番外編1
達也と別れてから、圭介は1LDKの賃貸アパートに越した。もともとふたりで広々と暮らすために借りたマンションだった。独りになった今では、わざわざ高い家賃を払ってまで居座る必要はない。
達也と話をした数日後、彼は早々に新しい住居を見つけて瞬く間に引っ越した。家具は使ってくれと言われたが、ダブルベッドもソファもひとりで使うには大きすぎる。思い出が詰まっている、なんて女々しいことを言いたくはないが、やはりアイテムひとつで蘇る記憶は多々あり、それを懐かしむ域になるにはまだ日が浅かった。少しでも孤独に飢えたり罪悪感に苛まれることがないように、ほとんどの家具は処分した。
新しい部屋にあるのは折り畳み式のローテーブルと、シングルのパイプベッドだけ。備え付けの冷蔵庫の中はほとんど蓄えがない。いつも達也が起こしてくれていた朝は、大音量に設定したアラームでひとりで目覚め、たいした朝食を摂らずに仕事へ向かう。休日は昼過ぎまで寝て、気が向いた時にジャンクフードで空腹を満たした。小さなスポーツ用品店での代わり映えのない日々。圭介はそんな殺風景で退屈な日常を過ごしている。
―――
ある日、実家の母から差し入れがあった。段ボール箱いっぱいにインスタント食品や趣味の悪いプリントがされたTシャツ、そして今季最期の収穫だというレモンが入っていた。同封されていた簡易的な手紙には、『達也くんによろしくね』と書かれてあり、つい鼻で笑う。
『あんた宛に届いてた手紙も入れておくわよ』
荷物の底に茶封筒の手紙があった。以前届いた手紙と同じ封筒、同じ筆跡。圭介はその手紙を乱雑に開いた。
『圭介へ
何度もごめん。以前、手紙を送ってから何も音沙汰ないから、心配でまた送ってしまった。
元気にしてるか。前の手紙にも書いたように、俺は昨年の冬にサッカー教室を開いたよ。
最初は厳しかったけど、少しずつ生徒も増えて順調にいってるよ。
これで最後にするから、もう一度だけ頼みたい。教室を手伝ってくれないか。
できれば今月中に返事をもらいたい。』
圭介は手紙を繰り返し読んだ。前回の手紙で手伝ってくれと言われてから、本当はずっと迷っている。今の冴えない日常から抜け出したい。だけど、自分に指導能力があるとも思えない。それに秋山に関わったら、達也への当てつけのようで嫌だった。
手紙をテーブルに放り投げて、フローリングに寝転る。
「連絡くれっつーなら、住所くらい書いとけ、バカヤロー」
***
――二年前
「お前は誰にパスしてるんだ、ひとりでやってるんじゃないんだぞ!!」
チームメイトとあまり打ち解けられず、ワンマンプレーの多い圭介は監督から注意を受けることがよくあった。チームワークが大事なサッカーで勝手に動くと大抵はメンバーから外されるが、運よく圭介が自分本位なプレーをした試合は勝つことが多かったので、大目に見てくれていただけだ。それでも圭介を庇うチームメイトはいない。目の前でどんなに叱責されていても見て見ぬふりだ。
「今度やったら外すからなッ!」
こういう場合のストレスの発散方法は八つ当たりだ。練習用のボールを無意味に蹴散らしたり、ロッカーを思い切り蹴って扉をへこませる。思春期の子どものようなやり方には自分でも呆れるが、そうするしかなかったのだ。
「圭介、大丈夫だったか?」
他のメンバーが出払った更衣室で座り込んでいるところを、秋山が声を掛けた。とっくに帰り支度を整えているはずの秋山が何故まだ残っているのだと、圭介は訝しんだ。
「なんか用か」
「だいぶ絞られてたみたいだからさ」
「いつものことだよ」
「あのさ、俺は、圭介のプレーいいと思うよ。今日の試合も、あれはパスを受け取れなかった石川のミスだったと思う」
圭介はこれ見よがしに鬱陶しそうな顔をして秋山の言葉を遮った。下手な慰めや世辞を言われるのは好まないのだ。
「そりゃどーも」
シャワーまで済ませているのか、秋山を通り過ぎた時にミントのシャンプーの香りがした。秋山は圭介の後を追う。
「なあ、ひとつ聞いてもいいか?」
「なんだよ」
「圭介はメンバーのこと信用してないのか」
「信用はしてるぜ。俺だっていつも自分勝手にやってるわけじゃない」
「それは分かるけど」
「ほっとけ。気が立ってんだよ」
クラブを出て少し離れた外灯の下で、達也が立っていた。迷わず達也のほうへ向かう。
「俺で良かったら、愚痴でもなんでも聞く!」
秋山の余計なお世話とも言える言葉に、圭介は振り返らずに手を挙げただけだ。
――秋山渉は、圭介と同じ時季にカンタマーレに入団した同い年の選手だ。ポジションはディフェンダーで、足が速く洞察力に優れている。けれども他のチームメイトと比べて小柄の秋山は体力に自信がなかった。また本番に弱く、どこか臆病な面もあり、いつも控えだ。本人は細く長く生きられたらいいと考えているのか野心がない。せっかく技術はあるのに勿体ないと、圭介はよく思ったものだ。
気さくで明るい秋山はチームメイトたちとも満遍なく仲が良かった。他のチームメイトが調子が悪くて沈んでいる時に励ましている秋山の姿をよく見る。闘争心のない人間は無害ということもあるだろう。秋山はクラブの中でも精神面で頼りにされる男だった。
他人と必要以上に慣れ合いたくない圭介とは、普段は事務的な会話しかしない。秋山が親睦を深めようとするとあからさまに避ける。別に嫌いなわけではない。ただ面倒なだけだった。先ほどのように監督に叱責されたあとも、他のチームメイトからは無視をされるのに秋山だけは声を掛けてくる。気にしてくれているのは有難いが、圭介にとっては鬱陶しいだけでしかなかったのだ。
「圭介、お疲れ様」
達也は笑顔で圭介を迎えた。連れ立って歩いて行く途中で秋山に振り返った。暗がりの中でまだ圭介を見送っている。
「どうかした?」
「いや」
「今日はちょっと冷えるよね。鍋でもしようか」
圭介は達也の頭を引き寄せて強引にキスをした。自分に余計な世話を焼くのは達也だけでいいのだ。
「好きなんだ」
と、秋山から告白をされたのは、その翌日のことだった。帰り道で追い掛けてきたと思ったら肩で息をしながらそう言われた。突然だったのと、自分が好かれる理由がまったく分からない圭介は当然、不審がった。
「ごめん、いきなり」
「なんで俺なんだよ」
「圭介は確かによく監督に自分勝手なことするなって言われてるけど、俺はそんな圭介のプレーが好きだ。粗削りでちょっと強引なところとか、たまにはミスもするけど……」
「だから」
「俺は体力もないし、自分のプレーに自信がないから、圭介を尊敬してる」
「そんな立派な人間じゃないぜ、俺は」
「完璧じゃないからこそ……っていうか」
耳を赤くして口ごもっている様子からして、嘘をついているわけではなさそうだった。男である達也と付き合っているだけあって、男から告白されたのは嫌ではない。けれども応える気も更々ない。
「悪いけど、俺はお前とは付き合えない」
「知ってる。でも『男だから』って理由じゃないよな?」
自信を持って言われて、目を見開いて秋山を見据えた。
「昨日、一緒に帰ってた人と付き合ってるんだろ? 男だったよな」
渋面で警戒している圭介に、秋山は慌てて説明した。
「ごめん、勘違いしないで欲しいんだ。それを誰かに言いふらすつもりはない。本当は圭介が好きだって一生言うつもりはなかったんだ。だって、どう考えても受け入れてもらえるはずがないもん。でも、圭介が男と付き合ってるって分かって、ショックだったけど俺が圭介を好きでいてもいいんだって、安心もしたんだ。そしたら居ても立っても居られなくなって……つい……」
つまり男に免疫があるなら自分にも分があると考えたのだろう。いたずらに吹聴しなくても、横恋慕する気もないなら、わざわざ想いを伝えたりはしないはずだ。圭介は食い下がられることを懸念して、もう一度「お前とは付き合えない」とはっきり告げた。
「うん、分かってる。急にごめんな。俺が言いたかっただけなんだ。明日からも今まで通り普通にしてくれ」
⇒
達也と話をした数日後、彼は早々に新しい住居を見つけて瞬く間に引っ越した。家具は使ってくれと言われたが、ダブルベッドもソファもひとりで使うには大きすぎる。思い出が詰まっている、なんて女々しいことを言いたくはないが、やはりアイテムひとつで蘇る記憶は多々あり、それを懐かしむ域になるにはまだ日が浅かった。少しでも孤独に飢えたり罪悪感に苛まれることがないように、ほとんどの家具は処分した。
新しい部屋にあるのは折り畳み式のローテーブルと、シングルのパイプベッドだけ。備え付けの冷蔵庫の中はほとんど蓄えがない。いつも達也が起こしてくれていた朝は、大音量に設定したアラームでひとりで目覚め、たいした朝食を摂らずに仕事へ向かう。休日は昼過ぎまで寝て、気が向いた時にジャンクフードで空腹を満たした。小さなスポーツ用品店での代わり映えのない日々。圭介はそんな殺風景で退屈な日常を過ごしている。
―――
ある日、実家の母から差し入れがあった。段ボール箱いっぱいにインスタント食品や趣味の悪いプリントがされたTシャツ、そして今季最期の収穫だというレモンが入っていた。同封されていた簡易的な手紙には、『達也くんによろしくね』と書かれてあり、つい鼻で笑う。
『あんた宛に届いてた手紙も入れておくわよ』
荷物の底に茶封筒の手紙があった。以前届いた手紙と同じ封筒、同じ筆跡。圭介はその手紙を乱雑に開いた。
『圭介へ
何度もごめん。以前、手紙を送ってから何も音沙汰ないから、心配でまた送ってしまった。
元気にしてるか。前の手紙にも書いたように、俺は昨年の冬にサッカー教室を開いたよ。
最初は厳しかったけど、少しずつ生徒も増えて順調にいってるよ。
これで最後にするから、もう一度だけ頼みたい。教室を手伝ってくれないか。
できれば今月中に返事をもらいたい。』
圭介は手紙を繰り返し読んだ。前回の手紙で手伝ってくれと言われてから、本当はずっと迷っている。今の冴えない日常から抜け出したい。だけど、自分に指導能力があるとも思えない。それに秋山に関わったら、達也への当てつけのようで嫌だった。
手紙をテーブルに放り投げて、フローリングに寝転る。
「連絡くれっつーなら、住所くらい書いとけ、バカヤロー」
***
――二年前
「お前は誰にパスしてるんだ、ひとりでやってるんじゃないんだぞ!!」
チームメイトとあまり打ち解けられず、ワンマンプレーの多い圭介は監督から注意を受けることがよくあった。チームワークが大事なサッカーで勝手に動くと大抵はメンバーから外されるが、運よく圭介が自分本位なプレーをした試合は勝つことが多かったので、大目に見てくれていただけだ。それでも圭介を庇うチームメイトはいない。目の前でどんなに叱責されていても見て見ぬふりだ。
「今度やったら外すからなッ!」
こういう場合のストレスの発散方法は八つ当たりだ。練習用のボールを無意味に蹴散らしたり、ロッカーを思い切り蹴って扉をへこませる。思春期の子どものようなやり方には自分でも呆れるが、そうするしかなかったのだ。
「圭介、大丈夫だったか?」
他のメンバーが出払った更衣室で座り込んでいるところを、秋山が声を掛けた。とっくに帰り支度を整えているはずの秋山が何故まだ残っているのだと、圭介は訝しんだ。
「なんか用か」
「だいぶ絞られてたみたいだからさ」
「いつものことだよ」
「あのさ、俺は、圭介のプレーいいと思うよ。今日の試合も、あれはパスを受け取れなかった石川のミスだったと思う」
圭介はこれ見よがしに鬱陶しそうな顔をして秋山の言葉を遮った。下手な慰めや世辞を言われるのは好まないのだ。
「そりゃどーも」
シャワーまで済ませているのか、秋山を通り過ぎた時にミントのシャンプーの香りがした。秋山は圭介の後を追う。
「なあ、ひとつ聞いてもいいか?」
「なんだよ」
「圭介はメンバーのこと信用してないのか」
「信用はしてるぜ。俺だっていつも自分勝手にやってるわけじゃない」
「それは分かるけど」
「ほっとけ。気が立ってんだよ」
クラブを出て少し離れた外灯の下で、達也が立っていた。迷わず達也のほうへ向かう。
「俺で良かったら、愚痴でもなんでも聞く!」
秋山の余計なお世話とも言える言葉に、圭介は振り返らずに手を挙げただけだ。
――秋山渉は、圭介と同じ時季にカンタマーレに入団した同い年の選手だ。ポジションはディフェンダーで、足が速く洞察力に優れている。けれども他のチームメイトと比べて小柄の秋山は体力に自信がなかった。また本番に弱く、どこか臆病な面もあり、いつも控えだ。本人は細く長く生きられたらいいと考えているのか野心がない。せっかく技術はあるのに勿体ないと、圭介はよく思ったものだ。
気さくで明るい秋山はチームメイトたちとも満遍なく仲が良かった。他のチームメイトが調子が悪くて沈んでいる時に励ましている秋山の姿をよく見る。闘争心のない人間は無害ということもあるだろう。秋山はクラブの中でも精神面で頼りにされる男だった。
他人と必要以上に慣れ合いたくない圭介とは、普段は事務的な会話しかしない。秋山が親睦を深めようとするとあからさまに避ける。別に嫌いなわけではない。ただ面倒なだけだった。先ほどのように監督に叱責されたあとも、他のチームメイトからは無視をされるのに秋山だけは声を掛けてくる。気にしてくれているのは有難いが、圭介にとっては鬱陶しいだけでしかなかったのだ。
「圭介、お疲れ様」
達也は笑顔で圭介を迎えた。連れ立って歩いて行く途中で秋山に振り返った。暗がりの中でまだ圭介を見送っている。
「どうかした?」
「いや」
「今日はちょっと冷えるよね。鍋でもしようか」
圭介は達也の頭を引き寄せて強引にキスをした。自分に余計な世話を焼くのは達也だけでいいのだ。
「好きなんだ」
と、秋山から告白をされたのは、その翌日のことだった。帰り道で追い掛けてきたと思ったら肩で息をしながらそう言われた。突然だったのと、自分が好かれる理由がまったく分からない圭介は当然、不審がった。
「ごめん、いきなり」
「なんで俺なんだよ」
「圭介は確かによく監督に自分勝手なことするなって言われてるけど、俺はそんな圭介のプレーが好きだ。粗削りでちょっと強引なところとか、たまにはミスもするけど……」
「だから」
「俺は体力もないし、自分のプレーに自信がないから、圭介を尊敬してる」
「そんな立派な人間じゃないぜ、俺は」
「完璧じゃないからこそ……っていうか」
耳を赤くして口ごもっている様子からして、嘘をついているわけではなさそうだった。男である達也と付き合っているだけあって、男から告白されたのは嫌ではない。けれども応える気も更々ない。
「悪いけど、俺はお前とは付き合えない」
「知ってる。でも『男だから』って理由じゃないよな?」
自信を持って言われて、目を見開いて秋山を見据えた。
「昨日、一緒に帰ってた人と付き合ってるんだろ? 男だったよな」
渋面で警戒している圭介に、秋山は慌てて説明した。
「ごめん、勘違いしないで欲しいんだ。それを誰かに言いふらすつもりはない。本当は圭介が好きだって一生言うつもりはなかったんだ。だって、どう考えても受け入れてもらえるはずがないもん。でも、圭介が男と付き合ってるって分かって、ショックだったけど俺が圭介を好きでいてもいいんだって、安心もしたんだ。そしたら居ても立っても居られなくなって……つい……」
つまり男に免疫があるなら自分にも分があると考えたのだろう。いたずらに吹聴しなくても、横恋慕する気もないなら、わざわざ想いを伝えたりはしないはずだ。圭介は食い下がられることを懸念して、もう一度「お前とは付き合えない」とはっきり告げた。
「うん、分かってる。急にごめんな。俺が言いたかっただけなんだ。明日からも今まで通り普通にしてくれ」
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