3
きっと俺は相当疲れているのだ。この二ヵ月、毎日深夜残業をしていたんだから無理もない。このままでは精神科に通わなければならないかもしれない。俺はゲイじゃない。早く正常な感覚を取り戻さなければ。なんでもいい。誰かどこかにいい女はいないのか。
「高室係長ぉ」
出社一番、廊下で話しかけてきたのは、例の社内人気ナンバーワンの、
「西田さん」
「西野ですぅ。いい加減覚えて下さいー」
「何か用かな?」
「昨日、係長が突然いなくなっちゃって、みんな寂しがってたんですよぉ。わたしもそのひとりなんですー」
辺りに誰もいないのをいいことに、西、野は露わになっている鎖骨を撫でながら、体をすり寄せてくる。壁に背をつくと、彼女はいよいよフェロモンを全開にした。豊満とまではいかないが、服の上からでも形が良いのが分かるバストを俺の腕に宛ててくる。
こういう体を安売りするような頭の悪い女は嫌いだ。俺がその手に乗るとでも思っているのか。……だけど悪い気がしないのは、これが悲しい男の現実なのだ。それに佐伯に対する迷妄から一刻も早く逃れなければならない。彼女には悪いが、そのために利用させてもらうには打ってつけかもしれない。
「それは、多少なりとも俺に好意があると受け取ってもいいのかな?」
「もちろんですぅ、できれば係長とまた飲みに行きたいです。今度はふ・た・り・で」
猫のような悪戯な眼をした西野に引き寄せられて、鼻先がぶつかりそうになったところで、佐伯が茫然と隣に立っているのに気が付いた。一気に血の気が引いて、西野を引き離す。
「さ、佐伯……!」
「ご、ごめんなさい。見るつもりじゃ……。失礼します!」
走り去った佐伯のあとをすぐに追った。「あん、なんでぇ?」と口を尖らす西野など見向きもせずに。
非常用階段に出たところで、腕を捉えた。
「佐伯、誤解だ」
「いえっ、僕、誰にも言いませんから! 安心して下さい」
「違うんだ。彼女とはなんでもない」
「だって、あんなに密着して……」
顔を赤らめて肩を窄める姿がどうしようもなくいじらしく思えて、俺はそれが当然の行為であるかのように、佐伯にキスをした。目を見開いたままの佐伯は俺の肩を押し返した。
「なっ、なんですか!?」
「そんな空気だったから」
「意味わかんないですよ! そんな空気だったら男とキスするんですか、高室さんは!」
「……男とキス……したことない?」
「ないですよ!」
「だってお前、ゲイなんじゃないのか?」
「はああ!? なんで!?」
「中村さんがそう言ってた」
「中村さんって……元営業本部の? 違いますよ!」
「お前が路上で男と抱き合ってるのを見たって」
「抱き合ってない! 確かに以前、路上で酔っ払った友人を介抱してる時に抱き付かれたことはありましたけど、僕はゲイじゃない!」
――僕はゲイじゃない。
ぼくはげいじゃない。
ボクハゲイジャナイ。――
佐伯の言葉に、ホッとしたような、がっかりしたような、そんな拍子抜けに俺はただ、まばたきを繰り返した。
「や、でもさ、昨日、朝から俺のことずっと見てなかった?」
「……言ってもいいんですか」
「言ってくれ」
「鼻毛が出てたんですよ! ついでに今も出てます!」
佐伯はそう叫んで、階段を駆け下りて行った。だんだんと遠くなる佐伯の足音。その場に取り残された俺は、呆れた勘違いにもはや羞恥心すら抱かなかった。
――そうか……。佐伯はゲイじゃないのか。俺の顔を見ていたのも、鼻毛が出ていたから……。ズボンのチャックが開いてたから……。注意したくても気兼ねしてできなかっただけか……。
闇雲に鼻毛を抜いて、ふっ、と吹き飛ばしてみる。
――あー、カッコ悪い。
***
『お疲れ様です。先日の飲み会の写真を送りまーす☆ 人事部・田中』
CCに記載されている名前は飲み会に参加した社員全員。当然だが、佐伯の名前もある。「佐伯智弘」という名前にすら反応してしまう。メールに添付されている「思い出」という圧縮フォルダを開くと、いつの間にこんなに撮ったのか、大量の画像が保存されていた。人事の人間、総務の人間、法務の人間、そして、経理の人間……。変顔をしたり、やたら大笑いしている顔だったり、「大人って子どもだよな」と口元を綻ばせながら一枚一枚、写真を確認した。目に留まったのは、佐伯がひとりで写っている写真。なんの証明写真だと言いたくなるほど畏まって座っている。だけど表情は、はにかみ笑顔。ついついズームとかしちゃってる。そしてあることに気付くと、俺はようやく、自覚したのだった。
――佐伯が俺を見てたんじゃない。俺がずっと佐伯を見てたんだ。俺の視線を感じたから、佐伯は見返していただけなんだ。
佐伯の後ろで、佐伯を見つめている自分の姿が小さく写っている、この写真がいい証拠だ。
俺はゲイじゃない。ゲイじゃないけど……、
「高室さん、交際費のQ&A、誰が持ってます?」
経理主任に声を掛けられて、フォルダを閉じた。
「えーっと、佐伯のパソコンじゃないかな。佐伯どこ行った?」
ホワイトボードに「七階、書庫」と書かれている。社内電話で佐伯に連絡を取る。
『佐伯です』
「交際費のQ&A見たいから、お前のパソコンのパスワード教えて」
『……saekingです』
「サエキング……」
『笑わないで下さいっ』
「いやいや、……あー、開いた開いた。どのフォルダ?」
『財務本部から経理部からの……交際費……あっ! 待って下さい!』
「え? あったよ。これだろ?」
『やっぱり僕が直接印刷しますから、そのまま待ってて下さい!』
電話はそこで切れた。
佐伯の言っていた通りの手順でフォルダを開いていくと、目当てのエクセルとともに一枚の写真が保存されていた。いけないと思いながらも興味には勝てず、その写真を開いた。
「これは……」
「ああっ! 開いたんですか!?」
息を切らせて戻ってきた佐伯が、青ざめた顔で俺の背後に立った。俺が開いたものは、「思い出」フォルダの中にあった大量の写真のうちの一枚。俺だけが写っているものだった。
「佐伯……これ」
「た、高室さんの馬鹿ぁ!」
真っ赤な顔で涙声で叫んで、佐伯は逃げ出した。フロア全体から軽蔑の眼差しが俺に向けられる。
「高室係長、何やらかしたんですか?」
「新入社員泣かせて、鬼ですね」
俺は慌てて佐伯を追った。給湯室から啜り泣く声が聞こえたので覗いてみたら、やはり佐伯がうずくまって泣いていた。
「サエキング……」
「馬鹿にしないで下さいっ!」
「あ、ごめん」
新入社員とはいえ、二十三にもなろうとしているいい大人がうずくまって泣くなんて情けない。だが、そんな姿が可愛い。
「悪かった、佐伯。勝手に見て済まない」
「……引いてるんでしょう。気持ち悪いって」
「引くわけないだろ。だけど、どうして」
「……高室さんは、スマートでかっこよくて、仕事もできて、男性からも女性からも支持されてる完璧な人です。僕も尊敬してます。だけど、そんな完璧な人が鼻毛出してたりチャック開けっ放しだったり、そんな人間らしいところがなんか……可愛いなって思えて……そしたら、やたら目が合うし、意識しちゃって……」
「つまり俺が好きなのか?」
「だけど、僕はゲイじゃない。ゲイじゃないけど……」
俺はその震えるリスのような小さな背中を抱き締めた。
「俺もな、昨日やたら目が合うから、自惚れてたんだ。もしかして佐伯は俺が好きなんじゃないかってさ。でも、チャック開いてるやら鼻毛出てるやら言われて、ああ、なんだ、俺の勘違いかって落ち込んでたんだ」
「……高室さんはゲイなんですか」
「俺もゲイじゃない。ゲイじゃないけど、佐伯が好きだ」
「高室さん……」
佐伯をゆっくり振り向かせ、唇が重なるまであと寸分というところで、
「いやぁ! 良かった、良かった!」
驚いて振り向くと、そこには拍手をしている田中主任と西野がいた。
「心配で様子見に来ちゃいました! 上手くいったようで安心しました!」
「え~高室係長、モーホーだったんですかぁ? それじゃあ仕方ないですよねぇ」
「ちょ、お前ら!」
「あ、安心してください。課長と部長には秘密にしときますんで」
「全員に伏せとけ!」
「じゃあ、四人の秘密ということで」
「いやん、やらし~」
不審に去っていく二人を引き止めようとしたら、佐伯がそれを遮り、キスをした。
「すみません、僕のせいで。だけど僕は、知られたら知られたで構わない」
……それもそうか。結局どうやっても人の口に戸は立てられない。俺は改めて佐伯を抱き締めた。勘違いから目覚めた恋は、まだ始まったばかりだ。
――後日、田中主任から俺と佐伯だけにメールが送られてきた。「思い出2」という名前の圧縮フォルダが添付されている。中にあったのは、俺のズボンのチャックを上げようとしている佐伯と、少し頬を赤らめている俺の変態写真だった。
『社内でエッチはしないでくださいね☆ 人事部・田中』
END
「高室係長ぉ」
出社一番、廊下で話しかけてきたのは、例の社内人気ナンバーワンの、
「西田さん」
「西野ですぅ。いい加減覚えて下さいー」
「何か用かな?」
「昨日、係長が突然いなくなっちゃって、みんな寂しがってたんですよぉ。わたしもそのひとりなんですー」
辺りに誰もいないのをいいことに、西、野は露わになっている鎖骨を撫でながら、体をすり寄せてくる。壁に背をつくと、彼女はいよいよフェロモンを全開にした。豊満とまではいかないが、服の上からでも形が良いのが分かるバストを俺の腕に宛ててくる。
こういう体を安売りするような頭の悪い女は嫌いだ。俺がその手に乗るとでも思っているのか。……だけど悪い気がしないのは、これが悲しい男の現実なのだ。それに佐伯に対する迷妄から一刻も早く逃れなければならない。彼女には悪いが、そのために利用させてもらうには打ってつけかもしれない。
「それは、多少なりとも俺に好意があると受け取ってもいいのかな?」
「もちろんですぅ、できれば係長とまた飲みに行きたいです。今度はふ・た・り・で」
猫のような悪戯な眼をした西野に引き寄せられて、鼻先がぶつかりそうになったところで、佐伯が茫然と隣に立っているのに気が付いた。一気に血の気が引いて、西野を引き離す。
「さ、佐伯……!」
「ご、ごめんなさい。見るつもりじゃ……。失礼します!」
走り去った佐伯のあとをすぐに追った。「あん、なんでぇ?」と口を尖らす西野など見向きもせずに。
非常用階段に出たところで、腕を捉えた。
「佐伯、誤解だ」
「いえっ、僕、誰にも言いませんから! 安心して下さい」
「違うんだ。彼女とはなんでもない」
「だって、あんなに密着して……」
顔を赤らめて肩を窄める姿がどうしようもなくいじらしく思えて、俺はそれが当然の行為であるかのように、佐伯にキスをした。目を見開いたままの佐伯は俺の肩を押し返した。
「なっ、なんですか!?」
「そんな空気だったから」
「意味わかんないですよ! そんな空気だったら男とキスするんですか、高室さんは!」
「……男とキス……したことない?」
「ないですよ!」
「だってお前、ゲイなんじゃないのか?」
「はああ!? なんで!?」
「中村さんがそう言ってた」
「中村さんって……元営業本部の? 違いますよ!」
「お前が路上で男と抱き合ってるのを見たって」
「抱き合ってない! 確かに以前、路上で酔っ払った友人を介抱してる時に抱き付かれたことはありましたけど、僕はゲイじゃない!」
――僕はゲイじゃない。
ぼくはげいじゃない。
ボクハゲイジャナイ。――
佐伯の言葉に、ホッとしたような、がっかりしたような、そんな拍子抜けに俺はただ、まばたきを繰り返した。
「や、でもさ、昨日、朝から俺のことずっと見てなかった?」
「……言ってもいいんですか」
「言ってくれ」
「鼻毛が出てたんですよ! ついでに今も出てます!」
佐伯はそう叫んで、階段を駆け下りて行った。だんだんと遠くなる佐伯の足音。その場に取り残された俺は、呆れた勘違いにもはや羞恥心すら抱かなかった。
――そうか……。佐伯はゲイじゃないのか。俺の顔を見ていたのも、鼻毛が出ていたから……。ズボンのチャックが開いてたから……。注意したくても気兼ねしてできなかっただけか……。
闇雲に鼻毛を抜いて、ふっ、と吹き飛ばしてみる。
――あー、カッコ悪い。
***
『お疲れ様です。先日の飲み会の写真を送りまーす☆ 人事部・田中』
CCに記載されている名前は飲み会に参加した社員全員。当然だが、佐伯の名前もある。「佐伯智弘」という名前にすら反応してしまう。メールに添付されている「思い出」という圧縮フォルダを開くと、いつの間にこんなに撮ったのか、大量の画像が保存されていた。人事の人間、総務の人間、法務の人間、そして、経理の人間……。変顔をしたり、やたら大笑いしている顔だったり、「大人って子どもだよな」と口元を綻ばせながら一枚一枚、写真を確認した。目に留まったのは、佐伯がひとりで写っている写真。なんの証明写真だと言いたくなるほど畏まって座っている。だけど表情は、はにかみ笑顔。ついついズームとかしちゃってる。そしてあることに気付くと、俺はようやく、自覚したのだった。
――佐伯が俺を見てたんじゃない。俺がずっと佐伯を見てたんだ。俺の視線を感じたから、佐伯は見返していただけなんだ。
佐伯の後ろで、佐伯を見つめている自分の姿が小さく写っている、この写真がいい証拠だ。
俺はゲイじゃない。ゲイじゃないけど……、
「高室さん、交際費のQ&A、誰が持ってます?」
経理主任に声を掛けられて、フォルダを閉じた。
「えーっと、佐伯のパソコンじゃないかな。佐伯どこ行った?」
ホワイトボードに「七階、書庫」と書かれている。社内電話で佐伯に連絡を取る。
『佐伯です』
「交際費のQ&A見たいから、お前のパソコンのパスワード教えて」
『……saekingです』
「サエキング……」
『笑わないで下さいっ』
「いやいや、……あー、開いた開いた。どのフォルダ?」
『財務本部から経理部からの……交際費……あっ! 待って下さい!』
「え? あったよ。これだろ?」
『やっぱり僕が直接印刷しますから、そのまま待ってて下さい!』
電話はそこで切れた。
佐伯の言っていた通りの手順でフォルダを開いていくと、目当てのエクセルとともに一枚の写真が保存されていた。いけないと思いながらも興味には勝てず、その写真を開いた。
「これは……」
「ああっ! 開いたんですか!?」
息を切らせて戻ってきた佐伯が、青ざめた顔で俺の背後に立った。俺が開いたものは、「思い出」フォルダの中にあった大量の写真のうちの一枚。俺だけが写っているものだった。
「佐伯……これ」
「た、高室さんの馬鹿ぁ!」
真っ赤な顔で涙声で叫んで、佐伯は逃げ出した。フロア全体から軽蔑の眼差しが俺に向けられる。
「高室係長、何やらかしたんですか?」
「新入社員泣かせて、鬼ですね」
俺は慌てて佐伯を追った。給湯室から啜り泣く声が聞こえたので覗いてみたら、やはり佐伯がうずくまって泣いていた。
「サエキング……」
「馬鹿にしないで下さいっ!」
「あ、ごめん」
新入社員とはいえ、二十三にもなろうとしているいい大人がうずくまって泣くなんて情けない。だが、そんな姿が可愛い。
「悪かった、佐伯。勝手に見て済まない」
「……引いてるんでしょう。気持ち悪いって」
「引くわけないだろ。だけど、どうして」
「……高室さんは、スマートでかっこよくて、仕事もできて、男性からも女性からも支持されてる完璧な人です。僕も尊敬してます。だけど、そんな完璧な人が鼻毛出してたりチャック開けっ放しだったり、そんな人間らしいところがなんか……可愛いなって思えて……そしたら、やたら目が合うし、意識しちゃって……」
「つまり俺が好きなのか?」
「だけど、僕はゲイじゃない。ゲイじゃないけど……」
俺はその震えるリスのような小さな背中を抱き締めた。
「俺もな、昨日やたら目が合うから、自惚れてたんだ。もしかして佐伯は俺が好きなんじゃないかってさ。でも、チャック開いてるやら鼻毛出てるやら言われて、ああ、なんだ、俺の勘違いかって落ち込んでたんだ」
「……高室さんはゲイなんですか」
「俺もゲイじゃない。ゲイじゃないけど、佐伯が好きだ」
「高室さん……」
佐伯をゆっくり振り向かせ、唇が重なるまであと寸分というところで、
「いやぁ! 良かった、良かった!」
驚いて振り向くと、そこには拍手をしている田中主任と西野がいた。
「心配で様子見に来ちゃいました! 上手くいったようで安心しました!」
「え~高室係長、モーホーだったんですかぁ? それじゃあ仕方ないですよねぇ」
「ちょ、お前ら!」
「あ、安心してください。課長と部長には秘密にしときますんで」
「全員に伏せとけ!」
「じゃあ、四人の秘密ということで」
「いやん、やらし~」
不審に去っていく二人を引き止めようとしたら、佐伯がそれを遮り、キスをした。
「すみません、僕のせいで。だけど僕は、知られたら知られたで構わない」
……それもそうか。結局どうやっても人の口に戸は立てられない。俺は改めて佐伯を抱き締めた。勘違いから目覚めた恋は、まだ始まったばかりだ。
――後日、田中主任から俺と佐伯だけにメールが送られてきた。「思い出2」という名前の圧縮フォルダが添付されている。中にあったのは、俺のズボンのチャックを上げようとしている佐伯と、少し頬を赤らめている俺の変態写真だった。
『社内でエッチはしないでくださいね☆ 人事部・田中』
END
スポンサーサイト