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レモネード2

 重い体を引き摺ってローテーブルの隣に腰を下ろす。キッチンに入った圭介は、達也の目の前にマグカップを置くと向かいに座った。マグカップにはレモネードが入っている。

「レモン、まだあったの?」

「それは実家から送られてきたやつだ。ババアが漬けた」

 薄黄色のレモン水の中に輪切りにされたレモンが浮かんでいて、湯気に乗って爽やかな酸味が漂う。達也はそのレモネードを飲むのが惜しくて手を付けられずにいた。

「……圭介の作ったレモネードが飲みたい」

「無茶言うな」

「……小学生の頃、教室の窓から圭介がサッカーをしてるのをずっと見てた。あんな風に動けたら気持ちいいだろうなって羨ましかったんだ。初めて圭介のレモネードを飲んだのはいじめられた日」

「沢村に水ぶっかけられたやつか」

「たぶん、あの日、僕は圭介を好きになったんだと思う」

「……」

「僕はずっと圭介だけを好きだったよ。圭介もきっと僕を好きでいてくれてると信じてた。……でも、時々不安にもなった。圭介は……あまり自分のことを話さないから、聞かれたくないのかなって……でもちゃんと聞けばよかった。……秋山のこと」

「あれは、」

「僕に話そうにしてくれたよね。でも僕は怒ってたから聞かなかったんだ。それで事故に遭ってそれきりだった。……ごめんね、でも知りたい」

 熱が上がってきたのか寒気がする。そのくせ頬は暑くて節々が痛む。達也はそれでも正座を保ったまま、眉を寄せて沈黙している圭介を見つめていた。

「秋山のことは俺が軽率だった。以前からずっと秋山には好きだって言われてたんだ。断ったつもりだったけど、俺がはっきりとした拒否反応を示さなかったから、秋山も退かなかったんだと思う」

「秋山ってどんな人?」

「目立つ奴ではない。試合にもほとんど出てないし。気が弱くてサッカー選手にしてはヒョロい奴だった。決して技術があるわけじゃないけど、相手の動きを読むのが上手いんだ。だからプロになれたんだろう。……一度だけでいいから抱いてくれって言われた。そしたらしつこく付きまとわないからってな。よくある話なんだけど、俺もそれで退いてくれるならと思ってオーケーしたんだ。秋山に気があったわけじゃない」

「……僕のことは考えなかった」

「考えたから、受けたんだ。謙虚に見えてしたたかな奴ほど何をするかわからない。お前になんかされたら困ると思ったんだよ」

「……」

「あいつのことはチームメイトだし、嫌いじゃない。俺が他の奴と喧嘩になったら必ず秋山が止めてくれる。いい奴だよ。でも特別な感情はなかった。……でも俺はあの時、お前にバレてよかったと思ってる」

「でも僕が部屋に行かなかったら僕は知らずに済んだし、圭介も事故に遭わずに済んだ。……サッカーを辞めることもなかった」

「達也には悪いことした。でも事故に遭ったのもサッカーを辞めたのも含めて、バレてよかった」

「どういうこと?」

 圭介は言いにくそうに含み笑いをした。それまで胸の前で組んでいた両腕を解いた。サッカーを辞めてから随分経つのに、テーブルに投げ出された腕は変わらず健やかで、圭介が長年どれだけサッカーに勤しんできたかが分かる。

「本当言うと、サッカーをするのは苦しかった」

 考えもしなかった告白に達也は静かに戸惑った。

「そりゃ昔は好きでやってたぜ。好きじゃないと続けないしな。俺は別に才能があるわけじゃねぇから、努力するしかなかった。プロになれたのは実力じゃなくて運だ。スカウトされた時は嬉しいっていうより、安心した」

「安心?」

「達也が喜ぶから」

 意図が掴めずに首を傾げる。圭介は続けた。

「昔からお前はサッカーをしてる俺に憧れてるって言ってたよな。何かと言えばクラブはどうだったか、体の調子が悪いところはないか、全部、サッカーに関することだった。お前がそんなだから、俺は練習が嫌でも、サッカーを辞めたくても愚痴を言えなかった。言ったらお前が俺以上に辛そうな顔するからな。で、気付いたんだよ」

「……何を」

「お前は『俺』が好きなんじゃない。『サッカーをしている俺』が好きなんだ。だからスカウトされた時はサッカーをしている姿をまだ見せられると思って安心したんだ。もし俺が普通に大学を卒業してサラリーマンになってたら、お前は早々に愛想尽かしてたと思う」

「そんなこと、」

「ある。現にサッカーを辞めてからお前は別の男を好きになった」

 それは違うと否定したかったが、思い止まった。達也が雅久を好きになったのは決して圭介がサッカーを辞めたからではない。例え圭介がプロでなくとも愛想を尽かすことはなかったはずだ。だてに十三年も付き合わない。圭介を想う理由がサッカーだけであるわけがない。だが、逆に言えば、そんな長い月日や絆をいとも簡単に超えるほど雅久に強く惹かれたとも言える。下手に申し開きをして圭介がどう捉えるかと考えると何も言えなかった。

「達也が純粋に俺を応援してくれてるのは有難かった。でも、同じくらい重かった。事故はサッカーを辞めるためのいい口実だったんだよ」

「……そんな……」

「足の痺れで暫く歩けなかった時も、俺はたいしてショックじゃなかった。俺の足が不自由なままだったら、お前は絶対俺の世話をするために離れないだろ? 重荷だったサッカーを辞められて、達也は俺の傍にいてくれる。俺にとって、これまでで一番幸せだったかもしれない」

 達也は圭介がまともに歩けないと聞いた時はショックと同時に罪悪感に襲われた。事故に遭って障害が残ったのは圭介の話を聞かなかったからだと自分を責めてきた。あの数ヵ月は達也にとって一番苦しくて辛かった。圭介も同じだと思っていたのに、まさか真逆を言われると思わなかった。

「……足は、少しずつ治っていったの? それとも突然?」

「たぶん、少しずつ。歩く時に膝の力が抜けるってのが減っていった。痺れも同じだ。そのうちに普通に歩けるって気付いた。……でも、そうなると今度は不安になった。達也がそれを知ったら、復帰を期待するんだろうな、とか、復帰しなくても世話をする必要がなくなったんだから、いずれ離れていくだろうってな。結局、嘘ついて誤魔化して、役に立たない足でお前を引き止めるのに精一杯だったんだ。だせぇだろ」

「……」

「こう見えてもいつ本当のことを言おうか悩んでた。一生黙ってるわけにはいかないし、俺だって嘘は嫌いだ。でも、達也が誰よりも応援してくれてるのは知ってたから、言えなかった。お前、俺のこと絶対責めないからよ。甘えてたんだ。……なんも言わなくて悪かった」

 自分はなんて勝手な人間なんだろう、と達也は圭介に済まなく思った。純粋に好きだという気持ちを伝えているつもりだったのに、圭介にはそれが負担でしかなかった。圭介が安心してサッカーをできるように、人付き合いが下手で誤解されやすい彼に、自分だけはいつも味方であると示しているつもりだったのに、安心させるどころかプレッシャーをかけ続けていたのだ。圭介のためと思ってしていたことは、結局は全部自分のためだった。圭介に尽くしている自分に酔っていただけだ。

 達也は恥ずかしくて申し訳なくて泣くしかなかった。嗚咽で「ごめん」と言葉にすることもできない。息継ぎすらしかねている達也を、圭介が笑いながら気遣った。

「いい歳してみっともねぇな。そんなに泣いたら熱が上がるだろ」

「だ、だって……、け……ごめ……」

「お前がよく言う『約束だよ』っての。……あれも、本当は重かった。俺はお前と違って純粋じゃねぇからよ、約束したって守れる保証も守られる保証もないって、どっか冷めた考えがあったんだ」

「……ごめん……ごめんね……」

「……達也は悪くない」

「け、いすけの負担になりたくないと思って、なるべく聞かないように……してたんだ……。だけどその分、僕が押し付けすぎてたのかも。僕はたぶん、やり方を間違えてた。ごめ……」

「ひねくれてる俺も悪いんだよ」

「圭介……僕たちはもう、……終わり、なのかな」

「もともと友達と呼べる間柄でもなかった。恋人とかそんな甘い関係でもなかった。ただ束縛し合っていただけだ。わだかまりがなくなったからって友達にもなれないし、いきなり色気のある関係にもならない。第一、お前にはもう別の奴がいる」

「……でも」

「同情で一緒にいたくない」

「同情……同情じゃ……」

「今更誤魔化そうとするなよ。別に怒ったりしねぇから、お前こそ本当のこと言えよ」

 圭介のことを嫌いになったわけではない。今、こうして一緒にいてもやっぱり愛しいと思うし、もし戻ってこいと言われたらそうしてもいいと思った。けれども雅久のことを考えれば途端に会いたくなるし、できれば彼の想いにも応えたいとすら思う。今の達也の中に浮かんだのは、どちらも大事で選び難いということだった。自分はこんなに浮気で優柔不断な人間だったのかと落胆する。達也の心情を悟った圭介は問いかける。

「俺のことは好きか」

「……す、き」

「俺がもう一度付き合えって言ったら付き合うか」

「……うん」

「一生だぞ。俺は独占欲が強いからな。当然、俺以外の奴を見るのも駄目だ。できるのかよ」

「……でき……ない」

 口にしてしまったら、そこから言葉を繋げるのは容易だった。達也は誘導してくれた圭介に感謝しながら告白した。

「圭介のことは今でも好きだよ。それは本当……。でも僕の中には他の人もいて……その人を忘れることはたぶん、できない」

「絶対か」

「……僕も寂しかったよ。本当はもっと悩み事とか相談し合えるような仲になりたいと思ってた。『傍にいろ』とか、そういう言葉はあったけど、秋山のことがあってからは特に、圭介は僕を好きなのかなって不安になった」

「……」

「……堤先生は、圭介とのことで沢山話を聞いてくれたんだ。会う度に『白石さんの調子はどうですか』って。圭介ともこういう風に話せるようになったらって……思ううちに、」

「惚れたのか」

 達也は躊躇いながら頷いた。

「……ごめんね」

「俺は、あいつはいけ好かないけど、お前が惚れても仕方ないとは思ってた。階段からお前を突き落としたのも、あいつならお前を受け止めると思ったからなんだ。悪かった」

「……圭介は僕を……好きでいてくれた?」

 そして気を抜いたら聞き逃しそうなほどの小さな声で、圭介は言った。

「……好きだったよ。初めて会った頃から」

 少し治まりかけたと思ったのに、それを聞いただけでまた涙が溢れた。ちゃんと自分を好きでいてくれた嬉しさと、驚きと、過去形である寂しさが同時に押し寄せる。初めて圭介の口から聞けた言葉だ。もうそれだけで充分だった。

「あんまり、こういうのは得意じゃねんだ」

「わかってるよ。だから言ってくれて嬉しい。……ありがとう」

「いい加減に飲めよソレ。冷め切ってるだろ」

 湯気が消えて冷めたレモネードを指差され、ようやくカップを手に取った。ほんの少しだけの温もりが手の平に伝わる。涙が一滴落ちて、薄黄色の表面が揺れた。

「もう圭介のレモネードは飲めないんだね」

「飲み飽きただろ」

「でも圭介の作ったレモネードが一番美味しいよ。……僕がいなくても、ちゃんと実家に顔出さなきゃ駄目だよ」

「わかってるよ」

「髪も、切ったほうがいいよ」

「明日行く。……それ飲んだらもう寝ろ。顔が真っ赤でひどいぞ」

「……うん。圭介、ごめんね、ありがとう」

 圭介は達也の隣に移動すると、達也の頭を引き寄せて抱き締めた。少し遠慮気味で子どもっぽい。いつも強引で荒々しい圭介から初めてされた、純粋で優しい抱擁だった。それが彼なりの別れの挨拶なのだろう。
 最後に飲んだ冷えたレモネードは、ぬるくて甘くて、いつもより酸っぱかった。


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