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すれ違い2

若干苛立ちながら応答すると、同じく機嫌を損ねているらしい翠がいきなり抗議した。

『ちょっと、ひどいんじゃない? 全然連絡くれないなんて。せっかく今週いっぱい休みを取ったって言ってあるのに』

 言われてようやく思い出した。雅久は会話が達也に聞こえないように配慮しながら小声で謝った。

『ね、今日は家にいるんでしょ? 今から行ってもいい?』

「えっ、ごめん、ちょっと暫く無理なんだ。知り合いが熱を出しててウチで休んでる」

『なんで雅久の家で寝るわけ?』

「家に帰れない事情があるんだよ」

『……わたし、明日から仕事なの。わたしだって雅久に会いたいわよ』

 やや沈黙ができて、少し考えたのち、雅久は「分かった」と声を強くした。

「今からそっちに行くよ」

 寝室に戻ると、達也が心配そうな顔つきで座っていた。

「ごめんなさい、僕のせいで」

「いいんです。あの……すみませんが、ちょっと出てきますね」

「いえ、僕が帰ります。だって熱もないし、どう考えても邪魔なのは僕のほうですから。……先生の彼女……でしょう」

 否定できないでいると、達也は「すぐに出ます」と立ちあがった。雅久は両肩を押さえ付けて阻止する。

「ちょっと遅くなるかもしれないけど、今日中に帰りますから、待ってて下さい」

「でも」

「いいですね。何もせずに寝てて下さいよ」

 最後に「絶対ですよ」と念を押して、部屋に達也を残したままアパートを出た。

 翠の家は車でニ十分ほど走ったところにある。まだ築三年も経たないマンションで、昨年の春からひとりで暮らしている。マンションに着いてロビーでインターホンを鳴らすと自動ドアが開いた。翠の部屋の前まで行くと先に扉が開かれた。

「久しぶりね」

 会うなり皮肉を言われる。髪をすっきりとひとつに束ねていて、化粧は薄くファンデーションを塗ってあるだけだ。

「もしかして、出掛ける準備してた?」

「わたしが雅久のところに行くつもりだったから。メイクも途中なんだけど、もういいわ」

 白を基調としたシンプルなリビングに通される。翠は整理整頓が上手い。鉛筆ひとつですら自分で布やレースで施した手製のペン立てに収納していて、まるで雑誌のコーナーにでも載っていそうなほど片付いている。適当に休めと言われたが、とても寛げる気分ではなかった。

「まさか雅久から来てくれると思わなかったわ。でも寝込んでるって人はもういいの? 帰ったの?」

「いや、俺の部屋で寝てる」

 翠はドリップコーヒーを入れながら眉を寄せた。ぽつぽつと泡の立つ音とともにコーヒーの香りが漂う。

「……無用心に出て来て大丈夫なの?」

「そういう人じゃないから」

「信用してるのね」

「だから少し話をしたらすぐに帰るよ」

 雅久が世間話をするためだけにわざわざ出向かうはずがないと分かっている翠は、すぐに勘付いたらしかった。ダイニングテーブルの椅子に腰かけた雅久の背後に近付き、肩を撫でながらゆっくり雅久の首に両腕を回して抱き付いた。

「せっかく会えたのに、すぐに帰るの? わたし明日からまた忙しくなるのよ。また何日も会えないかもしれないのに」

「……」

「その人のこと信用してるなら、今日くらい泊まっていってもいいんじゃない?」

「放ってもおけないから」

「女じゃないわよね?」

「……違うよ」

 女ではないが、特別な感情を抱いている以上、嘘をつきたくはない。達也を置いてまで翠を訪ねたのは、早く本当のことを言わなければと焦ったからだ。翠が真っ赤なネイルを載せた細い指で頬を捉え、振り向きざまにキスをした。甘ったるい香水が鼻をつく。唇を離すと間近で艶のある眼と視線が合った。長い睫毛と茶色の瞳は学生時代から変わらず綺麗で、当時は悪戯な猫のような色気に夢中になったものだ。ただ、かつてのような胸の高鳴りはない。

「わたし、あなたが好きよ」

「……俺も好きだよ。でも種類が変わってしまった」

 翠は表情を固まらせて体を離した。

「翠のことは本当に好きだった。大学時代から付き合って、きみしかいないと思ったよ。価値観にずれがあると気付いていても、一緒にいたいと思った」

「ずれ?」

「きみはたくさんの人間を同時に愛することができる人だ。気持ちの大きさに違いがあるだけ。その中で俺はたぶん、一番愛情をもらえたんだと思う。でも俺はひとりの人間しか愛せない。ひとつのものをひとりだけにあげたい。余所見をするのもされるのも嫌だ」

 雅久の隣の席に座った翠は、雅久の手を握って訴えた。

「確かにわたしは浮気をしたこともあったわ。雅久と別れてからも間を空けずにすぐに次の人もできた。でもわたしの良いところも悪いところも全部認めて好きでいてくれる人は雅久しかいなかった」

「そのうち翠はまた俺のことが重たくなるよ」

「だけど今は違うの、雅久と寄りを戻す前に、付き合ってた彼とも別れたし、あれだけ反対した独立だって協力しようって決めたのよ! だからわたしができることがあるならと思って色々調べたの」

「それは本当に有難いよ。だけど俺は決められるんじゃなくて、一緒に考えて欲しい」

「雅久が口を出すなって言うなら出さないわ。悪いところがあるなら全部直す」

 雅久は決して首を縦に振らない。迷いのある素振りすら見せない。確固たる意志を持ったその様子に女の勘が働いた。

「好きな人がいる」

「……それって、もしかして今、雅久の家で寝てる人……?」

 ようやく雅久が頷く。

「女じゃないって言ったじゃない」

「女の人じゃない。……男なんだ」

 翠は開いた口が塞がらないといった様子だ。むろん、鵜呑みにするはずがない。見え透いた嘘をつくなと怒りを露わにしたが、雅久は動揺の色を見せないまま「嘘じゃない」と言い切った。

「ど、どうしたのよ。頭がおかしくなったの? なんでよりによって男なの? わたしがプロポーズを断ったのがそんなにいけなかったの」

「俺だって男を好きになるなんておかしいと思ったよ。でもどう考えてもそれしか答えがないんだ。翠と別れて寂しかった。でも寂しさを紛らわせるためにその人を好きになったんじゃない」

「普通の関係じゃないわよ。正気なの? 公にするには覚悟だっているのよ」

「それでもいいから、俺は彼といたいんだ。……翠のことを嫌いになったんじゃない。でも以前と同じ気持ちではない」

 雅久は改めて翠に向き直り、「ごめん」と深く頭を下げた。少しも揺らがない姿勢から彼が本気であることは明確だ。どんなに駄々をこねても雅久は簡単に考えを変える人間ではない。付き合っている六年間、雅久は他に一度も靡いたことはないし、彼の視線の先がいつも自分であることに優越感があった。翠が悪びれもせず他の男友達に目を逸らせたのは、雅久の負担にも感じる熱誠に安心しきっていたからだ。だが、今ではその熱視線が自分ではない他人に向かっている。

「だから雅久は重いって言ったのよ」

「……」

「わたしの時みたいにべったりしてると、うざがられちゃうのよ」

「そうかもしれない」

「ただでさえ雅久は嫉妬深いのに、相手が同じ男となると嫉妬の対象が増えるのよ、耐えられる? それでもいいの?」

「耐えるし、信じてるから」

 その言葉に翠は面食らったようだった。

「……どんな人なのよ」

「え……、もの静かでお節介で純粋で、」

「わたしと正反対なのね」

 わざと悪態をついたら、雅久はそんなつもりはないとそれだけは否定した。

「それで?」

「思いやりがあって、……健気な人」

 ありきたりな言葉で、拙いながらもその相手のことを語る雅久は、初恋を知った少年のようだ。その腹立たしくなるほどの一途さが雅久の長所なのだと、翠は今になってようやく思い知る。

「わたしに戻ってくることはもうないの?」

「……ごめん」

「けど、雅久がいくら好きでも、その人はどうなのよ。振り向いてくれない可能性のほうが高いんじゃない?」

「それは……そうだけど」

 いくら圭介が達也を手放したと言っても、肝心の達也が圭介を吹っ切らないことには雅久の入る余地はない。達也は雅久に負けず劣らず頑なだ。心を許してくれてはいるものの、最後の一歩がなかなか踏み込めない。

「でも諦めたくないから」

 声を強くして言った。雅久を憂わしげに見つめる翠の目が揺れている。やがて息を大きく吐いて雅久から顔を背けた時、涙がひと粒落ちた。

「もういい」

「……ごめん、中途半端に寄りを戻して余計に傷つけたかもしれない」

「雅久にその気がないことくらい、わかってたわ。でも、雅久と別れて寂しかったのは本当。昔みたいに戻りたかったのも本当。仕方ないわよね、先に手放したのはわたしだもの」

 席を立った翠はキッチンに戻り、淹れかけの冷めたコーヒーをカップに注いだ。まるで水を飲むかのように一気に飲み干す。ダン、と音を立ててカップを置くと、いつもの気丈な態度を装ってみせた。

「もう用はないんでしょ」

「あ、ああ」

「友達としてなら普通に連絡を取れるわよね。同窓会とかあった時に余所余所しいのはお互い嫌だし。そこは割り切りましょ」

「……勿論」

「今度会う時には雅久よりいい男連れてるから、せいぜい惜しがるといいわ」

 笑ってはいるが、これが翠の強がりだと知っている。雅久は微笑だけして席を立った。翠はもはや雅久がそこに存在しないかのように夕飯の支度に取り掛かる。冷蔵庫の扉で顔を隠して鼻をすすった後姿を見ると心は痛む。雅久は翠が嫌がるであろう本心を言った。

「翠には幸せになって欲しいと思ってる」

 案の定、振り返った翠は鬱陶しそうな表情で言いのけた。

「フラれた男に心配されるのは望むところじゃないの」

 ―――

 急いで車を走らせて自宅へ急ぐ。駐車場に停めた車体が少々歪んでいることも構わず車を飛び出し、共同階段を二段飛ばしで駆け上がって部屋のドアを開けた。全身を巡る血が間に合わないほど早くなる鼓動。震える手で寝室の扉をゆっくり押した。

「おのでら……」

 ドアを開けた先のベッドには誰もいない。寝室に飛び入って見渡したが、達也は寝ているどころか部屋を綺麗に片付けて姿を消していた。続いてリビングに急ぐ。寝室と同様、軽く掃除をした形跡があり、テーブルに置いていたはずの食器も洗われていた。

「……なんで」
 
 ――待っててくれって言ったのに。

 膝から力が抜けてその場にへたり込む。また目前で遠のいてしまった。簡単に振り向いてくれる相手ではないのは重々承知だ。けれども、せめて気持ちくらいは伝えたかった。今後もそれすら許してもらえないのだろうか。
 かろうじてフローリングを照らしていた窓からの僅かな日差しが途絶えた。日当たりの悪い雅久の部屋は、日中でもあまり光が入ってこない。太陽が西に少しでも傾くとすぐに薄暗くなってしまう。刻々と時間が過ぎて、フローリングに落としていた影が繋がり、遠くでヒグラシが鳴いた。


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