fc2ブログ

ARTICLE PAGE

 新しい支店はそれなりに忙しかったが、仕事で苦はなかった。新しい上司は気のいい人だし、優秀な部下が多い。持ってくる稟議書にほとんど不備はなく、必要な書類と、もっと掘り下げるべき項目を伝えると忘れずにきちんと仕事する。当たり前のことかもしれないが、その当たり前のことができない人間も多いので、部下がしっかりしているととても助かるのだ。

 問題、というより、悩みはどちらかと言えば家庭だった。僕が支店を変わると伝えた時もかなえは興味がなさそうだったが、変わってからも「新しい支店はどう?」などと聞いてくることもなく。時々、自分から話すことはあっても大抵は「ふーん」で終わらされる。僕の仕事に興味がない、というより、もう僕そのものに興味がないのかもしれない。
 特にさくらは接し方が分からない。女の子で尚且つ思春期なので、何をどう話し掛ければいいのかさっぱりなのだ。

「今までずっとT高に行くって言ってたのに、どうして急に変えるのよ!」

 ある日、仕事から帰るとかなえとさくらが言い合う声が玄関まで届いた。

「志望校なんて今からでも充分変えられるじゃん! あたし別にT高行きたくないし!」

「せっかくT高に行けるだけの成績なんだから、目標は高いほうがいいのよ! なんだってわざわざレベル下げなきゃいけないの!?」

「どうしたんだ」

 険悪なムードだったので、さすがに見過ごすわけにはいかず、割り込んだ。かなえが興奮気味に言う。

「さくらが急に志望校変えるって言い出したのよ。しかもK高」

「……あそこは芸術関係の高校だろう」

「そうよ、学力的にはT高より劣るし、何より、この子、美術の成績が特にいいわけでもないのに、なんで芸術系に進むのか意味が分からないの!」

「今から画塾に行って、絵の勉強もする! まだ中二の冬だもん!」

「『もう』中二の冬よ! 今から画塾に通って間に合うとでも思ってるの!? 大体、どうしてK高にこだわるのよ!」

「もういい!」

「さくらッ」

 さくらはバタバタと階段を駆け上がって、自室に閉じこもってしまった。かなえは盛大に溜息をつき、ソファに崩れるように座る。

「いつ志望校を変えたんだ。さくらはずっとT高志望だったのか?」

「……たぶんね」

「たぶんって」

「わたしもちょっと考えたいの」

 暗に「話し掛けないでくれ」と言うことだ。娘のことなのに、僕には大事なことも話してくれない。
 せめて自分から話を聞こうとさくらの部屋のドアをノックした。

「父さんだけど、入ってもいい?」

「なに?」

 恐る恐るドアを開けた。僕が最後に見たさくらの部屋はカーテンもベッドシーツもピンク色の、名前の通り「桜」のような可愛い部屋だったのに、いつの間にか水色のドット柄に変わっていた。そんなところで娘の成長に戸惑う。

「どうしてK高に行きたいんだ?」

「なんでもいいじゃん。行きたいから行きたいんだよ」

「進路はそんないい加減に決められるものじゃないぞ。特にK高に行くなら、芸大や美大、芸術関係の仕事に進むことも視野にいれなくちゃいけない。さくらはいつかそういう仕事をしたいのか?」

「まだ分かんない」

 クッションを抱き締めてベッドに伏せたまま答える。

「ちゃんと座って話をしなさい」

 するとさくらは起き上がるのと同時に「お父さんなんか!」と叫んだ。

「お父さんなんか、いつもお母さんの顔色ばっかり窺ってるじゃん! お父さんに相談したって頼りにならないよ! 出てってよ!」

 研ぎたての包丁で心臓をグサリと刺されたようだった。「頼りにならない」。父親として、男として、人間としてもかなりこたえる言葉だ。僕にだって言い分はある。「話してくれなきゃ分からない」「先に距離を置いたのは向こうだ」「僕だって我慢している」。だけど、そんなことを娘に言えるわけがなかった。
 
 自分の部屋がない僕は、家の中でひとりになれる空間というのがない。私物を保管する場所がないので、川原留衣に描いてもらった絵も、いつも手帳に入れて肌身離さず持っている。さくらの部屋を出たあと、僕は風呂に入ると言って脱衣所にこもり、暫くそこで絵を広げて見ていた。金閣寺の前で笑っている三人の笑顔がとても切ない。こんな明るい笑顔が戻って来る日は本当にあるのだろうか。

 ―——―

 翌日、部下と一緒に取引のある企業を回った。支店が変わってから僕はあまり外に出ることがなかったのだけど、取引先の経営状況を探るために、時々外出することがある。ようは企業の粗を探しに行くようなものだ。決して楽しくはないが、この日は運が良かった。十社ほど回って、最後に訪ねた企業が、あの駅の近くにあったからだ。しかも時間はちょうど五時頃。僕は取引先の訪問を終えたあと、一緒に行った部下に「先に戻っていてくれ」と多くは語らず、店に帰した。

 川原留衣に会えることを期待して、わくわくしながら噴水を目指す自分がいる。けれども、駅前の噴水に川原留衣はいなかった。周辺を見渡しながら歩いてみたが、赤毛の青年などどこにも見当たらない。
 少しどころか、すごくガッカリしてしまった。もともと知り合いでもなければ約束もしていないのだから、いない可能性があるというのは容易に考えられることなのに。ここに来れば必然的に会えると勝手に信じて、期待が外れて勝手に落ち込む。それほど僕は彼に会いたかったのだ。
 

『こんばんは。突然このようにメールを送り付けて、申し訳ございません。僕は福島と申します。以前、駅前広場の噴水で家族写真の絵を描いていただいた者です。あれからふた月ほど経ちますが、いかがお過ごしでしょうか。あなたに描いていただいた絵は、いつも手帳に入れて大事にしています。あの時は本当にありがとうございました。
 ところで、本日、所用で駅前広場に行きました。もしかしたらお会いできるだろうかと思ったのですが、どうもタイミングが合わなかったようです。今もあそこで絵を描いていらっしゃるのですか? 福島』

 若い女の子ならまだしも、こんなオッサンからメールが届いても気味が悪いだけだろう、と思いながらも指は送信ボタンを押している。
 仕事のメールなら催促だろうがクレームだろうが平気で打てるのに、プライベートとなると途端に汗を握る。そのうえ、なかなか反応のないスマートフォンに、やっぱり送らなければよかったとヤキモキしたりして。返信があったのは二日後。メールを開いた瞬間、曇り空だった僕の心に虹がかかった。


『おはようございます。せっかくメールをいただいていたのに、気付くのが今頃になってしまい、大変失礼致しました。描かせていただいた絵のことも福島さんのことも覚えています。今でも持っていて下さっていると聞いてとても嬉しいです。こちらこそ、本当にありがとうございます。駅前広場に行かれたのですね。お会いできなくて残念です。実は最近はあそこでは絵を描いておりません。駅前広場にはいませんが、あそこからそれほど離れていない美術館でギャラリースタッフのアルバイトをしています。毎週土曜日と日曜日におりますので、もし興味のある展示があれば、どうぞお立ち寄りください。 川原留衣』


スポンサーサイト



0 Comments

Leave a comment