桜並木3
―――
体の昂りは落ち着いたが、脱ぎ散らかした衣服を身に着けず、小さなフロアマットに寝転んだまま時間だけが過ぎていった。会話はなく、頬や髪を撫で合って、時折目が合ったらキスをする。窓際の日溜まりは移動して、ビルの向かいにある木の影が伸びて、二人を隠した。達也が先に頭をふらつかせながら体を起こした。
「そろそろ動かないと風邪ひきますね」
「まだしたいな」
雅久の言葉に頬を赤くしながら諭した。
「勢い余ってここでしちゃったけど、先生の職場だから」
「小野寺さん、冷静ですよね」
「冷静じゃないですよ、僕だって……したいけど……、僕らにはこれから時間がたくさんあるじゃないですか」
続いて起き上がった雅久が「出掛けませんか」と誘った。
「どこへ?」
「電車乗るけど、桜の木が植えられた並木道があるんです。今が見ごろかもしれない」
雅久の言う並木道は、最寄り駅から二駅進んだところにあった。乗降客の少ない駅なので構内も人がまばらで、広場で待機するタクシーも数台だ。ロータリーの向かい側には広い公園があり、並木道はその公園を抜けた先にあるらしい。雅久のあとについて園内を進んだ。やたら子どもの姿を目にして初めて、今が世間的に春休みなのだと気付く。
子どもたちの甲高い声が離れ、公園を抜けると目の前に細い川が横切っていて、それに沿って桜の木が植えられていた。枝と枝が重なり合って咲き乱れている桜は圧巻で、前も向いても後ろを向いても柔らかなピンク色のアーケードが続いている。風に揺れて花びらが惜しげもなく舞った。
「すごい、綺麗」
「でしょ? 休日はすごい人なんですけど、もう夕方だし、あんまり人がいないからスペシャル感があるでしょう。よく走りに来るんです」
「……地元の公園を思い出しました。その公園にも桜の木が並んだ遊歩道があって、満開の時期はトンネルみたいになるんです」
「へえ、それは行ってみたいな」
達也はその台詞には微笑を返した。中学に上がる前、圭介と花見に行った時もちょうどこの時期だった。遠い昔の懐かしい記憶が蘇って少しだけ切なくなる。
ふたりはくるくると舞い落ちる花の中を、心許ない足取りで歩いた。
「……圭介と話をしたんです。堤先生の部屋を出た日。なんのジンクスがあるのか知らないけど、あれほど切れと言った長い髪の毛を、まだ切っていませんでした」
「……」
「最初は冷たくあしらわれたんですけど、ちゃんと全部聞きました。なんでサッカーを辞めたのか、浮気をしたのか、どうして足が動くことを黙っていたのかも。……実を言うと、それらを聞くまで、僕は圭介にはそれほど愛されていないと思っていたんです。ろくに友人もいない陰気な僕を憐れんでいるだけなんだ、って。でも違った。圭介は僕をちゃんと好きでいてくれたらしい」
「らしい、なんて。白石さんが小野寺さんを好きなことくらい誰が見ても分かりますよ」
達也は素っ頓狂な表情で雅久を見上げる。
「だっていつも見かける二人はお互いのことしか見えていなくて、とりわけ白石さんは周囲に警戒しているようでした。白石さんの素っ気ない態度は小野寺さんに対してではなく、他人に邪魔をされたくないから周りを威圧しているように感じました」
「……そう、なんですか……」
「それで? 白石さんはなんて?」
「僕の圭介への期待が重かったって。僕があまりにサッカーサッカーって言うものだから、練習が辛くても辛いって言えなかったみたいです。だけど、圭介はそんな僕のためにサッカーを続けてくれていた。浮気をしたのも、足のことを黙っていたのも、結局は全部僕のためで、僕を手放さないためだったと。……ちゃんと好きだったって言ってくれました」
「やっぱり……嬉しかった?」
達也は少し間を空けたあと、首を傾げた。
「嬉しかった……けど、それより申し訳ないとか、後悔ばっかりで。それで言われたんです。『お前は俺が好きなんじゃない、サッカーをしている俺が好きなんだ』って。……何も言えなかった」
前髪に花びらが載ったのを、あえて払わなかった。ふと視線を川にやり、次々に流れていく花筏に寂しさを覚える。
「この数ヵ月、色々考えたんです。でも、やっぱり僕は圭介自身を好きだったと思う。不愛想だけど、彼なりに僕を大事にしてくれた。確かに最初のきっかけはサッカーだったかもしれないけど、十七年かけて僕は少しずつ白石圭介という人間を愛したんです。ただ、僕も圭介もいつまでも手探りだったから噛み合わなかった。もっとああすれば良かった、こうすれば良かったって後悔ばかりしましたけど、季節が変わっていくごとに、後悔が反省に変わって、ようやく前を向こうって思えるようになりました」
「前を向いて、何を考えましたか?」
「堤先生に会いたい」
はっきりと口にして、達也は立ち止まって雅久に向き合った。雅久の強靭でまっすぐな眼を見ると胸が高鳴る。圭介が鋭く突きさすような眼なら、雅久は力強くもすべてを包み込むような眼だ。
「本当は堤先生にも同じように重荷を背負わせることになるんじゃないかって不安でした。先生が世間の好奇や偏見に苦しむんじゃないかって。……だけど、それよりも今度こそ、間違わないで好きな人を愛したいと思いました」
雅久の喉仏が上下に動いた。
「……もしかしたら、これから先生に嫌な思いをさせることがあるかもしれない」
時々、圭介を思い出しては彼を心配するかもしれない。
食事をしているだろうか、髪を切っただろうか。
レモンを見たら彼のレモネードの味が懐かしくなる時も、きっとある。
だけど決して、恋しいからじゃない。
誰か別の人が、彼を幸せにしてやって欲しいと願っているだけです。
「僕が今、好きなのは堤先生だってことを、忘れないで欲しい」
雅久は答えずに達也に背中を向け、もと来た道を引き返した。達也は数歩遅れてあとを追う。
「別に、間違ってもいいんですよ。その都度一緒に直していけば」
「……」
「俺も大概重いし、小野寺さんがしんどくなることもあると思います。すれ違いはどうしたってしてしまうものです。誤解も喧嘩も。でもちゃんと話し合っていけば、たいした問題じゃない。だからひとりで抱え込まないで欲しい」
「……はい」
「それから、俺にとって世間からの目はそんなに問題じゃない。そりゃあ、まったく平気ってわけじゃないけど、それでも小野寺さんと一緒にいたいと思うんですから」
「は、い……」
声が震えた。また泣いている。雅久が背中を向けているのが救いだ。何度も手の甲や袖で拭うが止まらない。
「俺ね、家族がいないんです」
「え……」
「中学生の頃、母が病死して、父も高校生の頃に。祖父母に育てられたけど、祖父母も俺が大学生の時に亡くなりました。前の彼女にプロポーズした時、家族ができると思って嬉しかった。でも結局フラれて、ああ、また独りだってガッカリしました」
「……それを聞いたらますます僕でいいのか不安になりました。僕は家族は作ってあげられない」
「最後まで聞いてください。俺は今、すごく嬉しいです。家族ができるからとか、独りじゃなくなるからとか、そんなのじゃなくて、これから小野寺さんと一緒にいられることが単純に嬉しい。小野寺さんさえいてくれたら、俺はそれでいい」
「でも、もし、本当に家庭を持ちたくなったら、僕のことは切り捨てて下さい」
「俺は一途だって言ったでしょう」
「……」
「と言っても、不安がなくなるわけではないだろうけど、俺のほうから小野寺さんを切り捨てることはまずないので、小野寺さんもそれだけは忘れないで下さい」
「はい……」
「あー、でも悔しいな。小野寺さんと白石さんのことはずっと気になってたから全部話してくれてよかったけど、やっぱり嫉妬します」
「どうすれば安心してもらえますか」
「キスして下さい」
達也は一瞬、人の目を気にして周囲を見渡した。あまりいないと言ってもやはり数人は散らばっている。けれども雅久は一切それに注意する様子を見せない。雅久の期待の籠った顔を見ると応えたいと思う。達也は雅久の両頬を包んで素早く唇を捉えた。顔を離すとちょうどすぐ傍を自転車が走り去った。運転していた老人が吹いていた口笛が、急に下世話なものに感じる。誤魔化すように俯いて咳払いをした。更に雅久が追い打ちをかける。
「俺の気持ちはもう充分伝わっているとは思うんですけど、どうしても言っておきたいことがあるんです」
「はい」
一歩あとずさった雅久は、笑顔のまま両手を広げた。
「小野寺さん、大好きです! 俺と付き合って下さい!」
あまりに子どもじみた言葉に呆気に取られた。けれども、そんな不器用でありふれた告白に憧れていた達也を、雅久はおそらくずっと以前から汲み取っていたのだろう。
じきに陽が落ちる。薄紫の空には橙に染まった絹雲が広がっている。並木道を吹き抜ける風も冷えてきた。揺れる木からいっそう降りしきる桜吹雪の中、肌寒さに肩をすくめるより先に、達也はその熱い胸に飛び込んだ。
(了)
体の昂りは落ち着いたが、脱ぎ散らかした衣服を身に着けず、小さなフロアマットに寝転んだまま時間だけが過ぎていった。会話はなく、頬や髪を撫で合って、時折目が合ったらキスをする。窓際の日溜まりは移動して、ビルの向かいにある木の影が伸びて、二人を隠した。達也が先に頭をふらつかせながら体を起こした。
「そろそろ動かないと風邪ひきますね」
「まだしたいな」
雅久の言葉に頬を赤くしながら諭した。
「勢い余ってここでしちゃったけど、先生の職場だから」
「小野寺さん、冷静ですよね」
「冷静じゃないですよ、僕だって……したいけど……、僕らにはこれから時間がたくさんあるじゃないですか」
続いて起き上がった雅久が「出掛けませんか」と誘った。
「どこへ?」
「電車乗るけど、桜の木が植えられた並木道があるんです。今が見ごろかもしれない」
雅久の言う並木道は、最寄り駅から二駅進んだところにあった。乗降客の少ない駅なので構内も人がまばらで、広場で待機するタクシーも数台だ。ロータリーの向かい側には広い公園があり、並木道はその公園を抜けた先にあるらしい。雅久のあとについて園内を進んだ。やたら子どもの姿を目にして初めて、今が世間的に春休みなのだと気付く。
子どもたちの甲高い声が離れ、公園を抜けると目の前に細い川が横切っていて、それに沿って桜の木が植えられていた。枝と枝が重なり合って咲き乱れている桜は圧巻で、前も向いても後ろを向いても柔らかなピンク色のアーケードが続いている。風に揺れて花びらが惜しげもなく舞った。
「すごい、綺麗」
「でしょ? 休日はすごい人なんですけど、もう夕方だし、あんまり人がいないからスペシャル感があるでしょう。よく走りに来るんです」
「……地元の公園を思い出しました。その公園にも桜の木が並んだ遊歩道があって、満開の時期はトンネルみたいになるんです」
「へえ、それは行ってみたいな」
達也はその台詞には微笑を返した。中学に上がる前、圭介と花見に行った時もちょうどこの時期だった。遠い昔の懐かしい記憶が蘇って少しだけ切なくなる。
ふたりはくるくると舞い落ちる花の中を、心許ない足取りで歩いた。
「……圭介と話をしたんです。堤先生の部屋を出た日。なんのジンクスがあるのか知らないけど、あれほど切れと言った長い髪の毛を、まだ切っていませんでした」
「……」
「最初は冷たくあしらわれたんですけど、ちゃんと全部聞きました。なんでサッカーを辞めたのか、浮気をしたのか、どうして足が動くことを黙っていたのかも。……実を言うと、それらを聞くまで、僕は圭介にはそれほど愛されていないと思っていたんです。ろくに友人もいない陰気な僕を憐れんでいるだけなんだ、って。でも違った。圭介は僕をちゃんと好きでいてくれたらしい」
「らしい、なんて。白石さんが小野寺さんを好きなことくらい誰が見ても分かりますよ」
達也は素っ頓狂な表情で雅久を見上げる。
「だっていつも見かける二人はお互いのことしか見えていなくて、とりわけ白石さんは周囲に警戒しているようでした。白石さんの素っ気ない態度は小野寺さんに対してではなく、他人に邪魔をされたくないから周りを威圧しているように感じました」
「……そう、なんですか……」
「それで? 白石さんはなんて?」
「僕の圭介への期待が重かったって。僕があまりにサッカーサッカーって言うものだから、練習が辛くても辛いって言えなかったみたいです。だけど、圭介はそんな僕のためにサッカーを続けてくれていた。浮気をしたのも、足のことを黙っていたのも、結局は全部僕のためで、僕を手放さないためだったと。……ちゃんと好きだったって言ってくれました」
「やっぱり……嬉しかった?」
達也は少し間を空けたあと、首を傾げた。
「嬉しかった……けど、それより申し訳ないとか、後悔ばっかりで。それで言われたんです。『お前は俺が好きなんじゃない、サッカーをしている俺が好きなんだ』って。……何も言えなかった」
前髪に花びらが載ったのを、あえて払わなかった。ふと視線を川にやり、次々に流れていく花筏に寂しさを覚える。
「この数ヵ月、色々考えたんです。でも、やっぱり僕は圭介自身を好きだったと思う。不愛想だけど、彼なりに僕を大事にしてくれた。確かに最初のきっかけはサッカーだったかもしれないけど、十七年かけて僕は少しずつ白石圭介という人間を愛したんです。ただ、僕も圭介もいつまでも手探りだったから噛み合わなかった。もっとああすれば良かった、こうすれば良かったって後悔ばかりしましたけど、季節が変わっていくごとに、後悔が反省に変わって、ようやく前を向こうって思えるようになりました」
「前を向いて、何を考えましたか?」
「堤先生に会いたい」
はっきりと口にして、達也は立ち止まって雅久に向き合った。雅久の強靭でまっすぐな眼を見ると胸が高鳴る。圭介が鋭く突きさすような眼なら、雅久は力強くもすべてを包み込むような眼だ。
「本当は堤先生にも同じように重荷を背負わせることになるんじゃないかって不安でした。先生が世間の好奇や偏見に苦しむんじゃないかって。……だけど、それよりも今度こそ、間違わないで好きな人を愛したいと思いました」
雅久の喉仏が上下に動いた。
「……もしかしたら、これから先生に嫌な思いをさせることがあるかもしれない」
時々、圭介を思い出しては彼を心配するかもしれない。
食事をしているだろうか、髪を切っただろうか。
レモンを見たら彼のレモネードの味が懐かしくなる時も、きっとある。
だけど決して、恋しいからじゃない。
誰か別の人が、彼を幸せにしてやって欲しいと願っているだけです。
「僕が今、好きなのは堤先生だってことを、忘れないで欲しい」
雅久は答えずに達也に背中を向け、もと来た道を引き返した。達也は数歩遅れてあとを追う。
「別に、間違ってもいいんですよ。その都度一緒に直していけば」
「……」
「俺も大概重いし、小野寺さんがしんどくなることもあると思います。すれ違いはどうしたってしてしまうものです。誤解も喧嘩も。でもちゃんと話し合っていけば、たいした問題じゃない。だからひとりで抱え込まないで欲しい」
「……はい」
「それから、俺にとって世間からの目はそんなに問題じゃない。そりゃあ、まったく平気ってわけじゃないけど、それでも小野寺さんと一緒にいたいと思うんですから」
「は、い……」
声が震えた。また泣いている。雅久が背中を向けているのが救いだ。何度も手の甲や袖で拭うが止まらない。
「俺ね、家族がいないんです」
「え……」
「中学生の頃、母が病死して、父も高校生の頃に。祖父母に育てられたけど、祖父母も俺が大学生の時に亡くなりました。前の彼女にプロポーズした時、家族ができると思って嬉しかった。でも結局フラれて、ああ、また独りだってガッカリしました」
「……それを聞いたらますます僕でいいのか不安になりました。僕は家族は作ってあげられない」
「最後まで聞いてください。俺は今、すごく嬉しいです。家族ができるからとか、独りじゃなくなるからとか、そんなのじゃなくて、これから小野寺さんと一緒にいられることが単純に嬉しい。小野寺さんさえいてくれたら、俺はそれでいい」
「でも、もし、本当に家庭を持ちたくなったら、僕のことは切り捨てて下さい」
「俺は一途だって言ったでしょう」
「……」
「と言っても、不安がなくなるわけではないだろうけど、俺のほうから小野寺さんを切り捨てることはまずないので、小野寺さんもそれだけは忘れないで下さい」
「はい……」
「あー、でも悔しいな。小野寺さんと白石さんのことはずっと気になってたから全部話してくれてよかったけど、やっぱり嫉妬します」
「どうすれば安心してもらえますか」
「キスして下さい」
達也は一瞬、人の目を気にして周囲を見渡した。あまりいないと言ってもやはり数人は散らばっている。けれども雅久は一切それに注意する様子を見せない。雅久の期待の籠った顔を見ると応えたいと思う。達也は雅久の両頬を包んで素早く唇を捉えた。顔を離すとちょうどすぐ傍を自転車が走り去った。運転していた老人が吹いていた口笛が、急に下世話なものに感じる。誤魔化すように俯いて咳払いをした。更に雅久が追い打ちをかける。
「俺の気持ちはもう充分伝わっているとは思うんですけど、どうしても言っておきたいことがあるんです」
「はい」
一歩あとずさった雅久は、笑顔のまま両手を広げた。
「小野寺さん、大好きです! 俺と付き合って下さい!」
あまりに子どもじみた言葉に呆気に取られた。けれども、そんな不器用でありふれた告白に憧れていた達也を、雅久はおそらくずっと以前から汲み取っていたのだろう。
じきに陽が落ちる。薄紫の空には橙に染まった絹雲が広がっている。並木道を吹き抜ける風も冷えてきた。揺れる木からいっそう降りしきる桜吹雪の中、肌寒さに肩をすくめるより先に、達也はその熱い胸に飛び込んだ。
(了)
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