱く。
「プライベートで会うほど仲が良いの? この川原って子のページも見たけど、この子、大学生よね? しかも、さくらのことをわたしじゃなくてこの子に相談してるってどういうこと? 個人的な家庭の事情を、こんな赤の他人に話したの?」
ああ、これだ、とげんなりした。かなえと話すのに気を遣う原因のひとつが質問攻めだ。どうして順を追って落ち着いて聞けないのかと思う。僕は小さく溜息をついて、ひとつずつ説明した。
「絵を描いてもらったのがきっかけで、仲良くなって、何度かプライベートでも会った。さくらのことを話したのは、彼がさくらと年が近いから、彼の方がさくらの気持ちをより理解できるんじゃないかと思って、意見を聞いただけだよ。あと、K高は芸術の高校だろ? その子は美大生だから、K高がどんなところなのか知ってるかと思って。……たいして知りもしない他人に家庭の事情を話したのは確かに僕が迂闊だった。でも彼はいい子だよ。ただ偶然知り合って、話を聞いてもらった。それだけの関係だ」
「どうしてさくらのこと、わたしに真っ先に話してくれなかったの」
僕がどうして話さなかったのか、本当に思い当たることはないのだろうか。いつもなら黙って飲み込む僕も、今回ばかりは自分の気持ちを包み隠さず話した。
「きみはカッとなると、すぐに声を荒げて責め立てるだろ? きみに話したら、たぶんさくらを頭ごなしに責めるだろうという予想は付いていたから、話さなかったんだ。いくら志望理由が僕らにとっては下らないことでも、さくらにとっては下らないことじゃない。本人の希望や考えを鼻から無視して反対するのはどうなんだろう、って僕は思ったから、僕がさくらの考えを聞いて諭したあとで、かなえに報告しようと思ってた」
「わたしは信用できなかったってこと? わたしはあの子の母親で、ずっとあの子を見てきたわ。わたしのほうがあの子のこと分かってるのよ。大体、あなただって結局怒鳴ったじゃない。そのあともわたしには何も話してくれなかった」
「怒鳴ったのは、僕が悪かった。話さなかったのは、さくらが自分の口から説明するべきかなと思ったから」
「中途半端なのよ! 口を出すならわたしに全部報告してよ! それが嫌なら何もしないでよ!」
「きみはあの子の母親と言うけど、僕はあの子の父親だ。口を出して何が悪いんだ。大体、報告しろって、話し掛け辛い雰囲気を作ってるのはかなえだろう。さくらの学校生活での話や家の中のことも、僕は知らないから聞きたいんだよ。でもきみもさくらも何も話してくれないじゃないか。話し掛けても返事はしない、目は合わない。だから僕は僕なりに知ろうとしてるんだ」
かなえはしかめ面のまま目を逸らした。そしてそれには触れずに質問を変える。
「……どうして休日出勤だなんて嘘までついて、その川原って子に会ったの? さくらのことを相談するためだけに?」
それはごもっともだ。たぶん、あの日僕が「出掛けて来る」としか言わなくても、かなえなら「ふーん」で終わっていただろう。
嘘をついたのは、僕の気持ちの問題だ。用があるわけでもないのに、ただ僕が彼に会いたかったから、……彼を好きだから、堂々と「行ってくる」と言えなかったのだ。さすが女の勘は鋭い。言い淀んでいたらいきなり核心を突いてきた。
「何かこの子に特別な想いでもあるんじゃないの?」
「……僕は彼のファンだから……。彼の描く絵を好きだからだよ。……それだけ」
彼自身を好きだとかなえに言えるはずがないのだが、自分の気持ちを誤魔化すというのはすごく苦しいことだ。
そしてかなえは僕のスマートフォンを手に取り、勝手に操作する。今更何も言うまいと、やらせておいた。見ているのはたぶん、川原くんのSNSだ。スクロールする指が止まり、暫く渋い顔で画面を眺めていた。
「ファンになるほどの絵じゃないじゃない。所詮、素人でしょ」
「でも僕は好きなんだよ」
かなえは、今度は鼻で笑い出した。
「ファンって曖昧よね。最初は作品を好きでも、本人を知ったら好意は作品から本人へ変わるのよね。わたしもむかーし、そういう経験あったわ。作品のファンから本人のファンになって、最終的に恋になるの。この子は男だからなんとも言えないけど、SNSでのやり取りやメールや、あなたの行動を見たら、ただのファンとは思えないのよね。家庭に不満があるから、その不満を埋めてくれる川原留衣にすがっているように見えるのだけど」
ここまで言い当てられたら逆にすごいな、と感心してしまう。かなえは、僕が「違う」と否定すると想定してわざと挑戦的な言い方をしているのだろうが、僕が慌てふためくのを待っているようにも見えた。その落ち着きように、もう本当にかなえの中に僕はいないのだと確信した。
「……そうだね」
かなえは大きく目を見開いた。さすがに肯定したのは予想外だったようだ。
「きみがどう言おうと、僕は彼と彼の作品のファンだよ。そして家庭での不満を彼に打ち明けることで気持ちが救われたのも事実だ」
「何が不満だったのよ」
「かなえが僕には興味がないのはもう分かってるよ。話をするのも億劫なんだろ。夫婦生活もしたくないんだろう。僕は外で働いて、家にお金を入れて、家事育児に口を出さなければいい。きみはそう考えている。違う?」
「……」
「それって、僕にとっては寂しいことなんだよ。僕はかなえとさくらと楽しいことも哀しいことも嬉しいことも共有したいのに、それを遮断されている。僕ってなんなんだろう。何度も思ったよ。そんな時に僕の話を聞いてくれたんだ、彼は。年はかなり違うけど、僕は彼を尊敬しているし、感謝してる」
「なによ……そんなの自分からもっと話し掛けてくればいいじゃない。全部人にせいにしないで」
「……僕にも非があったんだろうというのも、分かってる」
「あなたはわたしに不満があったかもしれないけど、わたしだってあったわ。あなたは真面目で誠実でそこがいいところなんだけど、やっぱりそれだけじゃ退屈だった。旅行へ行くのも、買い物へ行くのも、行き先を決めるのは全部わたし。あなたはいつだって『なんでもいいよ』。張り合いがなくてつまらなかった。それこそ『この人、わたしに興味がないのかしら』って、何度も思ったわ。そういうのがいいって人も世の中にはたくさんいるけど、わたしは無理。だからさくらが小学校に入ってから仕事を始めたの」
「僕がそういう人間だと分かってて結婚したんじゃないのか」
「分かってても、いざ結婚して何年も経ったら、理想と現実の違いにガッカリだってするじゃない! あなたもそうでしょ!? だから不満だったんでしょ!?」
この流れは完全にまずいなと、頭の中ではひどく冷静なのに打開策が見つからない。ついさっきまで、家に帰るまでは川原くんのことはなかったことにして家族と向き合おうと前向きでいたのに、今では修復に絶望している。今更「歩み寄りたい」なんて言おうものなら、綺麗ごとにもほどがある。先に決断をしたのはかなえだった。
「別れましょうか」
ただ付き合っている男女が別れるのとはわけが違う。離婚は当人同士だけじゃなく、周りも巻き込む。何より考えなくちゃいけないのはさくらのことだ。どちらが引き取るのか、かなえが引き取るとしたら苗字が変わることに抵抗があるかもしれないし、周囲の反応を気にする多感な時期だ。かなえもそのくらいは分かっているはずだ。それなのになんの躊躇もなく「別れる」というのだから、ずっと考えていたことなのだろう。もしかしてここ最近、九州によく帰省していたのは義両親に相談しに行っていたからじゃないだろうか。
次第にクラクラと眩暈がしだして、僕はかえって冷静だった。
「今年はさくらが受験生なのに……急すぎないか」
「ちょうどいいわよ。K高に行かせずに済むんだから。……とはいえ、さすがにすぐってわけにはいかないから、春休みに入ったら九州に帰るわね。少し距離を置きましょう。わたしたち、きっとすれ違いすぎたのね。もうね、あなたにちっとも気持ちが残ってないの。あなたもでしょ? いくら不満があったからって、二十も年が離れた男にすがるなんてよっぽどよ。やり直せる自信がないわ」
言いたかったことを言えてせいせいしたのか、かなえはすっきりした様子で席を立ち、和室へ向かう。僕は「分かった」とも「嫌だ」とも言えなかった。どっちを言えばいいのか分からないのだ。だが、返事を迷うということは、僕も内心では離婚したほうがいいと考えているのかもしれない。かなえの言う通り、僕はいつでもかなえの意見に従うばかり。こんな大事な決断さえも。頼りないと言われても仕方がないことだった。
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言うまでもありませんが、これまで僕は同性をそういう対象で見たことがありませんでした。
今思えば彼が僕に優しかったのは、僕が彼の数少ないファンだったからだと思います。
勿論、僕も最初は純粋に彼の絵に惹かれただけでした。けれどもあまりに私生活に満たされなかったから、少し優しくもらえただけで、彼も僕に好意的であると勘違いをしていたのでしょう。彼の親切がファンに対する気遣いだと早く気付くべきだったのに、僕は自分に優しくしてくれる存在に浮かれ、ファンを拗らせた。
僕は妻と娘がいながら、男である彼に、完全に恋をしてしまったのです。
***
その後、余計なことを考える暇もないくらい仕事が忙しくなったのは良かった。
締め切りがあったり急ぎの仕事が大量にあるわけではないのだけど、大きな案件が立て続けに入ったので気が休まる時がなかった。仕事で神経を使ったあとは接待で飲みに行くことも多々あり、帰宅するのはかなえとさくらが寝てからになる。疲れていると朝もギリギリまで寝たいので、朝食は摂らずに出勤時間直前に起きる。だから家族とはすれ違いの生活だった。
寝て、起きて、仕事をして、合間に食事をして、帰ったらすぐに寝る。飲み会がなくても帰りが遅くなる日は外で夕食を済ませるようにしているので、温かい料理どころか妻の手料理すら食べられない日が続いた。まるで独身に戻ったような気分だが、川原くんを記憶の彼方へ追いやるには都合の良い期間だった。忙しいのが過ぎた頃には彼のことも気の迷いだったと整理がつくだろうし、今度こそちゃんと家族との時間を大事にしたい。
そう決めた矢先のことだった。
「福島課長、もしかして携帯持ってないんですか?」
「え?」
部下に言われてスーツのすべてのポケットを叩き、鞄の中も見てみたけれど、スマートフォンがない。
「家に忘れたかな。仕事用の携帯なら持ってるから、今日はそっちに掛けてくれる?」
「分かりました」
僕は普段、スマートフォンと仕事用のガラパゴス携帯を持っている。スケジュールの管理はスマートフォン、急ぎの連絡は携帯電話でやり取りする。スケジュールの管理と言っても、それもまた別に手帳を持ち歩いているので、仕事中にスマートフォンは滅多に使わない。だからスマートフォンがなくてもそれほど慌てないのだ。想定外の事態を除いては。
久しぶりに早めに仕事を終え、今日は家で夕飯を摂れるなと、内心わくわくしながら午後八時頃に職場を出た。
「ただいま」
少し明るめの声で帰宅する。珍しくリビングから顔を出したかなえだが、どういうわけか顔をしかめていた。
「おかえりなさい。今日は早いのね」
「……? 仕事が落ち着いたからね」
ネクタイを解きながらリビングに入ると、食卓には僕一人分だけの食事があった。なんだか手をつけてはいけないような気がした。着替える暇もなく「話があるの」とかなえが持ち掛けてくる。ただならぬ空気を感じてワイシャツの第一ボタンを外しただけで、手も洗えずにダイニングテーブルに着席した。向かいに座ったかなえがおもむろに僕にスマートフォンを出す。
「あ、やっぱり家にあったのか」
「ベッドの下に落ちてたわ」
「ありがとう」
取ろうとしたら、スッと避けられた。
「あなた、さくらがK高志望した理由はさくらのSNSで知ったんですってね」
「……そうだけど」
「わたしはしたことないから知らないんだけど、あれって、ユーザー登録してないと見られないんでしょ? さくらがね、お父さんはSNSとか疎そうなのに、なんで始めたんだろうって不思議がってたの」
「さくらがのめり込んでるようで心配だったから、悪いとは思ったけど登録して検索した」
「本当にそれだけ?」
「何が知りたいんだ」
「川原留衣って、誰?」
喉から心臓が飛び出るかと思った。かなえの口から川原くんの名前を出されると、他の人が言うより何倍も違和感があった。やっと忘れかけていたのに、どうしてここに来て、しかも妻から蒸し返されなきゃならないのだ。僕はヒヤヒヤしながらどう説明しようかと考えに考えた。
「アーティストだよ。絵描きさん。よく駅や街の路上で描いてる人いるだろう? 興味本位で一度描いてもらったら、それから親しくなった。それだけ」
もしかなえが僕のページを見たとしても、変なやりとりはしていないはずだ。「素敵ですね」とか「頑張って下さい」とかその程度だ。だが、僕は自分のページはフォロワーしか見られないように閲覧制限をしているので、普通に検索しただけでは見られないはずだ。まさか、と予想は当たった。
「検索しても出てこないから、スマートフォン見せてもらったんだけど」
「勝手に見たのか」
「だって、昔からわたしがあなたのスマートフォンを触ろうが見ようが、何も言わなかったじゃない」
何も言わないから許可している、という認識は僕にはない。少し苛立った。
「フォローしてるのは川原って子だけで、その子としかやり取りしてないようだけど……。本当に何もないの?」
「ないよ」
「でもダイレクトメールや、普通のメールでもやり取りしてるわよね。わたしとさくらが実家に帰ってる日、休日出勤だからって家を出た日、その子と会ってたんでしょ?」
メールもSNSも、ログイン状態にしていれば誰でも見ることができる。ログアウトする作業を怠ったのは完全に僕のミスだが、まさかメールも見られていたとは思わなかった。しかもかなえがなんの悪びれもなく言うことに不信感を抱く。
「プライベートで会うほど仲が良いの? この川原って子のページも見たけど、この子、大学生よね? しかも、さくらのことをわたしじゃなくてこの子に相談してるってどういうこと? 個人的な家庭の事情を、こんな赤の他人に話したの?」
ああ、これだ、とげんなりした。かなえと話すのに気を遣う原因のひとつが質問攻めだ。どうして順を追って落ち着いて聞けないのかと思う。僕は小さく溜息をついて、ひとつずつ説明した。
「絵を描いてもらったのがきっかけで、仲良くなって、何度かプライベートでも会った。さくらのことを話したのは、彼がさくらと年が近いから、彼の方がさくらの気持ちをより理解できるんじゃないかと思って、意見を聞いただけだよ。あと、K高は芸術の高校だろ? その子は美大生だから、K高がどんなところなのか知ってるかと思って。……たいして知りもしない他人に家庭の事情を話したのは確かに僕が迂闊だった。でも彼はいい子だよ。ただ偶然知り合って、話を聞いてもらった。それだけの関係だ」
「どうしてさくらのこと、わたしに真っ先に話してくれなかったの」
僕がどうして話さなかったのか、本当に思い当たることはないのだろうか。いつもなら黙って飲み込む僕も、今回ばかりは自分の気持ちを包み隠さず話した。
「きみはカッとなると、すぐに声を荒げて責め立てるだろ? きみに話したら、たぶんさくらを頭ごなしに責めるだろうという予想は付いていたから、話さなかったんだ。いくら志望理由が僕らにとっては下らないことでも、さくらにとっては下らないことじゃない。本人の希望や考えを鼻から無視して反対するのはどうなんだろう、って僕は思ったから、僕がさくらの考えを聞いて諭したあとで、かなえに報告しようと思ってた」
「わたしは信用できなかったってこと? わたしはあの子の母親で、ずっとあの子を見てきたわ。わたしのほうがあの子のこと分かってるのよ。大体、あなただって結局怒鳴ったじゃない。そのあともわたしには何も話してくれなかった」
「怒鳴ったのは、僕が悪かった。話さなかったのは、さくらが自分の口から説明するべきかなと思ったから」
「中途半端なのよ! 口を出すならわたしに全部報告してよ! それが嫌なら何もしないでよ!」
「きみはあの子の母親と言うけど、僕はあの子の父親だ。口を出して何が悪いんだ。大体、報告しろって、話し掛け辛い雰囲気を作ってるのはかなえだろう。さくらの学校生活での話や家の中のことも、僕は知らないから聞きたいんだよ。でもきみもさくらも何も話してくれないじゃないか。話し掛けても返事はしない、目は合わない。だから僕は僕なりに知ろうとしてるんだ」
かなえはしかめ面のまま目を逸らした。そしてそれには触れずに質問を変える。
「……どうして休日出勤だなんて嘘までついて、その川原って子に会ったの? さくらのことを相談するためだけに?」
それはごもっともだ。たぶん、あの日僕が「出掛けて来る」としか言わなくても、かなえなら「ふーん」で終わっていただろう。
嘘をついたのは、僕の気持ちの問題だ。用があるわけでもないのに、ただ僕が彼に会いたかったから、……彼を好きだから、堂々と「行ってくる」と言えなかったのだ。さすが女の勘は鋭い。言い淀んでいたらいきなり核心を突いてきた。
「何かこの子に特別な想いでもあるんじゃないの?」
「……僕は彼のファンだから……。彼の描く絵を好きだからだよ。……それだけ」
彼自身を好きだとかなえに言えるはずがないのだが、自分の気持ちを誤魔化すというのはすごく苦しいことだ。
そしてかなえは僕のスマートフォンを手に取り、勝手に操作する。今更何も言うまいと、やらせておいた。見ているのはたぶん、川原くんのSNSだ。スクロールする指が止まり、暫く渋い顔で画面を眺めていた。
「ファンになるほどの絵じゃないじゃない。所詮、素人でしょ」
「でも僕は好きなんだよ」
かなえは、今度は鼻で笑い出した。
「ファンって曖昧よね。最初は作品を好きでも、本人を知ったら好意は作品から本人へ変わるのよね。わたしもむかーし、そういう経験あったわ。作品のファンから本人のファンになって、最終的に恋になるの。この子は男だからなんとも言えないけど、SNSでのやり取りやメールや、あなたの行動を見たら、ただのファンとは思えないのよね。家庭に不満があるから、その不満を埋めてくれる川原留衣にすがっているように見えるのだけど」
ここまで言い当てられたら逆にすごいな、と感心してしまう。かなえは、僕が「違う」と否定すると想定してわざと挑戦的な言い方をしているのだろうが、僕が慌てふためくのを待っているようにも見えた。その落ち着きように、もう本当にかなえの中に僕はいないのだと確信した。
「……そうだね」
かなえは大きく目を見開いた。さすがに肯定したのは予想外だったようだ。
「きみがどう言おうと、僕は彼と彼の作品のファンだよ。そして家庭での不満を彼に打ち明けることで気持ちが救われたのも事実だ」
「何が不満だったのよ」
「かなえが僕には興味がないのはもう分かってるよ。話をするのも億劫なんだろ。夫婦生活もしたくないんだろう。僕は外で働いて、家にお金を入れて、家事育児に口を出さなければいい。きみはそう考えている。違う?」
「……」
「それって、僕にとっては寂しいことなんだよ。僕はかなえとさくらと楽しいことも哀しいことも嬉しいことも共有したいのに、それを遮断されている。僕ってなんなんだろう。何度も思ったよ。そんな時に僕の話を聞いてくれたんだ、彼は。年はかなり違うけど、僕は彼を尊敬しているし、感謝してる」
「なによ……そんなの自分からもっと話し掛けてくればいいじゃない。全部人にせいにしないで」
「……僕にも非があったんだろうというのも、分かってる」
「あなたはわたしに不満があったかもしれないけど、わたしだってあったわ。あなたは真面目で誠実でそこがいいところなんだけど、やっぱりそれだけじゃ退屈だった。旅行へ行くのも、買い物へ行くのも、行き先を決めるのは全部わたし。あなたはいつだって『なんでもいいよ』。張り合いがなくてつまらなかった。それこそ『この人、わたしに興味がないのかしら』って、何度も思ったわ。そういうのがいいって人も世の中にはたくさんいるけど、わたしは無理。だからさくらが小学校に入ってから仕事を始めたの」
「僕がそういう人間だと分かってて結婚したんじゃないのか」
「分かってても、いざ結婚して何年も経ったら、理想と現実の違いにガッカリだってするじゃない! あなたもそうでしょ!? だから不満だったんでしょ!?」
この流れは完全にまずいなと、頭の中ではひどく冷静なのに打開策が見つからない。ついさっきまで、家に帰るまでは川原くんのことはなかったことにして家族と向き合おうと前向きでいたのに、今では修復に絶望している。今更「歩み寄りたい」なんて言おうものなら、綺麗ごとにもほどがある。先に決断をしたのはかなえだった。
「別れましょうか」
ただ付き合っている男女が別れるのとはわけが違う。離婚は当人同士だけじゃなく、周りも巻き込む。何より考えなくちゃいけないのはさくらのことだ。どちらが引き取るのか、かなえが引き取るとしたら苗字が変わることに抵抗があるかもしれないし、周囲の反応を気にする多感な時期だ。かなえもそのくらいは分かっているはずだ。それなのになんの躊躇もなく「別れる」というのだから、ずっと考えていたことなのだろう。もしかしてここ最近、九州によく帰省していたのは義両親に相談しに行っていたからじゃないだろうか。
次第にクラクラと眩暈がしだして、僕はかえって冷静だった。
「今年はさくらが受験生なのに……急すぎないか」
「ちょうどいいわよ。K高に行かせずに済むんだから。……とはいえ、さすがにすぐってわけにはいかないから、春休みに入ったら九州に帰るわね。少し距離を置きましょう。わたしたち、きっとすれ違いすぎたのね。もうね、あなたにちっとも気持ちが残ってないの。あなたもでしょ? いくら不満があったからって、二十も年が離れた男にすがるなんてよっぽどよ。やり直せる自信がないわ」
言いたかったことを言えてせいせいしたのか、かなえはすっきりした様子で席を立ち、和室へ向かう。僕は「分かった」とも「嫌だ」とも言えなかった。どっちを言えばいいのか分からないのだ。だが、返事を迷うということは、僕も内心では離婚したほうがいいと考えているのかもしれない。かなえの言う通り、僕はいつでもかなえの意見に従うばかり。こんな大事な決断さえも。頼りないと言われても仕方がないことだった。
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