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桜並木1

 転勤が決まったからと、生徒である宮本がクラブを辞めた。妻の叱咤で体質改善を試みてクラブに通い出した宮本は、レッスンに来てもお喋りばかりで一度も真面目に取り組んだためしがない。けれども、いつも気さくに話し掛けてくれて、時には人生相談にも乗ってくれる彼は、雅久にとって生徒というより上司のような存在だった。たった半年ではあったが、宮本から世話になったと挨拶されて思わず涙ぐみそうになった。

「でも堤先生のおかげで会社で体が引き締まったねって言われるようになったんですよ」

「後半は腰が痛いって言わなくなりましたもんね。でもそれ、ちゃんと家で続けるか、新しいクラブに通わないと駄目ですよ」

「いやぁ~、僕は三日坊主だからさぁ。でもまた習うならやっぱり堤先生がいいよ」

「ぜひまた来てくださいね」

「独立の準備は進んでるの?」

「保険だったり器具だったり、そういう準備はしてるんですけど、肝心な場所がね……」

「そのことなんだけどさ」

 テナントを募集している知り合いがいるからどうかと提案してくれた。中心市街地のショッピングストリートで、カフェや美容室などが入っているビルの一室だそうだ。認知度の高い場所でもあるので、雅久は躊躇うことなく話に乗った。問題をクリアするとあとは順調にことが進んだので、雅久は独立に向けて秋の暮れに退職した。受け持った生徒や職場の仲間から激励されて、自分は周囲の人間に恵まれたなと改めて感じる一方で、どこか寂寞とした想いは拭えない。贅沢だと言われればそれまでだが、やはり一番応援してもらいたい人物が身近にいないというのは、いくら大勢の力添えがあっても侘びしいものだ。

 ある日曜の昼下がり、注文しておいた器具が届くと知らせを受けたので電車で新しい職場になるビルへ向かった。教室は区切り良く、新年度から開くことになっている。クラブを辞めてから教室を開くまでに期間はあったが、気忙しい日々を過ごすうちにいつの間にか冬が終わろうとしていた。うだるような残暑が去り、寒暖差が激しい短い秋は虫の音に耳を傾ける余裕もなく、人肌恋しい真冬は開き直ったかのように品も色気もない横丁で孤独に過ごした。当然そこに肌を寄せ合えるような恋人もおらず、ひとりの男を想っては虚しい夜を越す。

 雅久の部屋から達也が姿を消してからは一度も彼に会っていないし、連絡も取っていない。せめてどうして待っていてくれなかったのかを訊ねたくて何度も電話を掛けようとしたが、拒否の言葉を聞くのが怖くてできなかった。どんなに追いかけても手の届く相手ではなかったのだ。そもそも周囲の理解が得られにくい恋路をわざわざ進む必要はない。本来、雅久の恋愛対象は異性なのだから、少し積極的に出会いを求めればいくらでも候補は見つかるはずだ。望みのない相手を想い続けても意味がないことは分かっている。別の恋愛を始めなければ彼を忘れられないということも。それでも体が言うことを聞かないのは、雅久の生まれ持ったひたむきな性格が邪魔をしているのかもしれなかった。雅久はこれまで長所と思っていた自分の一途さが、初めて心底嫌になった。

 ビルに着くとちょうど器具が届いたらしく、雅久はあらかじめ決めておいた場所に設置を頼んだ。決して広いとは言えない室内に置かれたパワーラック、フロアマットにバランスボール。今回届いたランニングマシンを置けば大体の内装は整う。業者が去ると、無機質で冷たい部屋の中が静まり返る。鉄筋コンクリートのこのビルは、壁に手を当てると氷のように冷たい。冷気に身震いをして、雅久はエアコンを点けて日溜まりのある窓際へ寄った。ブランド店や雑貨屋が並ぶショッピングストリートが見下ろせる。こうして眺めていても行き交う人間は腐るほどいるというのに、誰一人として印象に残らない。身もだえるほど夢中になれる相手と巡り合うのは奇跡に近いということだ。雅久はガラスに映る自分の陰気な表情を見て深く息を吐く。

「いい加減に切り替えないと……」

 遠くから足音が聞こえた。たいして気にも留めなかったその足音は、雅久がいる部屋の前で止まった。予定のない来客に訝しんだ雅久が振り返るより先に、名前を呼ばれた。

「堤先生」

 心臓が停止するかと思った。固まってしまった雅久は振り返られずにいる。幻聴だったら立ち直れないかもしれない。ガラス越しに声の正体を探った。

「……小野寺さん?」

 見慣れないダッフルコートを着た達也が佇んでいる。太陽の光が反射して表情がはっきり分からないが、艶のある黒髪や華奢な体の線は彼のものだ。喜びよりも驚きでうまく反応ができない。それよりも吹っ切らなければと思った矢先に突然現れて、右往左往させられることに憤りすら湧いた。待ち望んだ再会だというのに、雅久は窓に顔を向けたまま、にべのない態度で答えた。

「……何か御用ですか」

「あ……あの、クラブに行ったら退職されたって……。宮崎先生から春からここで開業するって伺ったので……」

 久しぶりに聞く声は高くも低くもない、相変わらず透るような声だ。

「いきなり来てごめんなさい。迷惑、でしたか……」

「なんでクラブに行ったんですか?」

「先生に、会いたくて」

 雅久は未だ振り返られずにいる。顔を合わせたら理性のタガが外れるか、勢いのままに罵倒するかのどちらかになりそうだからだ。達也は「そのまま聞いて欲しい」と願い出た。


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