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 さくらは部活で学校に行っているし、予定のない休日にかなえは家から出ることはほとんどない。かなえに休日出勤すると嘘をついて、わざわざスーツを着てまでのこのこ美術館へ足を運ぶ僕は最低だ。

 川原くんに会うのはこれで最後にするつもりだった。少し話をしたらさっさと帰ろうと決めて、あらかじめメールでどの展示で案内をしているのかを聞き、わざと別の展示を選んだ。
 今日の展示はフェルメールとドガだ。川原くんはフェルメール展のほうにいるらしいので、僕はドガ展へ行く。「ドガ」と聞いてもいまいちピンと来なかったが、「花のブーケとダンス」の絵を見て「ああ、これか」と合致した。小学生の頃、学校の廊下にこの「花のブーケとダンス」のレプリカが飾られていたのを覚えている。名画に対して不気味と言っちゃなんだが、どこか悪寒がするような写実に「十秒以上、絵を見つめるとバレリーナが躍り出して呪われる」という怪談があった。いま思えば馬鹿げた話だが、当時はそれを信じて見ないようにしていたものだ。あまり良い覚え方ではないけれど、そんな形でも記憶に残るのだから芸術のインパクトって凄いんだな、なんて小学生のような感想しか出てこない。
 
 ドガは人の動きを描くのが得意で、何度も何度もデッサンを重ねていたという(パンフレットより)。ありふれた日常のさりげない表情をたくさん残し、多くの評価を得た。
 駅前広場で道行く人を描いていた川原くんを思う。彼もいつかそうやって認められていくのだろうと思うと、嬉しい反面寂しくもなる。みんなに知って貰いたいという純粋な気持ちと、完全に手が届かない存在になるのが寂しいという独占欲みたいなものだ。やっぱり僕の彼に対する想いは浅ましい。

 ギャラリーを出ると、川原くんが待っていた。バイトが終わったのか、分厚いパーカーとマフラーを巻いて帰り支度を済ませている。マフラーは、僕があげたものだった。

「お久しぶりです、福島さん」

「久しぶりだね。今日は声を掛けてくれてありがとう」

 日曜なのにスーツ姿の僕を見て、川原くんは不思議そうに訊ねた。

「……お仕事だったんですか?」

「あ、ああ。うん。これから、ちょっとね」

 仕事などないし、もう帰るだけだが、あまり一緒にはいられないから嘘をついた。勘のいい川原くんのことだからすぐに退くだろうと思ったのに予想外に食い下がってきた。

「何時に終わります? 今日、時間ありますか?」

「いや、えっと、今日はちょっと無理だ」

「……じゃあ、これ」

 と、言って、電話番号を書いた紙切れを渡された。

「あれからずっと気になってて。福島さんに相談されて偉そうに色々言っちゃったのも反省してて……どうなったかなって心配で。時間ができたら、電話して下さい。またお話したいんですけど」

「いやっ、きみが反省するようなことなんて何もないよ。相談に乗ってくれて本当に有難かった。娘とは……まあ、色々あるけど、その件はなんとかなったから大丈夫だよ。何も連絡せずに申し訳なかった。だから気にしないで」

 じゃあ、と区切りをつけようとしても川原くんは下がらない。

「あの、でも……お忙しいとは思うんですけど、……少しだけでいいから……」

 そんな置き去りにされそうな犬のような眼で見上げられたら、せっかく固めた決心が揺らぐ。僕の中で「ここではっきり振り切らないと駄目だ」と警告する天使と、「本人が頼んでるんだから最後くらいもっと一緒にいろよ」と囁く悪魔が喧嘩している。散々悩んだ挙句に僕が出した答えは、

「…………少しだけなら」

 二階のカフェはあいにく閉店していて、寒空の下で店を探す作業も手間だからと、川原くんのアパートに呼ばれた。いやいや、そんな素性もよく知らない男をやすやすと部屋に上げちゃ駄目だろう、と注意したいところだが、そのくらい警戒されていないということかもしれない。何より、僕が川原くんの部屋を見てみたいという不純な願望があったことも否めない。けれども、そんな僕のやましさは、部屋の中に通されるなりどこかへ吹き飛んだ。

 六帖の部屋を埋め尽くすのは、たくさんの絵だった。ローテーブルにも勉強机にも、壁にも、あらゆる場所に彼の絵があった。サイズがバラバラなキャンバスにはデッサンから油絵から……なんの材料か分からないもので描いた絵まで、様々だ。その中には見たことがある絵がいくつかあった。

「あ、この絵」

 ボヘミアグラスの花瓶に生けられた花と、果物の絵。SNSで見て「イイネ」を押した。

「練習で描いた絵です。あんまり上手く描けなかったんですけど、福島さんが素敵ですねってコメント下さったんで、ちょっと気に入ってます」

 おそらく「他人に褒められて初めて、良さに気付いたから」という程度だろうが、こんな簡単に誤解を招く言い方をしていたら、僕のような人間にすぐ勘違いされそうだ。

 川原くんは「退けますね」と、それらをパッ、パッと束ねて、席を確保した。折り畳み式テーブルの前で畏まって座る。学生の一人暮らしのアパートにスーツというのが落ち着かない。色々見渡したいが、あまりキョロキョロするのもいやらしいので、僕は正座したままずっと俯いていた。川原くんがキッチンで動いている物音だけに耳を傾ける。やかんでお湯を沸かし、カップを並べ、ぷつぷつという小さな泡の音と共に、やがて香ばしいコーヒーの香りが漂った。

「どうぞ」

「あ、ありがとう」

 大きなマグカップに注がれたブラックコーヒー。川原くんはテーブルを挟んで僕の向かいに腰を下ろした。すべて見抜かれそうな大きな眼は訝しげに僕を見つめている。目を合わせたら誤魔化し切れなくなりそうで、顔を上げることができなかった。

「……お仕事忙しいんですか?」

「うん。だからコーヒー飲んだら、帰るね」

「体の調子が悪いとか、ないです?」

「ないよ。どうして?」

「え……サラリーマンってよく忙しくて過労死するイメージだから……」

 思わず噴き出した。

「みんながみんな過労死するわけじゃないよ」

「SNSで全然見なくなったから、体壊してるんじゃないかと思ってました」

 こんな他人を心配してくれるなんて、つくづく優しい子だ。気持ちは嬉しいけれど、優しくされると胸が痛む。僕は仕事で使う、俗に言う「営業スマイル」を作ってみせた。

「先日は相談に乗ってくれて本当にありがとう。川原くんのアドバイス通り、落ち着いて娘と話し合ってみたら、娘も理由を自分から話してくれた。受験はこれからだから、まだ色々あるだろうけど、妻とも話し合えたし、丸く収まったよ。きみには感謝してる」

 一度深く頭を下げ、少しずれた眼鏡を直して続けた。

「SNSは、もともと苦手だし、仕事してると見る暇なくてさ。僕は銀行マンなんだけど、月末や年度末に向けてこれからまた忙しくなると思う。ごめんね、心配かけて。僕はこの通り元気だから、気にしないでくれ」

 川原くんの眉を寄せた怪訝そうな表情はまだ変わらない。ちら、と彼の横にあるマフラーを見る。

「そのマフラー、使ってくれてるんだね。でも捨てていいからね」

「捨てません」

「僕に気を遣わなくていい。そうそう会うこともないし」

「……会ってくれないんですか?」

「会う理由がないだろう」

「俺は福島さんからすればずっと子どもで、話し相手には物足りないかもしれないけど、俺は福島さんといるの楽しいです。できればこれからも色んな話をしたい」

 話をするだけの関係で満足できるなら、僕だって拒んだりしない。今はそれで充分でも、こうやって何度も会ううちに、僕はいつか犯罪者になるだろう。今の時点で、こうして二人きりでいるだけで心臓が壊れそうだし、実物と話していても夢の中の彼が脳内をちらついて冷静でいられないのだ。川原くんの純粋さに救われながらも苛立ってしまう。

「僕は、会えないんだ」

「なんでですか?」

「ほら、だって年も随分違うし、取りまく環境が違うだろ。きみは学生、僕は社会人、僕は家庭があるし、きみは友人と過ごす時間が多い。それに、僕みたいなオヤジとつるんでるなんてみんなが知ったらビックリするよ。僕なんかといないで、彼女でも作りなよ」

 川原くんは次第に眉を緩ませて、今度は悲しそうな顔に変わった。きっと彼の場合、「年の離れた友人」という位置づけに新鮮さを感じているだけだ。こっちの気も知らないで無防備な真似は勘弁してほしい。
 僕は「これからも応援している」と強く言って鞄を取った。玄関に向かう僕の背中に川原くんは諦めない。

「俺が今も絵を描いているのは福島さんのおかげなんです!」

 不覚にも足を止めてしまった。

「俺には絵の才能も芸術のセンスもないんです。ずっと描き続けてきたからそれなりのレベルに達しただけで、俺なんかより才能のあるモンスターみたいな奴は大学に腐るほどいる。両親に大きな口を叩いて出て来た手前戻れないだけで、描くのが辛かった」

「……」

「何時間もかけて描いた絵は教授に一瞬で消されるし、奇抜な感覚を持つ奴らの中で俺はいつも個性がないと言われ続けてきました。絵描きにとってセンスと個性がないと言われるのは『描くのをやめろ』と言われているのと同じことです。せめて誰かひとりにでも俺の絵が届いてくれたらと思って駅前広場で絵を描くようになりました。誰も見てくれない中で、唯一福島さんだけが俺の絵を見てくれた。福島さんが褒めてくれたから、俺はまた描こうと思えたんです」

「大丈夫、きみはこれからの人間だ。続けていれば評価してくれる人は必ずいる。生まれたてのヒナが初めて見たものを親だと思うのと同じだよ。きみが初めて味わう挫折の中で最初に現れたのが僕だったから、自分を認める人間のひとりとして信頼しているだけだ。これからそんな人間はもっと出てくるだろうし、そうなれば僕のことなんか忘れるよ。きみが絵を続けるきっかけになれたのは嬉しい。あとはひたすら陰ながら見守ることにする」

「福島さんがいないと頑張れない……」

 僕は川原くんを睨み付けた。

「甘えたことを言っちゃいけない。仮にもアーティストになりたいんじゃないのか」

「……俺が福島さんと仲良くしたいと思うのは駄目なんですか」

「駄目だ。困る」

「困るって、なんで……」

「……あー……、もう、だから」

 やけくそになって僕は強く川原くんの腕を引き、抱き締めた。先日の親子ごっこのようなものじゃなく、あきらかに下心のある抱擁だ。川原くんは驚きのあまりか、体を強張らせて硬直している。首筋に鼻を当てるとビクッと怯える。温かい肌の匂い。

「……こーいう、ことなんだ」

 さすがに引いただろう。体を離すと川原くんは口をぽかんと開けて茫然としていた。

「きみの期待も家族も裏切りたくない」

 川原くんは今度こそ、追ってこなかった。


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