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――息子がいたら、こんな感じだったのかなぁ。―—

 ……川原くん、温かったな。困ってたけど、それがまた可愛かった。
 きみは二年も家族に会わなくて寂しくないのか?
 僕が川原くんに頼ったように、川原くんも僕を頼ってくれたら、甘やかしてあげるのに。
 そうだな。ころころパイを食べて、頭も撫でてあげようか。十九の男の子は頭を撫でられるなんて嫌なんだろうか。

『撫でるのは頭だけですか?』

 えっ。

『肌にはけっこう自信あります。福島さんより若いから』

 そりゃ、そうだろうね。

『髪だけじゃなくて、全部撫でて下さい』

 だめだめ、何やってるの。寒いのに服なんか脱いじゃ駄目だよ!

『福島さんが抱き締めてくれたらあったかいから大丈夫』

 こ、こら! ぼ、僕には妻と娘が……っ、か、川原くん……かわ……、

「はっ!!」

 目覚めると爽やかで寒い朝。カーテン越しの朝日で部屋がうっすらと明るい。ここ最近なかった、男性特有の朝の現象に動揺してしまった。

「なんつー夢だ……」

 脂汗と動悸で息切れしている僕の隣ですやすやと眠るかなえに、ひどく罪悪感を覚えるのだった。

 ―――

 さくらとの話が一件落着したら、川原くんにお礼のメールをしようと思っていたのに、結局大失敗に終わったのでなんの報告もできなかった。せっかくもらったアドバイスを生かせず、情けなくてSNS越しにでも合わせる顔がない。最後に川原くんに会った日から、僕は一度も川原くんの投稿を見ていない。

 さくらとも気まずい関係が続いている。いつもなら朝起きると(僕が一方的に)挨拶ぐらいするのだけど、挨拶どころか目も合わせない。
 本当なら父親の僕が折れてやるべきなのだろう。けれども可愛い娘と言えども、こう何度もプライドを傷付けられてはそう簡単に折れてやる気になれなかった。
 かなえがさくらに好きな子がいることも、高校の志望理由も知っているのかは不明だ。僕から話すべきか悩んだが、ここはさくらが自分から打ち明けるべきだと考えて、何も言わないことにする。

 いつにも増して重苦しい空気が家の中を漂う。せめて職場だけでも楽しくいられたら、とは思うのだけど、金の絡む仕事では心は荒んでいくばかり。預金課から毎日のように「現金が合わない」と飛び交う悲鳴、窓口で「ばあさんの財産が残ってないか調べろ」と血眼で無茶を言う客、取引先の大手銀行に馬鹿にされて苛々する上司に、企業へ回って胃を痛めて帰って来る部下。融資を受けるために不正が行われていないか、嘘はないか、常々神経を使う。
 なんでもいいから心が休まる時が欲しい。しかし、そんな僕の願望とは裏腹に、悲しいお知らせは続くのだった。
 僕に掛かってきた一本の電話。相手は前の支店で一緒に仕事をしていた栗田だ。少し沈んだ声で、栗田は報告してきた。

「『ふるーら』、店、畳むらしいです」。

 仕事帰りに『ふるーら』へ寄ったら、奥さんはこの日最後のお客さんにケーキを渡していた。ドアの前で客とすれ違い、僕に気付いた奥さんは「あらあら」と嬉しそうに笑った。いつも笑顔の奥さんだが、少し疲れているように思える。
 店の奥はカフェになっていて、そこへ通された。もう誰もおらず、ところどころ電気が消されている。隅の席に座っていると、奥さんが紅茶と「ころころパイ」を持って来てくれた。

「すみません、お構いなく」

「食べてもらえると嬉しいの」

 ちょうど腹も減っていたので、僕は「いただきます」と、ころころパイに噛り付いた。普通のパイ生地にカスタードクリームが入っただけのよくあるものだけど、「ころころパイ」の人気の秘訣はパイ生地だ。ボロボロ崩れるただのパイ生地じゃなく、少し硬めでまとまりがあって、崩れにくい。噛み応えのあるパイ生地と、とろっ、と蕩けるバニラが効いたカスタードクリームとの相性抜群なこと。

「美味しいです」

「ふふ、嬉しい」

「このあいだ、知り合いにもこのパイ食べてもらったんです。美味しい美味しいって、ふたつ一気に食べてましたよ」

「このお菓子はね……人気あるの。これだけは」

 奥さんは声のトーンを低くして呟いた。僕は単刀直入に訊ねる。

「お店、閉められるんですか」

「ええ。もうね、ずっと前から考えていたことなの。……主人が、あまり体調が良くないの。朝が早い仕事だからゆっくり休めなくてね。それにホラ、どんどんお菓子屋さんが増えてきてるでしょ。もうキツイのよね」

 地域の企業とはほとんど取引があるので、長年勤めている僕は各企業がどんな状態か、大体把握している。歯科医院、美容院、今やコンビニほど店が溢れ、競争率の高い業界がたくさんある。独立して店を構えたものの、上手くいかずに借金だけ抱えて廃業した店を、腐るほど見てきた。お菓子業界もそうだ。次々にお洒落でフォトジェニックな店は増え、更にケーキに近くて、より安価なパン屋にまで脅かされる。
 紅茶に映ったライトが物悲しく揺れている。

「毎年クリスマスはね、幼稚園からケーキの注文があったのよ。ひとりひとりに配る用の、カップケーキみたいな小さいケーキ。でもそれも今年からはないの。他のケーキ屋さんにね、変えるんですって。そしたらいよいよ苦しいでしょ。いい機会だと思うの」

「……そうなんですね」

「来てくれてありがとう、福島さん。どうしてウチがおたくの銀行にしたか知ってる? 最近はホラ、インターネットで入金するのあるでしょ?」

「ああ、ネットバンキング」

「わたしはそういうの付いて行けなくて、分からないのよ。だから家まで集金に来てくれるのがすごく助かってたの。他の銀行はしてくれないの。おたくだけよ。嫌な顔しないで来てくれて本当にありがとう。店は閉めても、これからもよろしくね」

 最後に僕はまたフィナンシェを買って、店を出た。完全に店を閉めるまではまだ日にちがあるけれど、なくなってしまうのだと思うとやっぱり寂しい。せめて閉める前にもう一度だけでも、誰かとここに来られたらいいのだけど。と、僕の頭の中に浮かんだのは、あろうことか家族ではなく、川原くんだった。


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