8
せっかくなので久しぶりに駅前のコーヒーショップのコーヒーを買うことにする。持参したお菓子を店で食べるのは気が引けるので、テイクアウトにして駅前広場の噴水でコーヒーところころパイをいただく。いつも仕事中に飲んでいたものを休日に飲むと変な感じだ。行き交う人々も、人口は違うし層も違う。どちらかと言えばサラリーマンの多い平日と違って、休日はあきらかに家族連れが多い。社会で戦う戦士たちも、休みの日は慎ましく過ごすのだ。一方で、僕は平日だろうが休日だろうが変わりない。仕事があるかないか、スーツか私服かの違いだけ。一緒に過ごす人がいない。結局いつも同じ道、同じ店しか行けない。あまった時間の使い方が分からない。俯くと足元にあった落ち葉が風に吹かれて飛んで行った。
「……趣味でも始めようかなぁ」
「じゃあ、水彩画とかどうですか?」
思いもしなかった返しに驚いて顔を上げた。目の前に川原くんがいる。息を切らせて、柔らかそうな赤毛を乱して、鼻を赤くした川原くんだ。
「まぼろし……?」
「そんなわけないでしょう」
ははっ、と無防備に笑った。川原くんとの約束はなかったことになったはずだ。
「約束してたのにひどいじゃないですか」
「だって、友達と集まるんじゃ」
「もともと僕は行く気なかったんです。あ、グループ展は無事に終わって、画廊も撤収しました。来て下さってありがとうございました」
「こちらこそ……」
僕は感激して泣きそうだった。いくら友達との約束がなかったとしても、普通はどこの馬の骨だか知らないオッサンをわざわざ追い掛ける子なんていないだろう。よほど律儀なのか、それとも、そんなに僕は哀れに思えたのだろうか。どちらにせよ川原くんが僕を探すために汗を流してくれたと思うと嬉しくてたまらなかった。
「あ、コーヒー飲める? 買ってくるよ」
「いや、ペットボトル持ってるんで大丈夫です」
「じゃあ、これ食べる?」
ころころパイを差し出したら、今度は遠慮がちに受け取ってくれた。隣に腰を下ろした川原くんは、サクサクと小気味いい音を立てながらパイ生地をかじった。カスタードクリームに辿り着いた時、「ん」と目を見開く。
「美味しいですね!」
「そうだろ? あとひとつあるけど、いる?」
「福島さんは?」
「僕は食べたから」
半分になったころころパイを口に放り込み、最後のひとつに手を伸ばす川原くん。餌付けしているような気分になるが、にこにこと美味しそうに食べる姿は可愛らしい。『ふるーら』の奥さんに見せてあげたいくらいだ。口の端に付いているクリームを、つい子どもにする感覚で指で拭いそうになった。
さくらが小さい頃は、よく頬についたご飯粒を取ってやったものだ。口の周りをベチャベチャにしていた、このあいだまで赤ちゃんだった子が、いつの間にか恋愛する年になったのだから月日の流れに困惑せずにはいられない。
ごちそうさまでした、と、川原くんは口の端のクリームをペロリと舐めた。
「きみはとても……表情が豊かだよね」
「そうですか?」
「嬉しいことは嬉しい、美味しいものは美味しいと口に出せる。礼儀正しくて誠実だし、親御さんの育て方が良かったんだろうね」
「僕ももうすぐ二十歳ですから。それに、親には愛想悪いですよ、僕」
「そうなの?」
「親って、何かとうるさいし鬱陶しいじゃないですか。友達には喋ることも親には喋らない、なんてことよくありますし」
「そうか。……じゃあ、娘もそうなのかな」
「相談って娘さんのことですか?」
「そう」
僕はさくらとのことを少しずつ打ち明けた。
いつからか僕にはほとんど笑顔を見せなくなった。思春期の女の子への接し方が分からないから、いつも機嫌を窺うばかり。娘のSNSを勝手に見てしまい、高校の志望理由に落胆したものの、それをどう本人に諭せばいいのか分からない。
返ってきた川原くんの答えは、簡単なものだった。
「怒らないであげて下さい」
「え? 駄目なの?」
「高校の志望理由をはっきり言わないってことは、反対されるって本人も分かってるからだと思います。どうして反対されるのかも。でも自分の好きなように決めたいという願望もある。たぶん、今はそのせめぎ合いなんじゃないかな……。頭ごなしに責めたら、かえって反発するだけだと思うので、どうしてK高に行きたいのか、もう一度聞いてみて、それからSNSを見てしまったことを謝った上で、福島さんの考えを伝えてあげたらどうでしょうか……」
「僕の話なんか、聞いてくれるのかなぁ」
「お父さんの話なんだから、聞きますよ」
「いや、なめられてるからさ、僕」
自分で言っておいて悲しい話だ。
「僕が中学生の頃も、親に何か言われる度にいちいち反発してました。放って置いてくれって毎回言ってました。ある時、買いたい本があるのにお小遣いがなくて、親の財布から黙って千円を持っていったことがあるんです。でも、それがバレて。絶対また怒られるんだろうなってうんざりしてたら、全然怒られなかったんです。ただひと言『必要なら言ってくれればいいのに』って。その時はなんだかものすごく悪いことをしたと反省したんです。素直に口に出す年齢じゃなかったけど、心の中ではごめんなさいって謝りました。怒られると反発するけど、怒られないと反省する。そんなもんじゃないですかね」
自分の思春期なんてもう遠い昔のことだけど、当時の僕もそうだったかもしれない。反抗期らしい反抗期もなかった、面白味のない青春時代でも、それなりに葛藤であったり、世の中の不条理や理不尽に無意味に反感を持つこともあった。自分が好きなものだけを正義だと決め付けて、それを非難されたらむやみに楯突く。
「なんだかんだで、親の言うことってちゃんと聞いてますよ」
「そうか……。そうだといいな。実は娘のSNSのことは妻には話してないんだ。本当は真っ先に相談するべきだったんだろうけど、妻はカッとなると高圧的に責め立てるから、なかなか言えなくてね。自分じゃどうしようもないから、いつか話してたとは思うけど。でも川原くんに聞いてよかった。僕から娘にもう一度話してみようと思う」
「え……、奥さんに話さなくていいんですか……? 偉そうな口をきいてしまったけど、僕が聞いて本当に良かったんでしょうか……」
「僕が聞いて欲しかったんだ。きみに」
風が強くなってきたので、場所を変えようと促した。あてはないが、フラフラと連れ立って歩く。川原くんの薄いウィンドブレーカーが寒そうなので、自分が首に引っ掛けていた気休めのマフラーを貸した。冴えないグレーのマフラーも、川原くんが巻くと途端にハイセンスになる。
「おおっぴらに言えたことではないんだけど、実は娘だけじゃなくて、妻とも普通の会話すらしづらくって。よくあるでしょ、年頃の娘と母親がタッグ組んで父親を邪険にするの。邪険ってほどじゃないけど、あんな感じかな。話も碌にしないし、お互いに興味がないのが伝わってしまっている」
川原くんが少し遅れて歩くのは、返事に困っているからだ。僕は振り返って、変な話をしたことを詫びた。川原くんは微笑して首を横に振る。
「川原くんは? ご両親と仲良い? 思春期には色々あっても、それが過ぎれば対等に話せるんじゃない?」
「俺は……あ、僕は」
「『俺』でいいよ」
「……俺も両親のことは嫌いじゃないけど、仲が良いってわけじゃないです。父は漁師で、母は父の獲った魚を加工する仕事をしています。漁の時期は二人とも忙しいから、小さい頃は家でひとりで過ごすことが多かったです。俺が絵を描き始めたのは、ひとりの時間を潰すためでした。描いてると時間を忘れられるんです。絵を描くことは俺の生活の一部だったから、絵の道に進むのが当たり前だと思ってました。でも両親は俺が絵の道に進むことを反対しました。芸術家なんて一握りの人間しかなれないからって」
曇ったままの川原くんの表情から、まだ和解していないのだとうかがえる。
「現役で美大に受かったら行かせてやるって言われて、死に物狂いで勉強しました。学科も実技も。おかげで現役合格はできたけど、いざ家を出るとなると、金がかかるだの色々文句つけてきたんです。大概うんざりしてたから、喧嘩するだけして、家を飛び出してきました」
「住むところは自分で決めたの?」
「はい。家を出てもうすぐ二年になるけど、一度も帰省していません」
せっかくあれだけの才能がある子だ。それを潰してしまうのは惜しい。
ただ、そう僕がそう思うのも、僕が彼と「他人」だからだろう。僕がもし川原くんの親なら、同じように「プロなんて厳しいんだ」と反対したかもしれない。彼に才能があろうがなかろうが、安全で妥当な道を勧める。川原くんの絵を好きになって、川原くんを応援したいから僕は彼の気持ちを理解できるけど、立場的には彼の両親の気持ちも分かるのだ。だから、慰めることも励ますことも、賛同することもしてあげられなかった。けれども川原くんはそんな僕の心境を汲み取ってくれた。
「福島さんの話聞いて、ちょっと反省しました。なんで俺の好きなようにさせてくれないんだよって両親にはムカついてたけど、親は親で、たぶん俺のこと心配してるんですよね。学費だって結局両親に頼らないと払えないんだから、俺は文句ばかり言える立場じゃないんだよなって気付きました」
歩道橋を上がると、冷たい風が体を叩きつけた。いつの間にか陽が沈んでいて、橋の上から見渡す街はポツポツとライトで彩られる。いつも歩いている街も、少し角度を変えて見てみれば綺麗なものだ。川原くんと一緒にいなければ気付かなかった景色だ。僕は彼よりずっと大人なのに、貰うばかりで何もしてあげられない。情けない大人だ。
「ありがとう、川原くん。相談して良かった」
「こんなのでいいんですか? あまり役に立ってる気がしないんですけど」
「充分だよ。家庭の悩みなんて誰彼言えないからね。聞いてくれるだけですごく楽になる。どうしてだろう、きみにはなんでも話せるよ」
「俺が悪い奴だったらどうするんですか」
いつか僕が彼に質問したことをそのまま言われた。その通りだ。まだ知り合って間もない、互いの呼び名くらいしか知らないような朧げな関係だ。うっかり個人情報なんて話して悪用される可能性だってある。特に僕なんてそういう扱いには注意しなければならない職業だというのに。それでも僕の長年の勘が言っている。
「きみはそんな人じゃないって分かるから」
川原くんは返事の代わりに頬を掻いた。
「帰ろうか。川原くんはどっちなの?」
「あ、この歩道橋渡ったら、もう近いんです」
「そう。僕は戻るんだ。それじゃあ、ここで」
さようなら、とは言えなかった。あわよくばまた会えたらいいと思っているからだ。かと言って「またね」と約束することもできない。
「娘さん、分かってくれるといいですね」
「彼氏と同じ学校に行きたいからって、そんな理由アリ?」
「よくあることだと思います。福島さんは、いいお父さんだと思います。俺の父はどっちかというと粗暴だから、こんなお父さんもいるんだなって」
僕はこんな父親で情けないと常々思っているけれど、そんな父親でもいいのだと言ってくれているようで嬉しかった。やっぱり川原くんといると心が安らぐ。
僕は最後に無茶な我儘を言った。
「娘のことは可愛いけど、実は僕、息子も欲しかったんだよね。キャッチボールとかするの、ちょっと夢だった」
「……」
「一度だけ、抱かせてもらっていいかな」
「え!?」
そして僕は歩道橋という人目の多い場所で、戸惑う川原くんを片腕で胸に抱き寄せた。
さくらを最後に抱っこしたのはいつだったかな。よくぷにぷにして柔らかい抱き心地に幸せを噛みしめたものだ。腕に感じる川原くんは、細くて硬いけれど、あの頃感じたのと同じ温かみがあった。
「息子がいたら、こんな感じだったのかなぁ」
「……俺みたいな息子は大変だと思いますけど……」
「きみはとても良い子だ。これからも応援してるよ、頑張ってね」
マフラーは帰ったら捨ててくれ、と残して、川原くんから離れるや、すぐに歩道橋を駆け下りた。川原くんに振り返ることはできなかった。自分でも驚くほど真っ赤になっている顔を、とてもじゃないが見せられないからだった。
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「……趣味でも始めようかなぁ」
「じゃあ、水彩画とかどうですか?」
思いもしなかった返しに驚いて顔を上げた。目の前に川原くんがいる。息を切らせて、柔らかそうな赤毛を乱して、鼻を赤くした川原くんだ。
「まぼろし……?」
「そんなわけないでしょう」
ははっ、と無防備に笑った。川原くんとの約束はなかったことになったはずだ。
「約束してたのにひどいじゃないですか」
「だって、友達と集まるんじゃ」
「もともと僕は行く気なかったんです。あ、グループ展は無事に終わって、画廊も撤収しました。来て下さってありがとうございました」
「こちらこそ……」
僕は感激して泣きそうだった。いくら友達との約束がなかったとしても、普通はどこの馬の骨だか知らないオッサンをわざわざ追い掛ける子なんていないだろう。よほど律儀なのか、それとも、そんなに僕は哀れに思えたのだろうか。どちらにせよ川原くんが僕を探すために汗を流してくれたと思うと嬉しくてたまらなかった。
「あ、コーヒー飲める? 買ってくるよ」
「いや、ペットボトル持ってるんで大丈夫です」
「じゃあ、これ食べる?」
ころころパイを差し出したら、今度は遠慮がちに受け取ってくれた。隣に腰を下ろした川原くんは、サクサクと小気味いい音を立てながらパイ生地をかじった。カスタードクリームに辿り着いた時、「ん」と目を見開く。
「美味しいですね!」
「そうだろ? あとひとつあるけど、いる?」
「福島さんは?」
「僕は食べたから」
半分になったころころパイを口に放り込み、最後のひとつに手を伸ばす川原くん。餌付けしているような気分になるが、にこにこと美味しそうに食べる姿は可愛らしい。『ふるーら』の奥さんに見せてあげたいくらいだ。口の端に付いているクリームを、つい子どもにする感覚で指で拭いそうになった。
さくらが小さい頃は、よく頬についたご飯粒を取ってやったものだ。口の周りをベチャベチャにしていた、このあいだまで赤ちゃんだった子が、いつの間にか恋愛する年になったのだから月日の流れに困惑せずにはいられない。
ごちそうさまでした、と、川原くんは口の端のクリームをペロリと舐めた。
「きみはとても……表情が豊かだよね」
「そうですか?」
「嬉しいことは嬉しい、美味しいものは美味しいと口に出せる。礼儀正しくて誠実だし、親御さんの育て方が良かったんだろうね」
「僕ももうすぐ二十歳ですから。それに、親には愛想悪いですよ、僕」
「そうなの?」
「親って、何かとうるさいし鬱陶しいじゃないですか。友達には喋ることも親には喋らない、なんてことよくありますし」
「そうか。……じゃあ、娘もそうなのかな」
「相談って娘さんのことですか?」
「そう」
僕はさくらとのことを少しずつ打ち明けた。
いつからか僕にはほとんど笑顔を見せなくなった。思春期の女の子への接し方が分からないから、いつも機嫌を窺うばかり。娘のSNSを勝手に見てしまい、高校の志望理由に落胆したものの、それをどう本人に諭せばいいのか分からない。
返ってきた川原くんの答えは、簡単なものだった。
「怒らないであげて下さい」
「え? 駄目なの?」
「高校の志望理由をはっきり言わないってことは、反対されるって本人も分かってるからだと思います。どうして反対されるのかも。でも自分の好きなように決めたいという願望もある。たぶん、今はそのせめぎ合いなんじゃないかな……。頭ごなしに責めたら、かえって反発するだけだと思うので、どうしてK高に行きたいのか、もう一度聞いてみて、それからSNSを見てしまったことを謝った上で、福島さんの考えを伝えてあげたらどうでしょうか……」
「僕の話なんか、聞いてくれるのかなぁ」
「お父さんの話なんだから、聞きますよ」
「いや、なめられてるからさ、僕」
自分で言っておいて悲しい話だ。
「僕が中学生の頃も、親に何か言われる度にいちいち反発してました。放って置いてくれって毎回言ってました。ある時、買いたい本があるのにお小遣いがなくて、親の財布から黙って千円を持っていったことがあるんです。でも、それがバレて。絶対また怒られるんだろうなってうんざりしてたら、全然怒られなかったんです。ただひと言『必要なら言ってくれればいいのに』って。その時はなんだかものすごく悪いことをしたと反省したんです。素直に口に出す年齢じゃなかったけど、心の中ではごめんなさいって謝りました。怒られると反発するけど、怒られないと反省する。そんなもんじゃないですかね」
自分の思春期なんてもう遠い昔のことだけど、当時の僕もそうだったかもしれない。反抗期らしい反抗期もなかった、面白味のない青春時代でも、それなりに葛藤であったり、世の中の不条理や理不尽に無意味に反感を持つこともあった。自分が好きなものだけを正義だと決め付けて、それを非難されたらむやみに楯突く。
「なんだかんだで、親の言うことってちゃんと聞いてますよ」
「そうか……。そうだといいな。実は娘のSNSのことは妻には話してないんだ。本当は真っ先に相談するべきだったんだろうけど、妻はカッとなると高圧的に責め立てるから、なかなか言えなくてね。自分じゃどうしようもないから、いつか話してたとは思うけど。でも川原くんに聞いてよかった。僕から娘にもう一度話してみようと思う」
「え……、奥さんに話さなくていいんですか……? 偉そうな口をきいてしまったけど、僕が聞いて本当に良かったんでしょうか……」
「僕が聞いて欲しかったんだ。きみに」
風が強くなってきたので、場所を変えようと促した。あてはないが、フラフラと連れ立って歩く。川原くんの薄いウィンドブレーカーが寒そうなので、自分が首に引っ掛けていた気休めのマフラーを貸した。冴えないグレーのマフラーも、川原くんが巻くと途端にハイセンスになる。
「おおっぴらに言えたことではないんだけど、実は娘だけじゃなくて、妻とも普通の会話すらしづらくって。よくあるでしょ、年頃の娘と母親がタッグ組んで父親を邪険にするの。邪険ってほどじゃないけど、あんな感じかな。話も碌にしないし、お互いに興味がないのが伝わってしまっている」
川原くんが少し遅れて歩くのは、返事に困っているからだ。僕は振り返って、変な話をしたことを詫びた。川原くんは微笑して首を横に振る。
「川原くんは? ご両親と仲良い? 思春期には色々あっても、それが過ぎれば対等に話せるんじゃない?」
「俺は……あ、僕は」
「『俺』でいいよ」
「……俺も両親のことは嫌いじゃないけど、仲が良いってわけじゃないです。父は漁師で、母は父の獲った魚を加工する仕事をしています。漁の時期は二人とも忙しいから、小さい頃は家でひとりで過ごすことが多かったです。俺が絵を描き始めたのは、ひとりの時間を潰すためでした。描いてると時間を忘れられるんです。絵を描くことは俺の生活の一部だったから、絵の道に進むのが当たり前だと思ってました。でも両親は俺が絵の道に進むことを反対しました。芸術家なんて一握りの人間しかなれないからって」
曇ったままの川原くんの表情から、まだ和解していないのだとうかがえる。
「現役で美大に受かったら行かせてやるって言われて、死に物狂いで勉強しました。学科も実技も。おかげで現役合格はできたけど、いざ家を出るとなると、金がかかるだの色々文句つけてきたんです。大概うんざりしてたから、喧嘩するだけして、家を飛び出してきました」
「住むところは自分で決めたの?」
「はい。家を出てもうすぐ二年になるけど、一度も帰省していません」
せっかくあれだけの才能がある子だ。それを潰してしまうのは惜しい。
ただ、そう僕がそう思うのも、僕が彼と「他人」だからだろう。僕がもし川原くんの親なら、同じように「プロなんて厳しいんだ」と反対したかもしれない。彼に才能があろうがなかろうが、安全で妥当な道を勧める。川原くんの絵を好きになって、川原くんを応援したいから僕は彼の気持ちを理解できるけど、立場的には彼の両親の気持ちも分かるのだ。だから、慰めることも励ますことも、賛同することもしてあげられなかった。けれども川原くんはそんな僕の心境を汲み取ってくれた。
「福島さんの話聞いて、ちょっと反省しました。なんで俺の好きなようにさせてくれないんだよって両親にはムカついてたけど、親は親で、たぶん俺のこと心配してるんですよね。学費だって結局両親に頼らないと払えないんだから、俺は文句ばかり言える立場じゃないんだよなって気付きました」
歩道橋を上がると、冷たい風が体を叩きつけた。いつの間にか陽が沈んでいて、橋の上から見渡す街はポツポツとライトで彩られる。いつも歩いている街も、少し角度を変えて見てみれば綺麗なものだ。川原くんと一緒にいなければ気付かなかった景色だ。僕は彼よりずっと大人なのに、貰うばかりで何もしてあげられない。情けない大人だ。
「ありがとう、川原くん。相談して良かった」
「こんなのでいいんですか? あまり役に立ってる気がしないんですけど」
「充分だよ。家庭の悩みなんて誰彼言えないからね。聞いてくれるだけですごく楽になる。どうしてだろう、きみにはなんでも話せるよ」
「俺が悪い奴だったらどうするんですか」
いつか僕が彼に質問したことをそのまま言われた。その通りだ。まだ知り合って間もない、互いの呼び名くらいしか知らないような朧げな関係だ。うっかり個人情報なんて話して悪用される可能性だってある。特に僕なんてそういう扱いには注意しなければならない職業だというのに。それでも僕の長年の勘が言っている。
「きみはそんな人じゃないって分かるから」
川原くんは返事の代わりに頬を掻いた。
「帰ろうか。川原くんはどっちなの?」
「あ、この歩道橋渡ったら、もう近いんです」
「そう。僕は戻るんだ。それじゃあ、ここで」
さようなら、とは言えなかった。あわよくばまた会えたらいいと思っているからだ。かと言って「またね」と約束することもできない。
「娘さん、分かってくれるといいですね」
「彼氏と同じ学校に行きたいからって、そんな理由アリ?」
「よくあることだと思います。福島さんは、いいお父さんだと思います。俺の父はどっちかというと粗暴だから、こんなお父さんもいるんだなって」
僕はこんな父親で情けないと常々思っているけれど、そんな父親でもいいのだと言ってくれているようで嬉しかった。やっぱり川原くんといると心が安らぐ。
僕は最後に無茶な我儘を言った。
「娘のことは可愛いけど、実は僕、息子も欲しかったんだよね。キャッチボールとかするの、ちょっと夢だった」
「……」
「一度だけ、抱かせてもらっていいかな」
「え!?」
そして僕は歩道橋という人目の多い場所で、戸惑う川原くんを片腕で胸に抱き寄せた。
さくらを最後に抱っこしたのはいつだったかな。よくぷにぷにして柔らかい抱き心地に幸せを噛みしめたものだ。腕に感じる川原くんは、細くて硬いけれど、あの頃感じたのと同じ温かみがあった。
「息子がいたら、こんな感じだったのかなぁ」
「……俺みたいな息子は大変だと思いますけど……」
「きみはとても良い子だ。これからも応援してるよ、頑張ってね」
マフラーは帰ったら捨ててくれ、と残して、川原くんから離れるや、すぐに歩道橋を駆け下りた。川原くんに振り返ることはできなかった。自分でも驚くほど真っ赤になっている顔を、とてもじゃないが見せられないからだった。
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