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夜が更けるにつれ、仕事の愚痴や会社の内情で盛り上がったり、密かに女を口説く奴もいたり、いい大人がビアガーデンという開放的な空気に乗りに乗って身も心も踊らせまくっている。俺はそんな中で反比例して気分が下がり気味だった。本決算の処理で連日深夜まで残業続きだったので、その疲労が出てきたのだ。酔うに酔えない。いったんトイレでひと息つくことにする。
用を済ませて手を洗っているところに、佐伯がやってきた。鏡の中で目が合うと気恥ずかしさが倍増するのは何故だろう。
「お疲れ様です」
「お疲れ。楽しんでるか」
「ええ。本当、みんな楽しい人たちで、僕この会社に入って良かったです」
「経理なのに?」
「どういうことですか?」
「経理って陰気で激務で、敬遠されがちだろ。嫌じゃないか?」
「そんなことないですよ。むしろ、力になれることがなくて申し訳ないなって思います」
「悪いな、色々教えてやりたいんだけどな。来週の株主総会終わったら暇になるから、そしたらお前にも手伝ってもらうよ」
佐伯は返事をする代わりに満面の笑みを浮かべた。改めてまじまじと佐伯の顔を覗き込んでみる。酒のせいか白い頬と耳はピンク色になっていて、瞳がうるうるしている。世慣れてなさそうな無防備な顔。ちょっと挙動不審だが、そこがまたリスのようで微笑ましい。
「ち、近いです、近いです」
体をのけ反らせて佐伯は顔の前で手をひらひら振った。
「おっと、失礼」
アップにも耐えられるこのマスク。女子社員が密かに騒ぐのも無理はない。母性本能をくすぐる系か。俺に母性はないが、確かに煽られるものがある。
「今日はよく目が合うよな」
「え? はい、そうですね」
「俺の顔に何かついてるのか?」
「ついてませんけど……」
「けど?」
佐伯はじっと俺の顔を見ると、かぁっ、と赤くなって「やっぱり、いいです」と俯いた。俺は何を思ったのか、核心に迫りたくなった。
「けど、なんだよ」
「いえ、いいんです。気にしないで下さい」
『よくない、俺が気になるんだ。早く言え』
『本当に何も……あっ、痛い!』
『言うまで離さないからな。なんで俺を見て赤くなるんだ?』
『……高室係長が……好きだから』
と、いうのは一瞬にして思い描いた俺のシナリオだ。
しかし現実はシナリオ通りにはいかないもので、
「……何もないんなら、いいんだけど」
「はい。じゃ、僕は戻りますね」
そそくさと去る佐伯の後姿を見送った。ポリポリ頭を掻きながら冷静を取り戻す。
――なんで俺はあんな馬鹿な妄想をしたんだ?
腕時計の針は午後九時半。そろそろお開きにしてもいい頃だが、連中はまだまだ騒ぎ足りないらしい。このままいけば二次会、三次会と続くかもしれない。佐伯は……田中と楽しそうに談笑している。トイレで話をしてから、ぱったりと目が合わなくなった。
――おーい。
と、心の中で呼び掛けてみても、佐伯は田中との会話に夢中で気付きもしない。意味もなく苛々して、俺はまたわけも分からず舌打ちをした。
「あーん、高室係長ぉ、それ、わたしのビールですぅ」
甘ったるい猫なで声で言われて、社内人気ナンバーワンの女子が隣に座っていることを今、知った。
「あ、君の? ごめんね」
「係長と間接キス、嬉しいですぅ」
ぽてっとした唇を尖らせて、上目遣いで言う。確かに顔は上玉だ。だが、俺はこういう媚を売る小悪魔系はタイプじゃない。どちらかと言えば清楚でおしとやかな……小動物っぽい……佐伯みたいな……むしろ佐伯が……、
「違うだろ!」
突然張り上げた俺の声に、周囲が静まり返った。一斉に振り向いた連中の中には勿論、佐伯もいる。
「し、失礼。……えーと、西田くん」
「西野ですぅ」
「代わりのビールを持ってくるよ」
「いいんですかぁ~?」
席を立つと、連中は何事もなかったかのように歓談を再開した。
あまり食事をしていないので、ビールを注いだついでに適当に食料も調達する。バイキング形式のビアガーデンで助かった。正直言って料理はあまり美味そうじゃないが、気分転換にうろつくには丁度いい。右手にビール、左手にフライの皿を持って身を翻した時、目の前に佐伯が立っていた。
「持ちましょうか」
「平気だ」
佐伯はちらちらと俺の顔を見ては口ごもっている。どういうわけか俺の下半身に目をやると耳を赤くした。
「なあ、佐伯。なんで俺を見て赤くなるんだ」
「それは……」
「言いたいことがあるならはっきり言え」
「あの、じゃあ……高室さん、……チャック、開いてます……」
「え!?」
自分の下半身を見ると思いっきり社会の窓がオープンに。
「いつから!?」
「昼から」
「早く言え!」
「さっきトイレ行かれてたんで気付いたかなと思ったんですけど」
「もっと早く!」
「いや、なんか、プライド傷付けちゃうかと思うと言えなくて」
「黙られてるほうが傷付くわ!」
「すみません」
俺を見て顔を赤くしていたのは、俺の無様な下半身を指摘するにできなかったからなのだと今更気付いた。それなのに俺は図に乗って馬鹿な妄想までして、これぞ愚の骨頂。こうなったらもう自棄だった。
「佐伯、お前がチャック閉めろ」
「は!?」
「俺は今、両手が塞がってるんだ。早くしろ」
「え、え――……」
「さっと上げれば済むだろう」
「じゃあ、失礼します」
そして佐伯の細い指が俺の股間に宛てられる。スライダーが食い込んでいるのか手間取っていて、二秒で終わるはずの作業に無駄に時間をかけている。
――くそっ、さっさとしろ! 公衆の面前で部下に股間を触らせて、俺は変態か!
しかも、さわさわと擦る感覚がなんか……なんか……、まずい、勃っ……、
「高室さん、佐伯、何やってんすか?」
田中だった。ちょうど佐伯が「できました」と顔を上げる。
「ああ、田中、いいところにきた。このビールを西田さんに渡してくれ」
「西野さんですね。そのフライは? 美味そうっすね」
「ああ……あれ? 佐伯……」
いつの間に去ったのか、目の前に佐伯の姿はなかった。もしかして俺の変態まがいな命令に幻滅したのだろうか。テントを張りかけたのは耐えられたが。
……そりゃあ、そうだろう。普通に考えればセクハラだ。佐伯もこの上ない屈辱を受けたと思ったかもしれない。
――俺は、なんて馬鹿なことを。
「悪い、田中。……俺は帰るよ。フライはお前が食え」
「え? 気分悪いんですか? 大丈夫ですか?」
「ああ……ひとりにしてくれ」
その晩、俺は夢を見た。
素っ裸の俺と佐伯が、抱き合っている夢だった。夢の中の佐伯は、スーツの下の肌も白くてスベスベしていて、俺が触るところ触るところに敏感に反応する。痛みに顔を歪め、快楽に溺れた甘い嬌声を上げ、泣きながら「もっと」としがみついてくる。女としている時よりも興奮した。
――高室さん……僕、あなたが好きです。
――俺も……佐伯が……、
「ぬぉあああ! なんて夢を―――!!」
寝起きだというのに、この汗、息切れ。朝っぱらから不埒な俺の股間とは裏腹に、爽やかな青空が窓の外に広がっている。
「……俺も佐伯が……なんだよ」
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用を済ませて手を洗っているところに、佐伯がやってきた。鏡の中で目が合うと気恥ずかしさが倍増するのは何故だろう。
「お疲れ様です」
「お疲れ。楽しんでるか」
「ええ。本当、みんな楽しい人たちで、僕この会社に入って良かったです」
「経理なのに?」
「どういうことですか?」
「経理って陰気で激務で、敬遠されがちだろ。嫌じゃないか?」
「そんなことないですよ。むしろ、力になれることがなくて申し訳ないなって思います」
「悪いな、色々教えてやりたいんだけどな。来週の株主総会終わったら暇になるから、そしたらお前にも手伝ってもらうよ」
佐伯は返事をする代わりに満面の笑みを浮かべた。改めてまじまじと佐伯の顔を覗き込んでみる。酒のせいか白い頬と耳はピンク色になっていて、瞳がうるうるしている。世慣れてなさそうな無防備な顔。ちょっと挙動不審だが、そこがまたリスのようで微笑ましい。
「ち、近いです、近いです」
体をのけ反らせて佐伯は顔の前で手をひらひら振った。
「おっと、失礼」
アップにも耐えられるこのマスク。女子社員が密かに騒ぐのも無理はない。母性本能をくすぐる系か。俺に母性はないが、確かに煽られるものがある。
「今日はよく目が合うよな」
「え? はい、そうですね」
「俺の顔に何かついてるのか?」
「ついてませんけど……」
「けど?」
佐伯はじっと俺の顔を見ると、かぁっ、と赤くなって「やっぱり、いいです」と俯いた。俺は何を思ったのか、核心に迫りたくなった。
「けど、なんだよ」
「いえ、いいんです。気にしないで下さい」
『よくない、俺が気になるんだ。早く言え』
『本当に何も……あっ、痛い!』
『言うまで離さないからな。なんで俺を見て赤くなるんだ?』
『……高室係長が……好きだから』
と、いうのは一瞬にして思い描いた俺のシナリオだ。
しかし現実はシナリオ通りにはいかないもので、
「……何もないんなら、いいんだけど」
「はい。じゃ、僕は戻りますね」
そそくさと去る佐伯の後姿を見送った。ポリポリ頭を掻きながら冷静を取り戻す。
――なんで俺はあんな馬鹿な妄想をしたんだ?
腕時計の針は午後九時半。そろそろお開きにしてもいい頃だが、連中はまだまだ騒ぎ足りないらしい。このままいけば二次会、三次会と続くかもしれない。佐伯は……田中と楽しそうに談笑している。トイレで話をしてから、ぱったりと目が合わなくなった。
――おーい。
と、心の中で呼び掛けてみても、佐伯は田中との会話に夢中で気付きもしない。意味もなく苛々して、俺はまたわけも分からず舌打ちをした。
「あーん、高室係長ぉ、それ、わたしのビールですぅ」
甘ったるい猫なで声で言われて、社内人気ナンバーワンの女子が隣に座っていることを今、知った。
「あ、君の? ごめんね」
「係長と間接キス、嬉しいですぅ」
ぽてっとした唇を尖らせて、上目遣いで言う。確かに顔は上玉だ。だが、俺はこういう媚を売る小悪魔系はタイプじゃない。どちらかと言えば清楚でおしとやかな……小動物っぽい……佐伯みたいな……むしろ佐伯が……、
「違うだろ!」
突然張り上げた俺の声に、周囲が静まり返った。一斉に振り向いた連中の中には勿論、佐伯もいる。
「し、失礼。……えーと、西田くん」
「西野ですぅ」
「代わりのビールを持ってくるよ」
「いいんですかぁ~?」
席を立つと、連中は何事もなかったかのように歓談を再開した。
あまり食事をしていないので、ビールを注いだついでに適当に食料も調達する。バイキング形式のビアガーデンで助かった。正直言って料理はあまり美味そうじゃないが、気分転換にうろつくには丁度いい。右手にビール、左手にフライの皿を持って身を翻した時、目の前に佐伯が立っていた。
「持ちましょうか」
「平気だ」
佐伯はちらちらと俺の顔を見ては口ごもっている。どういうわけか俺の下半身に目をやると耳を赤くした。
「なあ、佐伯。なんで俺を見て赤くなるんだ」
「それは……」
「言いたいことがあるならはっきり言え」
「あの、じゃあ……高室さん、……チャック、開いてます……」
「え!?」
自分の下半身を見ると思いっきり社会の窓がオープンに。
「いつから!?」
「昼から」
「早く言え!」
「さっきトイレ行かれてたんで気付いたかなと思ったんですけど」
「もっと早く!」
「いや、なんか、プライド傷付けちゃうかと思うと言えなくて」
「黙られてるほうが傷付くわ!」
「すみません」
俺を見て顔を赤くしていたのは、俺の無様な下半身を指摘するにできなかったからなのだと今更気付いた。それなのに俺は図に乗って馬鹿な妄想までして、これぞ愚の骨頂。こうなったらもう自棄だった。
「佐伯、お前がチャック閉めろ」
「は!?」
「俺は今、両手が塞がってるんだ。早くしろ」
「え、え――……」
「さっと上げれば済むだろう」
「じゃあ、失礼します」
そして佐伯の細い指が俺の股間に宛てられる。スライダーが食い込んでいるのか手間取っていて、二秒で終わるはずの作業に無駄に時間をかけている。
――くそっ、さっさとしろ! 公衆の面前で部下に股間を触らせて、俺は変態か!
しかも、さわさわと擦る感覚がなんか……なんか……、まずい、勃っ……、
「高室さん、佐伯、何やってんすか?」
田中だった。ちょうど佐伯が「できました」と顔を上げる。
「ああ、田中、いいところにきた。このビールを西田さんに渡してくれ」
「西野さんですね。そのフライは? 美味そうっすね」
「ああ……あれ? 佐伯……」
いつの間に去ったのか、目の前に佐伯の姿はなかった。もしかして俺の変態まがいな命令に幻滅したのだろうか。テントを張りかけたのは耐えられたが。
……そりゃあ、そうだろう。普通に考えればセクハラだ。佐伯もこの上ない屈辱を受けたと思ったかもしれない。
――俺は、なんて馬鹿なことを。
「悪い、田中。……俺は帰るよ。フライはお前が食え」
「え? 気分悪いんですか? 大丈夫ですか?」
「ああ……ひとりにしてくれ」
その晩、俺は夢を見た。
素っ裸の俺と佐伯が、抱き合っている夢だった。夢の中の佐伯は、スーツの下の肌も白くてスベスベしていて、俺が触るところ触るところに敏感に反応する。痛みに顔を歪め、快楽に溺れた甘い嬌声を上げ、泣きながら「もっと」としがみついてくる。女としている時よりも興奮した。
――高室さん……僕、あなたが好きです。
――俺も……佐伯が……、
「ぬぉあああ! なんて夢を―――!!」
寝起きだというのに、この汗、息切れ。朝っぱらから不埒な俺の股間とは裏腹に、爽やかな青空が窓の外に広がっている。
「……俺も佐伯が……なんだよ」
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