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 週末にかなえとさくらが九州のかなえの実家に行くというので、金曜日の夜から日曜日の夜までの留守を頼まれた。なぜ急に九州に帰省することにしたのかは知らない。この正月に訪ねた時はお義父さんもお義母さんも元気そうだった。悪いことではないはずなので、僕も深くは聞かなかった。

 思いがけずひとりの時間を得て、僕はさっそく土曜日の昼過ぎに美術館へ行くことにした。さすがに下調べもなく行ったら怪しまれるので、なんの展示を見るかを決めておいて、あくまで「ついで」を装うことにする。
 個人的な用で出掛けるのは久しぶりだ。スーツもおかしいし、いい歳をしてカジュアルすぎるとダサい。随分前に買ったものだが、ストライプのシャツに黒のジャケットを羽織っただけの無難な格好で向かった。

 さすが美術館、騒がしい駅周辺でも一歩エントランスに入るとシン、と静かだ。ガラス張りの天井で、光がさんさんと降り注ぐ。入ってすぐの受付でチケットを買わなければならない。展示物は二つあり、ひとつは現代アート、もうひとつはモネだ。現代アートは興味がないのでモネのチケットを買おうと胸ポケットから財布を出したところ、

「……福島、さん?」

 自信のなさげな若い男の声が、僕の名を呼んだ。振り返ると、黒のパンツに白ポロシャツを着た川原留衣がいた。全体的にタイトな服だからか、線の細さが際立つ。相変わらず赤毛は明るかった。

「川原くん、こ、こんにちは」

「来て下さったんですね、ありがとうございます。 興味のある展示ありますか?」

 モネを、と言おうとしたら「僕は現代アートのほうで案内しています」と続いたので、あっさり方向転換して「現代アートを」と口にした。我ながら滑稽だ。チケットとパンフレットを買い、川原留衣に連れられる。

「僕は出口付近でいますので、どうぞ楽しんで下さい」

 一緒に鑑賞するのかと思いきや、入ってすぐに川原留衣は他へ行ってしまった。……それはそうだろう。彼にも仕事があるのだから。

 それにしても現代アートというのは意味不明だ。一体なにをモチーフにしているのかというような不気味なオブジェが並んでいたり、キャンバスに電球のようなものが貼り付けられているだけだったり、こう言ってはなんだが「素人の僕でも作れそうだ」と思うようなものばかりで、いまいち良さを見出せない。

『Contemporaryを求め、現代社会の情勢を反映した、従来の芸術の概念に囚われない新しい表現うんぬんかんぬん……』

 要は難しいらしい。やっぱりモネにすればよかったと後悔もしたが、何も考えずにぼんやり眺めているだけでも暇つぶしにはなる。日々の仕事のストレスとか、家庭の悩みもこういう場所にいると非現実的なものに思えて気分転換になった。美術館の空気は嫌いじゃないのだ。
 一時間ほどかけてギャラリーを回り、出口へ向かうと川原留衣が待っていた。

「楽しめましたか?」

「ええ、けっこう……。何時までいるの?」

「もう三十分もすれば終わります」

「もし暇なら、」と続けようとしてやめた。誘ってどうしようと言うのだ。ひと目見られたら、というだけのつもりだったはずだ。口ごもっていたのが相当不自然だったのだろう。川原留衣のほうから、遠回しに誘ってくれた。

「二階のカフェもすごく素敵なんですよ。僕もバイトが終わったらいつも寄るんです。ご迷惑でなければ一緒に飲みませんか」


 まったく予想もしなかった展開だ。僕は持て余したひとりの時間を潰すために、少しだけ川原留衣が元気にしている姿を見られたらと思って美術館に来ただけなのに。勧められるがままに二階のカフェへ足を運び、窓際の席でブラックコーヒーを飲んでいる。店内はかすかにクラシックが流れていて、壁には様々な名画のレプリカが飾られている。ゴッホ、ピカソ、ミレー……。テーブルも椅子も西洋風で、ロマン館を思わせる、確かにとても洒落たカフェだ。今日は天気がいいので、窓から入り込む太陽光が温かくて気持ちが良い。久しぶりに「休日」という感じがする。コーヒーに口を付けた時、カタン、と向かいの椅子が動いた。直後に腰掛けた人物から冷気が伝わった。「お待たせしました」と言う声は少しだけ息切れしている。もしかして急いで来てくれたのだろうか。桃色の頬と太陽光に乱反射する茶色の瞳がキラキラしている。若々しいが、さくらほど幼いというわけでなく、間違いなく今後の社会を牽引していく世代に一番近しい、れっきとした大人だ。

「バイトで疲れているのに、なんだか無理させちゃったみたいで申し訳ない、川原くん」

「だって、お誘いしたのは僕ですし」

「ごめんね、僕があんなメールを送ったりして、美術館にまで来たから、気を遣わせちゃったんじゃないかな。……驚いたよね」

「ビックリはしましたけど、僕の絵を大事にしてくれて、気に掛けてくれて、しかもこうしてわざわざ遊びに来て下さって、嬉しかったです」

 川原くんは冷やを持って来たウェイターにジンジャーエールを注文し、唐突に話に入った。

「もしかして、僕に何か御用でもありましたか?」

「えっ? あっ……」

 僕が彼に連絡をしたのは、用事があるからだと思っているようだ。特に用などないが、ここは何か言っておかないといけない気がして、必死に理由を考えた。

「娘の……ことで……」

「娘さん?」

「中学二年生でね、娘。次は中三で受験生になるんだけど、今の時期からもう志望校を絞るみたいでさ。……で、つい先日、娘が急に志望校を変えたらしくて。美術の成績がいいわけでもないのにK高に行きたいんだって。僕はその道に疎いからよく分からないんだけど、やっぱり芸術関係の高校に行くとなると、その後の進路や就職先も限られてくる……よね? きみは美大生だから、そういうのに詳しいんじゃないかと思って、相談させてもらいたかったんだ」

 咄嗟のわりにはなかなかそれらしい理由だ。さくらの志望校の変更先がK高でよかった。こんなところでそれを使うのは狡いだろうが、さくらを心配しているのは事実だし。
 川原くんは「うーん」と少し首を傾げた。

「僕は地元がここじゃないので高校のレベルとか校風とか分からないんですけど、僕の地元に限っての話なら、『なんとなく絵を描くのが好きだから』『なんとなくかっこいいから』って理由で芸術系の高校に行った人は、大抵、短大かなにかの専門学校に行ったあと、特に芸術に関係のない道に行ってます。勿論、芸術関係の仕事に就いている人もいますから、色々ですけど。K高は確か進学校ではなかったと思います。広い選択肢を持たせたいなら僕はあまりお勧めしません」

「そうなんだ。きみは芸術系の高校だったの?」

「僕は普通科の高校で、美術部と画塾で絵の勉強して、今の大学に行きました」

「しっかりしてるんだね。それだけ絵が上手いと親御さんも応援してくれただろう」

 けれども川原くんは苦笑して「どうですかね」と言葉を濁した。

「ありがとう、もう一度娘の意志を確認してみることにする。話を聞けてよかった」

「僕でよければ、話を聞くくらいならいつでもできます」

 そういえば、と思い出したように言った。

「どうして僕のアドレスが分かったんですか?」

 川原くんは僕が名刺をこっそり失敬したことを知らない。色々と言い訳を考えたが、潔く事実を話した。本当に格好悪い話である。川原くんは怒ったり不審がるどころか、屈託なく笑ってくれた。

「ごめんね、気持ち悪い真似して」

「全然。興味を持ってもらえるのはやっぱり嬉しいですから」

「でも、僕がもし悪い奴だったらどうするの」

「福島さんはそんな人じゃないって分かります」

 なんて優しい子なのだろう。職場の部下にも「こいついい奴だな」と思う人間は何人かいるが、人の優しさがこんなに沁みたのは初めてかもしれない。普段、触れ合うことのない若者とコミュニケーションが取れて、僕は相当舞い上がっているようだ。川原くんの笑顔や、ジンジャーエールを飲む仕草や、ふわふわと揺れる赤毛のすべてが眩しい。思わず嫉妬するほどに。偶然駅前で見かけた絵描きとこんな風に向かい合ってお茶をしているなんて、今まで凡下な人生しか歩んでこなかった僕にとってはドラマティックな状況だ。もしかしたら、スポットライトを浴びることのなかった寂しい僕に、少しくらいは楽しませてやろうと神様が慮ってくれたのかもしれなかった。

 プライベートを家族以外の誰かと過ごして新鮮な休日を送ったからか、川原くんと別れてからも僕はどこか華やいだ気分だった。「楽しかったです、ありがとうございました」とお礼のメールを入れれば「こちらこそ、ありがとうございました。楽しかったです」と返ってくる。僕の言葉に、言葉を返してくれる。そんな単純なことがこんなにも嬉しい。

 これまでまったく興味のなかったSNSにもついに手を出してしまった。もう時代はデジタルだし、ネットも上手く活用していけるようにならないと社会に置いて行かれる、なんて言い訳をしながら、川原くんのアカウントをいそいそと覗き見するのである。勿論、職場での立場もあるから自分の個人情報は載せない。フォローするのは川原くんだけ。

 あまり頻繁に記事は投稿していないようだが、彼の描いたちょっとした絵や、どこかで食べた饅頭や、些細な記事すら見ていて楽しい。画面越しにでもその人のことを知ると、ずっと前から知り合いだったんじゃないかと錯覚すらしそうになる。勇気をだして「イイネ」を押してみると「フォロー申請」というものが届いた。これを承認すれば、ネット上でも繋がりが保たれるというわけだ。

 返信のひとつひとつに口元を綻ばせたり、絵を見る度に心が温かくなったり、親近感を抱いたり。性別も年齢も関係ない。彼の描く絵が好きで、川原留衣という未来の芸術家を応援したい。だからこそ喜怒哀楽を共有したい。まったくもってファン心理というのは不可解なものだ。


『返信:デッサンも素敵ですが、油絵も素晴らしいですね。展覧会の準備、頑張って下さい。』


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