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「またそこのフィナンシェなの?」

 ダイニングテーブルに置いてある僕が買って来たフィナンシェを見て、かなえは顔をしかめた。

「一緒に食べない? ふるーら、もう店閉めるんだって」

「ふーん」

 店を閉める、と聞いて気が向いたのか、かなえは椅子に腰かけるとプレーンのフィナンシェに手を伸ばした。僕は向かいに座って、カカオのフィナンシェの封を切る。ひと口食べるとしっとりした生地から濃厚なカカオの味がした。無表情でもぐもぐと口を動かすかなえは、「もういいわ。太るし」と、半分残した。残すなら食べないで欲しい。

「さくらは? あれから何か話した?」

「まあね。全部聞いたわよ。彼氏と同じ高校に行きたいからなんでしょ? ほんっと下らないんだから。ま、あなたが怒鳴ってからすっかりショゲちゃってるから、わたしが説教するまでもないわね。ただ、あの怒り方はわたしでもちょっと驚いちゃったわ。さくらは怖かったと思うわよ。今度からいきなり怒鳴るのだけは、やめてあげてちょうだい」

「……分かった。気を付けるよ」

 時計の針は十一時半。さくらは寝ている。久しぶりの夫婦二人だけの時間だった。僕は開いてしまった距離を詰めるのには今がチャンスなのではないかと考えた。

「あ、あの、さ。かなえ。……もう寝る?」

「そうね。朝も早いし」

「……たまにはさ、一緒に寝る?」

 けれども、かなえは壁掛け時計にわざとらしく目をやったあと、あっさりと僕を拒絶した。

「今日は――、ちょっと風邪気味なの。あ、だからわたしは和室で寝るから、あなた先に上で寝てて」

 風邪気味なんて見え透いた嘘までついて、しかも同じ寝室で寝ることすら拒まれて、もう僕は本当に必要とされていないのだなと悟った。かなえが仕事を初めてどのくらいの稼ぎがあるのかも知らないが、金銭面で困っている素振りは見せたことがないので、ゆとりがあるのだろう。娘がいて、仕事もあって、九州は遠いけどお義父さんもお義母さんも協力的だ。僕ひとりがいないくらいでは、どうってことないのだ。

 ――じゃあ、僕はどうなる。

 かなえに今も恋愛感情があるかと聞かれたら、はっきり肯定できないのは正直なところだ。だけど長年連れ添ったパートナーだから、情はあるし、大切な存在だ。体の欲求不満も、たとえ余所で解消できるとしても、そこは妻だけでありたい。たまには体を重ねて情を確かめ合いたいと思う。特に僕たちは大事なことも話し合わない、会話のない夫婦なのだから、せめてそういったコミュニケーションくらいはないと、いよいよ距離は広がるばかりだ。それなのに、かなえはその必要もないとはっきり示した。

 娘には避けられ、仕事を生きがいにしているわけでもないし、両親は既に他界している。このまま疎外されたまま死んでいくのか。

 アロマライトだけがついた暗い寝室にひとりでいると、そんな虚しさに襲われた。僕はどうすればいいんだ。吐き出せない不満や寂しさをどうやって埋めればいいんだ。

 サイドテーブルに置いてある手帳を取り、川原くんに描いてもらった絵を広げる。皺は伸ばしても伸ばしてもなくならない。楽しそうな笑顔が皺のせいで寂しそうに見える。

「川原くん、頑張ってるのかな」

 ああ、彼の友人が羨ましい。叶うなら今すぐ十九に若返って、友人として川原くんといられたら楽しいだろうな。もし僕に絵の才能があって、彼と同じ美大生だったら……一緒に勉強をして、絵を描いて、冗談を言ったりふざけ合って笑って、SNSでも下らないやりとりをしていたかもしれない。

 ――思い出してしまった……今朝の夢。

 なんだってあんな夢を見たんだ。不埒にもほどがある。……だけど、きっと現実の川原くんも、白くて触り心地の良い肌なんだろう……。

 もう駄目だ。誤魔化しようがないくらいに脈を打つ。次第にズキズキ痛みだした。僕は罪悪感に苛まれながらも、下着の中に手を滑らせ、落ち着く気配のない自身をそっと握り締めた。この現象が久しすぎて、触るだけで肩が震える。欲望と背徳の狭間で、ゆっくり手を動かした。あっという間に快感に飲まれてしまう。興奮状態のぼんやりした意識の中にいるのは、

「……は、……川、原……くん」

 ――駄目だ駄目だ、僕には家族がいるのに、彼はさくらとそう年の変わらない学生で、しかも男なのに! こんなの間違っている!

 無理やり呼び戻そうとした理性も虚しく、僕は欲に負けて吐精した。ツン、と鼻をつく青臭さと、溢れんばかりの量に恥ずかしくなった。それほど溜め込んでいたということだ。  
 いくら妄想の中とはいえ、彼を慰み者にするなんて愚かすぎる。それなのに川原くんを思えばたちまち高鳴る鼓動を抑えきれないのだった。

 ひとたびそんな愚行をしてしまったが最後、僕はそれから何度か、彼を想って自慰をした。かなえは僕を拒否した夜から和室で寝ることが増えたので、ひとりでは広すぎる寝室を独占しては、その空虚を紛らわすかのように飢えた。ただの生理現象を処理しているだけなのに、浮気をしているような気分になる。
 妻と娘が寝静まった夜に、ひとりの若い男の子を忍び込ませて情事にふける。
 かなえとさくらが、僕がこんな変態だと知ったら間違いなく家を出て行くだろう。犯罪めいた夫を、父親を、嫌悪するに違いない。

 ***

 春一番を迎えて、冬が終わろうとしている。けれども肌に当たる風はまだ冷たく、早朝の車は窓ガラスが凍る。出勤一〇分前にはエンジンを掛けて車内を温めておくのだが、たった三分のその手間がなかなか面倒だ。荷物を取りに車庫から家に戻った時、玄関でさくらとすれ違った。

「おはよう、さくら」

 かなえに注意を受けてから怒鳴ったことを反省した僕は、いつも通りにさくらに接するようにしている。相変わらず返事はない。無言でスニーカーを履いて、赤いマフラーを巻きながら出ようとする。

「いってらっしゃい」

「……ってきます」

 僅かながらに反応があったことにホッとした。親子なのにどうしてこんなにギスギスしなければならないのだ。

「……はあ。仕事行くか」

 靴箱横のハンガーラックからコートを取った時だ。ブブ、とスーツの胸ポケットでスマートフォンが震えた。通知音の正体にギクリとする。川原くんから、SNSを通じてダイレクトメールが届いたのだ。

『お久しぶりです。川原です。最近、フェイスノートでもお見掛けしないので少し気になっています。あれから一ヵ月ほど経ちますが、娘さんとはどうですか? 今度の日曜日もスタッフとして美術館にいます。もし良かったら気分転換にでもお越しください。 

川原留衣』


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