3
―——
「川原留衣」。それがあの青年の名前らしい。
肩書きはなく、真っ白な名刺の真ん中に名前、右下にパソコンのメールアドレスと、SNSのQRコードが記載されていた。ユーザー登録をすると写真や絵などの投稿をしたり、知り合いとネット上で繋がったり、メッセージの交換をすることができる、というものだ。僕はそのQRコードを読み取ってみたが、ユーザーにしか見られないらしく、記事の投稿を見ることはできない。「川原留衣」本人らしいアイコンの写真は後姿。いつもキャップを被っていて顔を見たことがないから、せめてアイコンででも見られるかと思ったが、それも叶わない。本当にちょっとした興味本位だったのに、見られないとなるとますます見たくなる。ネットで直接検索をかけてみたが、それらしいものは出てこなかった。
「プロではないのかな……」
「え? 課長、何か言いましたか?」
栗田に言われて、サッとスマートフォンを隠して「なんでもない」と咳払いした。まあ、いいか。所詮、たまたま見かけた素人の絵描きだ。明日にはきっともういないはずだ。
けれど「川原留衣」は、翌日もその翌日も駅前の噴水で絵を描いていた。毎日駅に行くわけじゃないが、僕が駅に行った時は大抵、いる。いつも同じウィンドブレーカーとキャップだ。ひとりで景色を描いている時もあれば、通りすがりのモデルを描いていることもある。見本絵でもいいからじっくり見てみたいな、と思うのだけど、描いてもらう気もないのに見るのも悪いし、あまり近付くと怪しまれるので僕はいつも前を通り過ぎるだけだ。時々お客さんと話している時の声を聞いたり、口元だけが見えたりはする。この年頃の男にしてはやや高めでハキハキ喋るということ、薄い唇から見える歯が白くて歯並びが綺麗、ということは分かった。
いつも見かけるのによく知らない。もっと見たいのに見えない。そんなもどかしさが好奇心を掻き立てる。いつしか僕はいつものコーヒーショップのテラス席から絵を描いている「川原留衣」を眺めるのが習慣になっていた。
***
「異動ですか」
ある昼休み、支店長に昼食に呼ばれて蕎麦屋に行ってみれば、異動を言い渡された。異動先は隣町の支店で、今の支店より大きなところだ。
「融資の法人部だよ。向こうの阿部課長が辞職しちゃってね。急きょ人が足りないんできみが呼ばれたってわけさ。きみは地域の人からすごく好かれて信頼されているし、わたしとしても手放すのはとても惜しいんだけどね」
「僕も今の支店がとても働きやすかったので、寂しいです。そういう雰囲気を作って下さった支店長には感謝しています」
「ま、次の店も、そう悪くはないと思うよ。あそこの最上支店長はわたしの同期で仲が良いから、福島くんなら可愛がってもらえるだろうし、きみなら新しい場所でもすぐに信頼されるだろう。頑張ってくれ」
異動については僕自身、そろそろかなと思っていたから驚かない。ただ、洋菓子店の奥さんのことが気がかりだった。栗田に任せてもいいが、栗田は少し老人を軽視するところがあるから、奥さんに真摯に向き合えるか心配だ。それから、異動先の店は電車で行くには不便な場所なので、車で通勤することになるだろう。と、いうことは駅に行くことがなくなるのだ。もう噴水前で絵を描く「川原留衣」を見ることもないのだな、と思うと、なぜか洋菓子店の奥さんに会えなくなるのと同じくらいの寂しさを抱いたのだった。
翌日、僕はとうとう「川原留衣」に接触することに決めた。無理に関わらなくても見かけなくなったらそのうち忘れるだろうが、せめてどんな顔をしているのかだけでも知りたかった。
話し掛けるとなると、やはり描いてもらわなければならない。自分を描いてもらうのは恥ずかしいので、かなえとさくらと三人で撮った写真を持って行った。写真ならモデル本人がいなくても描けるだろうし。
外回りに出て、支店に戻る前に急ぎ足で駅前に向かった。この日に限ってあまり時間がなかったが、今日を逃したら二度と会えない気がして無理に行った。息を切らせて広場に到着すると、「川原留衣」はいつものように絵を描いている。僕は唾を飲み、呼吸を落ちつけてから、ゆっくり彼に近寄った。心臓がドキドキしている。こんなに緊張するのはいつぶりだろうか。
「……す、すみません」
「はい」
いつも偶然聞くだけだった、やや高めの若い声が、僕の呼びかけに反応する。それだけで感動してしまった。スケッチブックに目を落としていた川原留衣はこちらを見上げたが、キャップは目深に被ったままなので、ツバの影に隠れて目元がよく見えない。
「あの……絵を……描いていただけるんでしょうか……」
「はい、もちろん。鉛筆で簡単にデッサンするだけですが、それでもよろしければ。見本はこんな感じです」
と言って、並べている絵を指した。間近できちんと手に取ってみる川原留衣の絵は、とても繊細で丁寧で、……上手い。僕は芸術センスがないからそんなありきたりな言葉しか出ないけれど、見ているだけで温かくなるようなそんな絵だ。
「……素敵ですね。ぜひ、よろしくお願いします。モデルは僕じゃなくて写真でお願いしたいのだけど」
「かまいませんよ。写真はありますか?」
二年前に行った京都旅行で、家族で撮った写真を渡した。川原留衣は暫く眺め、「いい写真ですね」と呟いた。
「実はまだ仕事中で、これから職場に戻らないといけないんです」
「では明日、来られますか? いつも大体四時から六時くらいまでここで絵を描いてるんです。明日には仕上がってます」
「分かりました、四時から六時のあいだですね。よろしくお願いします」
結局、顔はよく分からなかったが直接話せただけでもかなりの進歩だ。腕時計を見るともう戻らなければならない時間だった。僕は最後に礼を言って、その場をあとにした。
次の日、早めに仕事を切り上げて六時ギリギリに駅前に行った。この日はあいにく朝から天気が悪く、昼から弱い雨が降り続いていたので、川原留衣がいるかどうか不安だった。けれども川原留衣はそこにいた。さすがに絵は描いていないが、紺色の傘をさして僕を待っていたのだ。
「すみません、遅くなってしまって!」
「いえ、時間通りですよ」
そうは言っても「四時から六時のあいだ」なんて曖昧な言い方では四時かもしれないし六時かもしれないし、下手したらまるまる二時間待たせたことになる。現に傘を持つ川原留衣の手は冷えて真っ赤になっている。
「寒かったでしょう、本当に申し訳ない」
「全然、いいんです。慣れてますから。来て下さってありがとうございます。約束の絵と、写真をお返しします」
クリアファイルに入った絵を受け取った。写真がそのまま絵になったようで、でも写真ほど無機質でない。かなえの目尻の皺も、さくらの風に靡く長い髪も、艶も、僕の眼鏡の光沢も、そして金閣寺まで……。本当に細かいところまで描かれていて、まるで当時の会話や息遣いまで聞こえてきそうな生命感がある。これだけで川原留衣が真面目で誠実な青年だと分かる。なんだか胸が熱くなって涙が出そうだった。
「本当に素晴らしい……。勇気を出してお願いして良かった。ありがとうございます」
「モデルのご家族が素敵だからです」
「僕ね、仕事で外回りに出る時はいつも駅前を通るから、少し前からきみがここで絵を描いているのを知ってたんです。だけど、今度隣町の支店に変わるんで、ここにはもう来られなくなるんです。いつか描いていただけたらなと思っていたから、それが叶って本当に嬉しい」
代金は、と財布を取り出そうとすると、「いりません」と止められた。
「まさか今まで無料だったわけじゃないだろ?」
「本当にけっこうです。ただの暇つぶしや冷やかしじゃなく、あなたのように心から『描いて欲しい』と言って下さったのは初めてなんです。しかもそんな前から知っててもらえて、喜んでいただけるなんて夢にも思わなかった。それだけで充分なので、お金はいりません」
それでは僕の気が済まないが、本人が頑なにそう言うので、甘えることにした。
「雨、上がりましたね」
かすかに西の空が赤い。明日は晴れるだろう。やがて雲のあいだから太陽が現れた。雨上がりの夕陽は鮮やかで眩しい。傘を折り畳んだ川原留衣がこちらに向き直った。今日はキャップを被っておらず、その姿がようやくあきらかになった。柔らかそうな赤毛は夕陽に縁取られて輝き、白い肌は張りがある。猫のような悪戯っぽい大きな目に、思わずドキッとしてしまう。とても綺麗な男の子だ。想像より若いかもしれない。つい「いくつ?」と聞いてしまった。
「十九です」
「大学生か。あ、もしかしてS美大?」
「まあ……はい、そうです」
「どうりで。個性的な子だなと思ってたんだ」
「そんなこと初めて言われました……」
恥ずかしそうに頬を掻く姿がいじらしい。自分が十九の時はこんなに初々しかったかなと考えた。
「……それじゃあ、お仕事頑張って下さい。ありがとうございました」
一礼して踵を返した川原留衣に、僕は慌てて言った。
「あ、ありがとう! 本当に! 大事にする!」
なんてありきたりな。けれども振り返った川原留衣は満面の笑みを返してくれた。橙の後光に負けず劣らず眩しい笑顔こそ、きっと絵になるだろうに。
⇒
「川原留衣」。それがあの青年の名前らしい。
肩書きはなく、真っ白な名刺の真ん中に名前、右下にパソコンのメールアドレスと、SNSのQRコードが記載されていた。ユーザー登録をすると写真や絵などの投稿をしたり、知り合いとネット上で繋がったり、メッセージの交換をすることができる、というものだ。僕はそのQRコードを読み取ってみたが、ユーザーにしか見られないらしく、記事の投稿を見ることはできない。「川原留衣」本人らしいアイコンの写真は後姿。いつもキャップを被っていて顔を見たことがないから、せめてアイコンででも見られるかと思ったが、それも叶わない。本当にちょっとした興味本位だったのに、見られないとなるとますます見たくなる。ネットで直接検索をかけてみたが、それらしいものは出てこなかった。
「プロではないのかな……」
「え? 課長、何か言いましたか?」
栗田に言われて、サッとスマートフォンを隠して「なんでもない」と咳払いした。まあ、いいか。所詮、たまたま見かけた素人の絵描きだ。明日にはきっともういないはずだ。
けれど「川原留衣」は、翌日もその翌日も駅前の噴水で絵を描いていた。毎日駅に行くわけじゃないが、僕が駅に行った時は大抵、いる。いつも同じウィンドブレーカーとキャップだ。ひとりで景色を描いている時もあれば、通りすがりのモデルを描いていることもある。見本絵でもいいからじっくり見てみたいな、と思うのだけど、描いてもらう気もないのに見るのも悪いし、あまり近付くと怪しまれるので僕はいつも前を通り過ぎるだけだ。時々お客さんと話している時の声を聞いたり、口元だけが見えたりはする。この年頃の男にしてはやや高めでハキハキ喋るということ、薄い唇から見える歯が白くて歯並びが綺麗、ということは分かった。
いつも見かけるのによく知らない。もっと見たいのに見えない。そんなもどかしさが好奇心を掻き立てる。いつしか僕はいつものコーヒーショップのテラス席から絵を描いている「川原留衣」を眺めるのが習慣になっていた。
***
「異動ですか」
ある昼休み、支店長に昼食に呼ばれて蕎麦屋に行ってみれば、異動を言い渡された。異動先は隣町の支店で、今の支店より大きなところだ。
「融資の法人部だよ。向こうの阿部課長が辞職しちゃってね。急きょ人が足りないんできみが呼ばれたってわけさ。きみは地域の人からすごく好かれて信頼されているし、わたしとしても手放すのはとても惜しいんだけどね」
「僕も今の支店がとても働きやすかったので、寂しいです。そういう雰囲気を作って下さった支店長には感謝しています」
「ま、次の店も、そう悪くはないと思うよ。あそこの最上支店長はわたしの同期で仲が良いから、福島くんなら可愛がってもらえるだろうし、きみなら新しい場所でもすぐに信頼されるだろう。頑張ってくれ」
異動については僕自身、そろそろかなと思っていたから驚かない。ただ、洋菓子店の奥さんのことが気がかりだった。栗田に任せてもいいが、栗田は少し老人を軽視するところがあるから、奥さんに真摯に向き合えるか心配だ。それから、異動先の店は電車で行くには不便な場所なので、車で通勤することになるだろう。と、いうことは駅に行くことがなくなるのだ。もう噴水前で絵を描く「川原留衣」を見ることもないのだな、と思うと、なぜか洋菓子店の奥さんに会えなくなるのと同じくらいの寂しさを抱いたのだった。
翌日、僕はとうとう「川原留衣」に接触することに決めた。無理に関わらなくても見かけなくなったらそのうち忘れるだろうが、せめてどんな顔をしているのかだけでも知りたかった。
話し掛けるとなると、やはり描いてもらわなければならない。自分を描いてもらうのは恥ずかしいので、かなえとさくらと三人で撮った写真を持って行った。写真ならモデル本人がいなくても描けるだろうし。
外回りに出て、支店に戻る前に急ぎ足で駅前に向かった。この日に限ってあまり時間がなかったが、今日を逃したら二度と会えない気がして無理に行った。息を切らせて広場に到着すると、「川原留衣」はいつものように絵を描いている。僕は唾を飲み、呼吸を落ちつけてから、ゆっくり彼に近寄った。心臓がドキドキしている。こんなに緊張するのはいつぶりだろうか。
「……す、すみません」
「はい」
いつも偶然聞くだけだった、やや高めの若い声が、僕の呼びかけに反応する。それだけで感動してしまった。スケッチブックに目を落としていた川原留衣はこちらを見上げたが、キャップは目深に被ったままなので、ツバの影に隠れて目元がよく見えない。
「あの……絵を……描いていただけるんでしょうか……」
「はい、もちろん。鉛筆で簡単にデッサンするだけですが、それでもよろしければ。見本はこんな感じです」
と言って、並べている絵を指した。間近できちんと手に取ってみる川原留衣の絵は、とても繊細で丁寧で、……上手い。僕は芸術センスがないからそんなありきたりな言葉しか出ないけれど、見ているだけで温かくなるようなそんな絵だ。
「……素敵ですね。ぜひ、よろしくお願いします。モデルは僕じゃなくて写真でお願いしたいのだけど」
「かまいませんよ。写真はありますか?」
二年前に行った京都旅行で、家族で撮った写真を渡した。川原留衣は暫く眺め、「いい写真ですね」と呟いた。
「実はまだ仕事中で、これから職場に戻らないといけないんです」
「では明日、来られますか? いつも大体四時から六時くらいまでここで絵を描いてるんです。明日には仕上がってます」
「分かりました、四時から六時のあいだですね。よろしくお願いします」
結局、顔はよく分からなかったが直接話せただけでもかなりの進歩だ。腕時計を見るともう戻らなければならない時間だった。僕は最後に礼を言って、その場をあとにした。
次の日、早めに仕事を切り上げて六時ギリギリに駅前に行った。この日はあいにく朝から天気が悪く、昼から弱い雨が降り続いていたので、川原留衣がいるかどうか不安だった。けれども川原留衣はそこにいた。さすがに絵は描いていないが、紺色の傘をさして僕を待っていたのだ。
「すみません、遅くなってしまって!」
「いえ、時間通りですよ」
そうは言っても「四時から六時のあいだ」なんて曖昧な言い方では四時かもしれないし六時かもしれないし、下手したらまるまる二時間待たせたことになる。現に傘を持つ川原留衣の手は冷えて真っ赤になっている。
「寒かったでしょう、本当に申し訳ない」
「全然、いいんです。慣れてますから。来て下さってありがとうございます。約束の絵と、写真をお返しします」
クリアファイルに入った絵を受け取った。写真がそのまま絵になったようで、でも写真ほど無機質でない。かなえの目尻の皺も、さくらの風に靡く長い髪も、艶も、僕の眼鏡の光沢も、そして金閣寺まで……。本当に細かいところまで描かれていて、まるで当時の会話や息遣いまで聞こえてきそうな生命感がある。これだけで川原留衣が真面目で誠実な青年だと分かる。なんだか胸が熱くなって涙が出そうだった。
「本当に素晴らしい……。勇気を出してお願いして良かった。ありがとうございます」
「モデルのご家族が素敵だからです」
「僕ね、仕事で外回りに出る時はいつも駅前を通るから、少し前からきみがここで絵を描いているのを知ってたんです。だけど、今度隣町の支店に変わるんで、ここにはもう来られなくなるんです。いつか描いていただけたらなと思っていたから、それが叶って本当に嬉しい」
代金は、と財布を取り出そうとすると、「いりません」と止められた。
「まさか今まで無料だったわけじゃないだろ?」
「本当にけっこうです。ただの暇つぶしや冷やかしじゃなく、あなたのように心から『描いて欲しい』と言って下さったのは初めてなんです。しかもそんな前から知っててもらえて、喜んでいただけるなんて夢にも思わなかった。それだけで充分なので、お金はいりません」
それでは僕の気が済まないが、本人が頑なにそう言うので、甘えることにした。
「雨、上がりましたね」
かすかに西の空が赤い。明日は晴れるだろう。やがて雲のあいだから太陽が現れた。雨上がりの夕陽は鮮やかで眩しい。傘を折り畳んだ川原留衣がこちらに向き直った。今日はキャップを被っておらず、その姿がようやくあきらかになった。柔らかそうな赤毛は夕陽に縁取られて輝き、白い肌は張りがある。猫のような悪戯っぽい大きな目に、思わずドキッとしてしまう。とても綺麗な男の子だ。想像より若いかもしれない。つい「いくつ?」と聞いてしまった。
「十九です」
「大学生か。あ、もしかしてS美大?」
「まあ……はい、そうです」
「どうりで。個性的な子だなと思ってたんだ」
「そんなこと初めて言われました……」
恥ずかしそうに頬を掻く姿がいじらしい。自分が十九の時はこんなに初々しかったかなと考えた。
「……それじゃあ、お仕事頑張って下さい。ありがとうございました」
一礼して踵を返した川原留衣に、僕は慌てて言った。
「あ、ありがとう! 本当に! 大事にする!」
なんてありきたりな。けれども振り返った川原留衣は満面の笑みを返してくれた。橙の後光に負けず劣らず眩しい笑顔こそ、きっと絵になるだろうに。
⇒
スポンサーサイト
- Posted in: ★ひとりぼっちにさよなら
- Comment: 0Trackback: -