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―――
かなえとさくらは日曜の夜遅くに帰ってきた。リビングのソファで新聞を読んでいたら、大荷物を抱えてリビングに入ってきたかなえが「起きてたのね」と、さもどうでもよさげに言った。
「おかえり、実家で休めた?」
「そこそこね。……さくらー、洗濯物出しといてちょうだいよ」
遠くのほうで「うん」と聞こえた。さくらは早々に自室に入ったようだ。帰ったならまず挨拶くらいしろ、とは思うけれど、ここはぐっと堪えて、進路の話をしにさくらの部屋に向かった。半開きのドアをノックする。
「なに?」
「おかえり、さくら。ちょっと、いいか」
今度の「なに?」は、やや身構えた様子だった。僕はかなえに聞こえないようにと、部屋に入ってドアを閉めた。真ん中のカーペットの上に正座すると、さくらも何かを感じたのか、ベッドに畏まって座った。
「さくら、もう一度聞かせて欲しいんだけど、K高志望は今も変わりない?」
「……その話? こないだ進路希望調査表に書いたばっかりだけど」
「じゃあ、今の第一志望はK高なんだな。あのね、お父さんはさくらがどうしてもそこに行きたいなら、いいと思う。だけど、どうしてそこに行きたいのか、理由を聞かせてくれないかな」
あからさまに不貞腐れた表情だが、僕に引く気がないと悟ると、重たげに口を開いた。
「……美術で描いたデッサンを褒められて、……それで、絵を描くのに興味が出たの……」
それは嘘ではないかもしれないが、それだけでは理由として弱すぎる。僕はフー、と息を吐いて呼吸を落ち着け、手に汗を握りながら白状した。
「ごめんな、お父さん、見ちゃったんだ。お前のSNS」
さくらは目を見開いて、一瞬で苛立ちを見せた。反発される前に言葉を続ける。
「ご飯中にさ、ずっとスマホいじってただろう? SNSの通知音も鳴りっぱなしだった。SNSをやっちゃいけないとは言わない。だけど、食事中や人と話している時に触らない。そういうけじめは大事だよ。のめり込んでいるようだったから、少し心配になって、覗いちゃったんだ」
「あたしのスマホ、勝手に見たってこと!?」
「いや、違う。……検索したら出てきた」
「サイテー!」
予想通りの反応だが、ここで引いたら解決しない。
「勝手に検索したことは謝る。ごめんね。だけど、さくらがK高に行きたいのは、本当は好きな男の子がK高に行くからなんだよね?」
「……」
「それが悪いって言ってるんじゃない。好きな子がいることも、付き合っているのも、それが真剣なら構わないよ。だけどね、人に影響されただけで自分の進路を決めちゃって、さくらは後悔しないか?」
「……しない」
「きっとそこへ入ったら、実技の勉強もいっぱいすると思うよ。付いて行ける?」
「理由がどうあれ、あたしがそこにどうしても行きたいなら構わないって言ったじゃん。どうしても行きたいんだから、それでいいじゃん!」
僕はポケットから手帳を出し、挟んでいる一枚の紙を差し出した。川原くんに描いてもらった絵だ。さくらは警戒しながらそれを取った。開いた絵を見て、眉を寄せる。
「お父さんの知り合いの子に描いてもらったんだ。その人は、小さい頃からずっと絵を描いてきて、美術の学校に入ったよ。そんな子がゴロゴロいる世界だよ。もしK高に入ったあとで、付き合っている子と別れたりしたら、さくらはそんな世界の中でひとりで頑張っていけるのかな」
「……」
「どうしても絵の勉強をしたいなら、お父さんは反対しないよ。でも普通科の高校からでも努力次第で美大にも行ける。もしかしたら三年間のあいだで他のことに夢中になるかもしれない。選択肢は多い方がいいと思うんだ。もう一度、よく考えてごらん」
ちょうど入浴を済ませたらしいかなえが「お風呂に入って!」とさくらを呼んだ。僕はこの辺で終わらせようと立ち上がる。背を向けたところでさくらが言った。うっかり聞き逃しそうなほどの小さな声で。
「……お母さんに何か言われたんでしょ」
「お母さんは知らないよ」
「お母さんにK高やめさせるように説得しろって言われたんじゃないの!?」
「お母さんには何も言ってないし、言われてないし、お父さんが思ってることを伝えただけだよ」
「嘘だっ、だってお父さん、いつもあたしにもお母さんにも何も言わないのに、こんな時だけ説教するなんておかしいよ!」
「……何も言わないのは、何も話してくれないからだよ。知らないから何も言えない。でも知ったら、お父さんはお父さんなりに考えるし、説教もする。悪いけど、お父さんはさくらが本当に絵を好きでK高を志望してると思えないんだ」
「こんな絵見せつけてまで諦めさせようとするなんて狡い!」
さくらは川原くんの絵を力任せにぐしゃぐしゃに丸め、そしてそれを僕に投げつけた。すぐに拾って皺を伸ばす。
「お父さんなんかどうせ力にならないくせに!」
「いい加減にしろ!!」
勢い余って怒鳴ってしまった。さくらがビクッと肩を跳ねさせる。
「我儘も大概にしなさい! 自分の意志もしっかり持たないで、そうやって反抗するばかりで人の意見も碌に聞かないのに応援しろって言うのが間違ってるだろう! お前ももうすぐ十五になるんなら、少しは真面目に考えたらどうなんだッ!」
バタバタと階段を駆け上がる足音が響き、かなえが「どうしたの」と慌てた様子で現れた。ここで全部話したら、余計ややこしくなるので、僕は無言でかなえに託し、部屋を出て行った。一階に降りるとさくらが声を上げて泣いているのが聞こえた。
僕はこれまでさくらを叱って泣かせたことなんかなかった。怒鳴るなんて以ての外だ。それでも抑えきれないほど怒りをぶつけてしまったのだ。
皺くちゃになった川原くんの絵を広げて、ますます悲しくなる。まるでぐちゃぐちゃに絡まって解けなくなった糸のように、家族三人の笑顔にたくさんの皺がついている。
「ごめんね、川原くん。……失敗したよ」
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かなえとさくらは日曜の夜遅くに帰ってきた。リビングのソファで新聞を読んでいたら、大荷物を抱えてリビングに入ってきたかなえが「起きてたのね」と、さもどうでもよさげに言った。
「おかえり、実家で休めた?」
「そこそこね。……さくらー、洗濯物出しといてちょうだいよ」
遠くのほうで「うん」と聞こえた。さくらは早々に自室に入ったようだ。帰ったならまず挨拶くらいしろ、とは思うけれど、ここはぐっと堪えて、進路の話をしにさくらの部屋に向かった。半開きのドアをノックする。
「なに?」
「おかえり、さくら。ちょっと、いいか」
今度の「なに?」は、やや身構えた様子だった。僕はかなえに聞こえないようにと、部屋に入ってドアを閉めた。真ん中のカーペットの上に正座すると、さくらも何かを感じたのか、ベッドに畏まって座った。
「さくら、もう一度聞かせて欲しいんだけど、K高志望は今も変わりない?」
「……その話? こないだ進路希望調査表に書いたばっかりだけど」
「じゃあ、今の第一志望はK高なんだな。あのね、お父さんはさくらがどうしてもそこに行きたいなら、いいと思う。だけど、どうしてそこに行きたいのか、理由を聞かせてくれないかな」
あからさまに不貞腐れた表情だが、僕に引く気がないと悟ると、重たげに口を開いた。
「……美術で描いたデッサンを褒められて、……それで、絵を描くのに興味が出たの……」
それは嘘ではないかもしれないが、それだけでは理由として弱すぎる。僕はフー、と息を吐いて呼吸を落ち着け、手に汗を握りながら白状した。
「ごめんな、お父さん、見ちゃったんだ。お前のSNS」
さくらは目を見開いて、一瞬で苛立ちを見せた。反発される前に言葉を続ける。
「ご飯中にさ、ずっとスマホいじってただろう? SNSの通知音も鳴りっぱなしだった。SNSをやっちゃいけないとは言わない。だけど、食事中や人と話している時に触らない。そういうけじめは大事だよ。のめり込んでいるようだったから、少し心配になって、覗いちゃったんだ」
「あたしのスマホ、勝手に見たってこと!?」
「いや、違う。……検索したら出てきた」
「サイテー!」
予想通りの反応だが、ここで引いたら解決しない。
「勝手に検索したことは謝る。ごめんね。だけど、さくらがK高に行きたいのは、本当は好きな男の子がK高に行くからなんだよね?」
「……」
「それが悪いって言ってるんじゃない。好きな子がいることも、付き合っているのも、それが真剣なら構わないよ。だけどね、人に影響されただけで自分の進路を決めちゃって、さくらは後悔しないか?」
「……しない」
「きっとそこへ入ったら、実技の勉強もいっぱいすると思うよ。付いて行ける?」
「理由がどうあれ、あたしがそこにどうしても行きたいなら構わないって言ったじゃん。どうしても行きたいんだから、それでいいじゃん!」
僕はポケットから手帳を出し、挟んでいる一枚の紙を差し出した。川原くんに描いてもらった絵だ。さくらは警戒しながらそれを取った。開いた絵を見て、眉を寄せる。
「お父さんの知り合いの子に描いてもらったんだ。その人は、小さい頃からずっと絵を描いてきて、美術の学校に入ったよ。そんな子がゴロゴロいる世界だよ。もしK高に入ったあとで、付き合っている子と別れたりしたら、さくらはそんな世界の中でひとりで頑張っていけるのかな」
「……」
「どうしても絵の勉強をしたいなら、お父さんは反対しないよ。でも普通科の高校からでも努力次第で美大にも行ける。もしかしたら三年間のあいだで他のことに夢中になるかもしれない。選択肢は多い方がいいと思うんだ。もう一度、よく考えてごらん」
ちょうど入浴を済ませたらしいかなえが「お風呂に入って!」とさくらを呼んだ。僕はこの辺で終わらせようと立ち上がる。背を向けたところでさくらが言った。うっかり聞き逃しそうなほどの小さな声で。
「……お母さんに何か言われたんでしょ」
「お母さんは知らないよ」
「お母さんにK高やめさせるように説得しろって言われたんじゃないの!?」
「お母さんには何も言ってないし、言われてないし、お父さんが思ってることを伝えただけだよ」
「嘘だっ、だってお父さん、いつもあたしにもお母さんにも何も言わないのに、こんな時だけ説教するなんておかしいよ!」
「……何も言わないのは、何も話してくれないからだよ。知らないから何も言えない。でも知ったら、お父さんはお父さんなりに考えるし、説教もする。悪いけど、お父さんはさくらが本当に絵を好きでK高を志望してると思えないんだ」
「こんな絵見せつけてまで諦めさせようとするなんて狡い!」
さくらは川原くんの絵を力任せにぐしゃぐしゃに丸め、そしてそれを僕に投げつけた。すぐに拾って皺を伸ばす。
「お父さんなんかどうせ力にならないくせに!」
「いい加減にしろ!!」
勢い余って怒鳴ってしまった。さくらがビクッと肩を跳ねさせる。
「我儘も大概にしなさい! 自分の意志もしっかり持たないで、そうやって反抗するばかりで人の意見も碌に聞かないのに応援しろって言うのが間違ってるだろう! お前ももうすぐ十五になるんなら、少しは真面目に考えたらどうなんだッ!」
バタバタと階段を駆け上がる足音が響き、かなえが「どうしたの」と慌てた様子で現れた。ここで全部話したら、余計ややこしくなるので、僕は無言でかなえに託し、部屋を出て行った。一階に降りるとさくらが声を上げて泣いているのが聞こえた。
僕はこれまでさくらを叱って泣かせたことなんかなかった。怒鳴るなんて以ての外だ。それでも抑えきれないほど怒りをぶつけてしまったのだ。
皺くちゃになった川原くんの絵を広げて、ますます悲しくなる。まるでぐちゃぐちゃに絡まって解けなくなった糸のように、家族三人の笑顔にたくさんの皺がついている。
「ごめんね、川原くん。……失敗したよ」
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